第34話 ウエスタンエボリューション(二つのレボリューション)

 エボリューション とは「進化」をさすが、永い目で捉え疑問に感じる所もある。それでも、この出来事がヒト社会を劇的に変えたのは事実だろう。


 レボリューション「革命」とは、コペルニクスの論文「天球の回転について」(1543年)の題名で使用された「回転(Revolution)」地動説を表わす天文用語から後に体制の変革に使われるようになり、最初の使用例は1688年名誉革命である。

 「産業革命」という言葉を使ったのは1837年フランスの経済学者と言われておりライバルイギリスが成し遂げた文明進化の業績への賛辞ともいえる。


 産業革命前夜の1763年、アメリカ・インドでの植民地戦争の勝利によって下地は出来上がっていた。1764年段階では家内工業レベルの多産型小型紡績機が発明され農村工業地帯に広く普及すると、1770年には大型の水力紡績機が登場する。

 ここに工場で数百人の労働者を働かせ綿糸を大量生産する工場制機械工業が始まり紡績改良が繰り返される中、織布過程で世界初の蒸気機関が動力となる織機が発明(1785年)されると更に生産力は増大して、1802年から1803年には主力産業である毛織物の輸出を上回り、1825年には綿の紡績技術は完全自動化された。

 繊維業と並び産業革命の推進役となったのが製鉄業である。鉄製品に対する需要は16世紀から高まっていたのだが当時は石炭に含まれる硫黄が鉄をもろくする問題を解決出来ず木炭を用いたため木材資源がすぐに枯渇して、17世紀には鉄を北欧から輸入する事態となっていた。1709年コークス製鉄法が考案され豊富な石炭の利用が可能になると徐々にイギリス全土に普及し、1760年代からワットの蒸気機関技術と組み合わせ生産効率が上がり1784年、攪拌精錬法(かくはんせいれんほう)発明で良質の鋳鉄が大量に生産できるようになった。

 以降の産業機械の発明と発展は目覚ましく1800年旋盤機によるボルトとナットが量産され、鉄製の手動印刷機が発明されると、1811年にはドイツで蒸気式印刷機が開発される。(製紙の発明と合わせ出版がより盛んになる)

 イギリスにおいての産業革命は1830年リバプール・アンド・マンチェスター鉄道開業をもって一区切りとされ、「70年間に及ぶ緩やかな変化であったが革命以前と以後では社会の情景は激変していた」ブルジョワ(資本家層)とプロレタリアート(労働者層)の新たな格差が生む対立は産業化が進むにつれて一層深刻となった。

 イギリスの工業生産は最盛期の1820年代、一国で世界の工業生産の半分を占め、1870年代まで世界最大の工業国「世界の工場」であり続けた。

 イギリスで産業革命がほぼ完了する1830年代から欧米や日本に産業革命の伝搬が進み、真っ先に鉄道が普及すると一気に国中に広まる。本国イギリスでは民間資本で技術や社会システムが築かれたが、後発諸国の多くは政府が積極的に推進し工業化を成功させた国とそうでない国(植民地や後進国)の国力差は歴然とした。


 フランス革命前夜、国王はフランスの5分の1を所有する絶対主義領主であって、「第一身分聖職者14万人」・「第二身分貴族40万人」・「第三身分平民2600万人」階級システムの頂点に君臨し、聖職者と貴族は年金支給と免税の特権が認められた。

 貴族の中には宮廷貴族と商業貴族(ブルジョワジー)がいたが、貴族社会においてブルジョワジーは成り上がりとみなされ、社会的名誉を受けるため宮廷貴族の寄生に合い事業の利益を吸い取られた。また、自由主義貴族として宮廷や王権が差し出した特権に媚びることなく己の所領からの収益で自立する貴族もいた。彼らは絶対主義の王権に対し比較的自由な立場で物言いが出来た。

 市民の中にもブルジョワジー(資本家)は増えていたが、大多数は農民や労働者で階級社会の最下層を構成した。

 ルイ14世の晩年(1700年代)は莫大な戦費捻出のため国庫は破綻しかかっており重税にフランス民衆は困窮しきっていた。1715年、唯一の幼曽孫ルイ15世(5歳)に「私は多くの戦争をしたが、私の真似をしてはならない」と訓戒を残し崩御する。

