第33話 ウェスタンエボリューション(アングロサクソンの侵略)

 いきなり余談だが、イギリスが好きだ。死ぬ前にもう一度ロンドンのあの街並みを歩きたいし何とも言えないユニーク(ブラックジョーク)な白人至上主義を感じてもみたい。ただ、最後が30年も昔の話で何もかも変わってしまったことだろう……

 

 トマス・セイヴァリが1698年開発しトマス・ニューコメンが改良した蒸気機関は1769年ジェームズ・ワットによって洗練された。この三人はいずれもイギリス人で「産業革命」の父である。

 1800年ワットの特許が失効すると、蒸気圧への制約がなくなって高圧蒸気機関の開発が進む。1807年にはアメリカ人によってハドソン川で外輪型蒸気船の実用化が始まり、1840年には高速航行と安定性に優れたスクリュープロペラが普及した。

 1804年に生まれた蒸気機関車は、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道運行(1830年)に結び付き「鉄道」が瞬く間に世界に普及する。


 ポルトガル・スペインに遅れること100年、オランダ共和国と共に大航海時代へと乗り出したイギリスはアジアに進出し、主にスパイス産地やインドを拠点に展開する一方で、北米大陸へ多数の植民者を送り出した。(イギリス東インド会社1600年~1874年・オランダ東インド会社1602年~1800年)、(バージニアジェームズタウン1606年植民開始、1664年にはニューアムステルダムを併合しニューヨークとした)


 イギリス(ユナイテッドキングダム)とは、イングランド・ウェールズ・スコットランド(グレートブリテン)とアイルランド(2022年現在北アイルランドのみ)の連合王国である。先史時代はケルト人の部族社会の上にローマ帝国が君臨していたがゲルマン民族(アングロサクソン)が侵入するAD500年、ローマ人はブリタニアを放棄してアングロサクソンによりイングランドが形成される。一方でウェールズではケルト系住民による中世となりスコットランド・アイルランドもゲルマン人の征服を受けずにケルト系の小国家が継続した。

 イングランドではその後、デーン人(デンマーク)侵攻(1013年~1042年)から1066年フランスノルマンデー公の征服を受け、支配層にフランス系貴族が台頭して複雑に絡み合う。100年戦争(フランス人王朝同士の内乱1337年~1453年)によって大陸領土を失うと(フランスとの国境線確定)、ブリテン島王国アイデンティティの成立につながってゆく。

 スコットランドでは1292年イングランド王エドワード1世侵攻に象徴されるようにイングランドの軍事侵攻に常に晒されフランスとの同盟で対抗してきた。

 ウェールズはエドワード1世が子エドワードに「プリンス・オブ・ウェールズ」の称号を与えて政治的支配下(1282年)に入るがケルトの文化的アイデンティティは存続し続けて現在に至っている。

 アイルランド地方も12世紀ごろからイングランド干渉を受けるが独立を守った。


 15世紀初頭からヨーロッパ全土を巻き込む「宗教革命」はブリテン島にも及ぶ、ヘンリー8世離婚問題により成立した「イングランド国教会」は子エリザベス1世の統治時代(1558年~1603年)に確固たる地位を得る。

 スコットランドでは16世紀にカルヴァン主義(プロテスタント)が主流となって、アイルランドはカトリック世界に残り、フランスやスペインと近い関係となる。1536年ヘンリー8世はアイルランドへ再侵入を試みてアイルランドを植民地化すると1541年に在地貴族の支持を得られないまま、従来の「アイルランド卿」に代えて「アイルランド王」を自称した。

 アイルランドでは支配層(イングランド人)によるカトリックへの差別が始まる。

スコットランドとイングランドの王家が婚姻(1503年)によって同盟関係になると

100年後の1603年にエリザベス1世が独身のまま死去(バージン・クイーン)して、スコットランド王ジェームスがイングランド王を兼任し同君連合となった。

 これを契機に1606年、イングランドの「セント・ジョージ・クロス」とスコットランドの「セント・アンドリュー・クロス」を重ね併せた「ユニオン・フラッグ」が生まれたのだ。(※アイルランドの植民地化は続いた)