 曽祖父と同じく幼くして王位に就くルイ15世は、60年近い治世で曽祖父の戒めに従わず多くの戦争をした。1763年「パリ条約」締結によってカナダ・ルイジアナ・カリブ海に点在する広大な植民地を失い「フランス史上最もみじめな条約」と呼ばれ絶対王政の終焉は間近に迫っていた。

 1765年王太子が薨御すると三男ベリー公が王太子となりオーストリア皇女である「マリーアントワネット」との政略結婚がまとめられ1770年に婚儀が行われる。1774年に祖父ルイ15世が亡くなると、19歳のベリー公がルイ16世に即位した。 

 「私は何一つ教わっていないのに」と嘆いたというが祖父よりはよっぽど真面目に政治に関わり特権階級への課税の実現に動くが、ことごとく宮廷貴族に阻止される。 

 国家財政の破綻が近づく中、パリ高等法院(王権から独立した裁判所)に増税案が阻止され国債増発を発表するがオルレアン公(王太子に続く爵位・自由主義貴族)の反対を受け王権でパリから追放してしまう。パリ高等法院はこれに対して抗議行動を起こすが、王権側は高等法院を抑圧して特権貴族(法服貴族)の司法権を取り上げて裁判所を新設しようとした。

 この措置には自由主義貴族を中心に反対運動が起こってブルジョアジーや市民にも広がっていった。増税は失敗し公債を買い入れる者も無く、1788年に財政責任者は「国庫は空になる」と報告を受け、現金支払いを停止して国庫証券(公債)で支払う命令を発しブルジョアジー(資本家層)に恐慌状態を引き起こした。

 紙幣の信用は無くなり、激しいインフレが起きると正貨(コイン)を多く持てない市民の生活は切迫、困窮を極めてブルジョアジー支配の政治への強い不満につながり極左化の下地となった。

 国王ルイ16世は平民銀行家(ブルジョワジー)を財務総督に任命するしかなく、パリ高等法院は、全国三部会(三つの身分の代表者会議)のみが課税の賛否を決める権利があると主張して平民など広い範囲から支持を受けた。国王は1789年5月1日の三部会招集を約束する。

 5月5日ヴェルサイユに召集された「僧侶300人・貴族270人・平民600人(法律家が半数で大部分がブルジョアジー)」の前で王の命令の下に財政赤字の解消に努力するものと説明した国王ルイ16世だったが、6月には平民が「国民議会」と名乗り決議に国王の拒否権はないこと、国民議会の承認なしに徴税も新税施行もないことを宣言し国王の債権者(ブルジョワジー)切り捨てを防ぐため国債の安全宣言も決議された。

 第三身分の動きに第一身分の僧侶部会も影響を受けて、多くの司祭と少数の司教が国民議会に合流したが、貴族部会の大多数がこれに反対し、国王は武力により議会を閉鎖して、改めて三部会を招集する命令を伝えた。

 国民議会議長は、抗議して隣接する球技場になだれこみ国王の命令に反して決議をおこない「憲法が制定され確立するまで決して国民議会は解散しないことを誓った」「テニスコートの誓い(1789年6月)」

 国王と宮廷貴族(体制側)とブルジョアジーをリーダーとする平民(反体制側)の対立は一触即発であり、7月パリでは暴動に備える戦略が話し合われだした。

 すでに軍隊では給料支払いが遅れていて統率の効かない状態であり、群衆と衛兵が兵器を奪い要塞監獄を占拠すると国王の軍隊は敗北し全国で軍事行動ができなくなり国王は泣いて屈服し、国民議会で「朕は国民と共にある」と和解を宣言した。

 軍事行動を指揮した宮廷貴族は群衆によって処刑され有力貴族は逃亡、国王だけが捕虜同然の身としてフランスにとどまった。

 革命スローガン「自由・平等・財産」はいかにもブルジョアジーが掲げる権力像で資本家(ブルジョワジー)の財力と旧体制側の既得権益の衝突でしかなく、大多数の平民(農民)の意志を反映したものではないのだ。

 革命直後から農民の暴動が各地で起こった。農民は領主の城や館を襲い国民議会は対応に苦慮したが、領主権という制度を単に「地代」に置き換える法案を可決すると暴動は収束していった。