 イングランド国教会のシステムが元はカトリックであるジェームスの王意によってスコットランドに強制されると、市民の反抗から戦闘(1639年~1640年)が起こりピューリタン革命(清教徒革命)1642~1649年へつながって、王位を継いでいた二男チャールズ1世は処刑され、イングランド共和国が成立する。

 王位継承者であるチャールズ2世はフランスへ亡命し、共和国軍は王党派弾圧からアイルランドやスコットランドへ軍事侵攻して政治干渉を続けイングランドでは1653年には共和国リーダーであるオリバー・クロムウェルの独裁政権と化した。

 チャールズ2世はアイルランドやスコットランドを足場に「王政復古」に動いて、クロムウェル亡き後イングランドで王政復古を認められるが次の王位継承候補であるジェームス2世はカトリック教徒でありプロテスタントが占めるイングランド議会と対立が深まった。

 そんな事情から後継を期待された長女メアリーはプロテスタントとして育てられてオランダ総督ウィレム3世(プロテスタント)に嫁いでいた。

 国王チャールズ2世の子が流産して弟ジェームス2世の王位継承が現実味を帯びるとロンドン市民の反カトリック運動は過熱し、議会ではジェームス2世王位排除法案が提出され紛糾したが、国王チャールズが何とか反対派をかわしていた。

 1679年からジェームス2世はネーデルラント、スコットランドと移って王位継承の根回しを進め人気採りに努め、血筋優先の保守派を取り込む。国王チャールズ2世がイングランド議会を解散させると急進派の国王暗殺計画まで露呈したがこれを未然に阻止し、国王チャールズ2世が1685年亡くなると弟ジェームス2世が即位した。

 その後、イギリス王ジェームス2世が「カトリック絶対主義」を振りかざし議会を解散させると、急進派はオランダ総督でイギリス王位継承順位の高いウィレム3世に近づきプロテスタントの英雄として向かい入れようと考えた。

 オランダとしてもカトリック強国フランスと対峙するためイギリスの国力を必要としており利害は一致している。1688年6月ウィレム3世に正式な王位継承を要請する招聘状が届くと9月には軍事侵攻が明白になって、フランス王ルイ14世はカトリック世界を守るためジェームス2世に援軍を申し出るのだがイギリス王ジェームス2世はこれを断り自前で軍隊を組織する。人気のないジェームス2世は結局兵を集められず無抵抗でオランダ軍によるブリテン島上陸を許してしまう。

 ジェームス2世は国璽(こくじ)をテムズ川に投げ捨て逃げフランスに亡命した。歓喜のロンドンに迎えられたウィレム3世は仮議会を招集して国王即位の承認を受けイングランドではウイリアム3世と妻メアリー2世の共同統治が始まる。(名誉革命1688年~1689年)これ以後はスコットランドとアイルランドが次々と平定されて、1707年合同法でイングランド・スコットランド一体化(グレートブリテン王国)とアイルランドではイングランドの植民地化が徹底されることとなった。


 1613年日本(平戸長崎)にイギリス東インド会社(1600年設立)商館が開かれる少し前、1606年「バージニア勅許会社」が設立して北米大陸へ入植が本格化した。 

 エリザベス1世が「アマルダの海戦(1588年)」でスペイン無敵艦隊を破ったのはスペイン貿易船をカモに大金を稼いだ「海賊フランシス・ドレーク」と手を組んで、実質的な艦隊司令官を任せたからで、世界の海を襲った海賊フランシス・ドレークはエリザベス1世のお墨付きを得たことで、当時の国家の年間歳入以上の30万ポンドを王室に上納して、その資金を基に「大英帝国の礎」が創られていったのだ。

 列強ひしめく西欧の本物のリアリズム(現実主義)は何かと道理や秩序を重んじる我々の文化マインド理解を超えるが、その理屈こそ「実は現代文明の本質」である。


 勅許会社とは特許会社とも呼ばれ、主にイギリス・オランダで国王・女王の勅許を得て設立された貿易を主とする会社が始まりである。経済活動リスクの見返りとして経済貿易独占権を認めるもので、1555年イギリスで設立された「モスクワ会社」が最初の例で1600年イギリス東インド会社と続いてゆく。イギリスでは各航海ごとに出資者を募り航海後に清算解散していたが、フランスで先んじて継続的な勅許会社が作られるようになり、今日の株式会社に発展してゆく。