 8月国民議会は「租税の平等」「文官・官職の市民登用」「金銭的特権の廃止」「貴族の官職独占を否定」「官職売買の禁止」を宣言するが、意見は割れた。国王はそれを見て宣言を認めない通告をするが、国民政府は「人間と市民の権利の宣言」を制定(1789年8月)して、「フランス人権宣言」が明記された。

 10月「ベルサイユ行進」によって国王ルイ16世が群衆によって再び宮廷貴族から切り離され軟禁状態に置かれると、まだ領地に残っていた宮廷貴族も亡命に動いた。混乱を収めたこと、宮廷貴族残存勢力が消えたことで国民議会の権力は全国に及ぶ。

 1790年に入り地方自治体の選挙がおこなわれ、身分制度が廃止されて全ての人が「市民」となった。それまで貴族に使われていた「ムッシュ」「マダム」が一般人に使われるようになったのもこの時だ。

 国王ルイ16世はここに至りパリにとどまり国民議会と妥協を重ねる無意味を悟り1791年亡命を実行するが国境近くで捕まりパリに戻される。この事件を契機にして議会王党派の保守層は多くが亡命したが、議決でルイ16世は廃位を免れた。

 「1791年憲法」では立憲君主制を採用して行政権は国王に属し、立法権は議会に属すが国王に拒否権を認めた。選挙権も被選挙権も一定の租税を治める者に限定し「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言されて革命の第一段階が終わる。


 亡命貴族はオーストリア皇帝とプロシア王を頼り、フランス国王の権利回復のため両国が武力行使する決意が宣言されると、フランス立法議会は亡命貴族の財産没収と死刑適用を含む法案を可決し、ルイ16世は拒否権を行使する。議会は主戦と反戦の対立で紛糾し内閣は崩壊した。新閣僚には共和派が就き、亡命貴族への年金や国債の支払い打ち切りや財産差し押さえを決議して、戦争行使への議会の承認を取り付けてオーストリア・プロイセンへ宣戦布告した。(1792年)

 しかし、フランス軍将校は依然として貴族階級であり、革命政府を嫌悪して戦争をやる気がなく国王も王妃も敗戦を望み、軍の作戦計画はオーストリアへ内通されて、フランス軍は各地で敗走した。こうした事態から軍隊の再編が痛感された。

 議会は「国家は危機にある」と宣言して、それに答える義勇兵がパリに集まりだしルイ16世のいる宮殿を包囲した。これに貴族階級が権益を守るために命運をかけて立ちはだかり死闘となった。武装蜂起側は貴族軍人を虐殺しながら宮殿を占拠して、旧体制へ寄生性の強い特権的なブルジョアジーや自由主義貴族・地方貴族(領主)は一様に敗北し王権は停止された。「8月10日事件」

 次の政権は、ブルジョアジーだが特権に関わりが薄く「封建領主権の無償廃止」を実現して農民の土地保有が認められた。

 「パリ・コミューン(革命自治体)」が労働者の自治政府として、新たにパリ市を治める権力となり、プロイセン軍がパリに迫ると義勇兵募集や戦略物資調達に動く、極左的性格から反革命容疑者の捜査と逮捕で3000人を拘束すると、処刑すべきとの案に扇動された義勇兵が牢獄に押しかけ即席裁判で容疑者を殺し回る惨事が起きる。

 義勇兵(連盟兵)は、フランス各地から集まる自費で武装したブルジョア子弟で、貧しい階級はブルジョアの費用で武装した「ブルジョア傭兵」だった。士気の高さと覚悟の強さにプロシア軍は後退を余儀なくされ義勇軍は善戦しドイツ領に侵攻した。

 9月、国民公会(議会)が招集されて、王政の廃止と共和制の樹立が宣言される。ルイ16世の死刑が決議され、1793年1月ギロチンにかけられた。(第一共和制)


 1793年3月、フランス軍は敗戦に転じ侵略された。原因は軍の待遇悪化で義勇兵が減ったことと、革命政府が初期の戦勝に浮かれ征服と拡張政策に傾倒し世界革命的なイデオロギーを正当化したため、ヨーロッパ国家間で敵を増やしたことによる。

 戦況悪化に伴いフランス国内の経済は悪化し貧民の暴動を誘発するが、力で弾圧は献身的な民衆を戦争に動員できなくなる。議会主導の経済対策は派閥都合に左右され紛糾したが次第に左派勢力が権力を握った。

 1793年6月、左翼政権(山岳派)が成立すると国内混乱に対処するため公安委員と保安委員を選出して警察権力を発動する。食料品の高騰や買い占めからブルジョワやフランス政府に対する貧民の暴動が起こる中で過激派は非常手段を要求し国民公会に圧力をかけて主流派であった貿易商人や問屋商人の派閥を追い落とし弾圧して、王妃マリーアントワネットもギロチン台におくった。(1793年10月)

 過激派は群衆を扇動して国民公会(議会)を包囲すると「反革命容疑者の逮捕」と「食料調達のための革命軍編成」を要求した。これらは後に「恐怖政治」と呼ばれて革命裁判所によって反革命容疑者の死刑宣告が次々おこなわれ、生活必需品の価格は市場で強制的に決められ、商店がカラになるとコミューンによる配給制が実施されて買占め人は即座にギロチン台におくられた。革命軍の食料調達は農村の家宅捜査まで及び違反者を処刑して回った。都市の食糧事情が少し改善すると人心は収まって行き戦争が勝利に転じると過激派先導者は消えていった。

 革命政府のとった非常手段は効果があった。下層民の生活は安定して、フランスは団結して反革命分子と外敵との戦闘に臨み、フランス軍では正規軍と義勇兵の区別がなくなり平民将校が士気を高め勇敢に戦った。暴利をむさぼっていた御用商人粛清で軍装備は格段良くなり、工業がフル稼働を始めると武器弾薬が豊富に供給され戦争は優位に展開される。1793年末、革命政府は内外の危機から解放された。

 この時革命スローガンは「自由・平等・友愛」に変わった。


 1794年フランスが危機を脱する中、革命急進派は更に汚職議員や腐敗議員の逮捕

・裁判の権限行使を国民公会に求めるが大多数から反対を受ける。議員には何らかのやましいところがあるからで、逆に「急進派は独裁者である」との批判が向けられて国民公会によって逮捕・処刑された。急進派一掃が終わるとブルジョアジーの財産は回復され、もと通りの活動が再開されフランス革命は終わった。


 1795年「共和国憲法」が制定されて、議会内閣制ではあったが立憲君主制の中でブルジョアジーと大土地所有者(元宮廷貴族)の代表者が絶対的に優位な制限選挙に逆戻りした。

 その後はナポレオンの第一帝政(1804年)、ナポレオン失脚後の王政復古から、七月革命(市民革命1830年)へ続いた。

 この時に、三色旗(トリコロール)がパリの時計台にはためいてブルジョアジー(中流階級)が自由主義を取り戻すが、立憲君主制は存続し革命の主体勢力であったプロレタリアート(無産階級)はその後も報われないまま不満を溜めてゆく。

 1848年、議会に反対する労働者・農民デモに学生が合流してシャンゼリゼ通りに階級闘争(社会主義)を叫ぶ群衆が集結する。鎮圧軍に対しバリケードを市街各所に築いて抵抗を続け「二月革命」国王が退位して左派(社会主義)と右派(自由主義)連合政権の「第2共和政」に移行した。

 左派は三色旗から赤旗掲揚を求めるが「公正と友愛」と「階級闘争と恐怖政治」の印象評価に悩むとリベラル(中道左派)が選択され「自由民主主義」が擁護された。


 ヨーロッパで起きる二つのレボリューション(革命)の根底には「あらゆるヒトに共通する合理的理性(啓蒙主義)」の存在がある。

 啓蒙主義とは簡単に言うなら古い思想や慣習を合理的に打ち破る進化の形である。しかし、その環境は一様でなく当然生み出す答え(進化の形)も違う。唯一共通する「コスモポリタニズム(世界共通主義)」とは、国家の枠組みにとらわれずに共通の思想を持つ連帯意識だそうだが、これこそが「ヨーロッパ帝国主義」の正体であり、啓蒙思想によって世に生まれた新たな価値観を、その合理的な理性で世界に一方的に押し付けたのだ。

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る