 「特許」の概念が認められた記(しるし)は、古代ギリシャBC500年で植民都市シュバリス(イタリア半島南部)において、「独創的な料理の創作者たちに1年間の排他的な権利を認めた」のが最初といわれる。イングランドでは、請願が承認された発明者に対し「君主が開封特許状を裁可して」賦与された。1331年の開封特許状は受領者に「特定の商品の製造あるいは特定のサービスの提供に対する独占権を与えている」、1449年にはヘンリー6世が発明に対し20年間の独占を認めた例がある。

 近代的特許制度は、1450年ヴェネチアガラス職人の移住先での特許による保護が最初といわれ、1555年フランスでの特許解説書の市場公開という概念につながり、新規性の有無を審査する「科学アカデミー」や承認機関の整備が進んでゆく。

 発明者の創作心を刺激する「知的所有権」を最初に認めたイングランド特許制度は「産業革命」へ国を導く重要な法的基礎となった。

 しかし、これは国王(国家)が金を工面するため幅広く濫用されることに繋がり、国王(国家)はあらゆる種類の日用品(たとえば、塩)に関する特許を賦与しだす。 「専売条例(1624年)イギリス国王ジェームス1世」結果として、裁判所は特許が賦与される状況の制限を始めた。

 大衆の激しい抗議によりジェームズ1世は議会に強制され、すべて既存の独占権を無効にして、それらが単に「新規発明の事業」に使用されることを宣言した。

 これは専売条例に取り入れられ、国王が発明者または原発明の紹介者に一定年数の開封特許状を発行することができるに過ぎなく、国王の力を制限したものだった。

 

 このイギリス国王ジェームズ一世に初代将軍家康に仕えたウイリアム・アダムス(三浦按針)が手紙を送り、東インド会社商船が来航し平戸にイギリス商館が築かれ二代将軍秀忠が鎧などを贈り(ロンドン塔に現存)貿易が始まった。(1613年)

 その後、オランダとの貿易抗争に手を焼いたイギリスはインド貿易にシフトしたがジェームズ1世の理想主義的平和政策(エリザベス1世が屈服させたスペインと和睦して私掠船(海賊)を禁止し、財政難から海軍増強を怠った)は失敗した。

 ピューリタン革命(1642~1649年)の後に、1657年オリヴァー・クロムウェル(初代イングランド共和国護国卿)の「重商主義」政策の一環から会社組織の変革(カンパニー制導入)の成功で力をつけたイギリス経済は1670年~1680年にかけて空前の好景気に沸いた。東インド会社が運ぶ綿製布にヨーロッパ市場で莫大な需要が生まれ、株式は裕福層にとって投機の対象となり巨万の富を生んだのだ。

 1623年にイギリスはオランダとの東南アジア貿易抗争に敗れて「香辛料」というヨーロッパで最も重宝された商品を失っていたが、「綿貿易」はそれを補うに足りる莫大な富を生んだのだ。

 しかし、インド貿易の拡大はイギリス本国から大量の「銀」の流出を伴ったためにイラン南部バンダレ・アッバース(1615年ポルトガル支配から解放)の貿易により「金、銀、銅」の金属を手に入れる必要があった。貿易通貨「銀」獲得の重要性は、世界共通である。日本でも1635~1641年はスペイン・オランダに大量に輸出したが1668年には「銀」の流出を防ぐため輸出禁止の措置がとられた。

 イギリス東インド会社は、1639年南インドチェンナイに進出マドラスと改称して有利な条件で貿易拠点を築くと1717年には東インドベンガルまで深く浸透したが、フランス王ルイ14世による重商主義政策(1664年)で急速進出するフランス艦隊にインド支配を脅かされだす。

 フランス勢はムガル帝国(在地勢力)を後援して三者が絡んだ戦闘に発展したが、1757年「プラッシーの戦い」でフランス・ベンガル太守連合軍がイギリスに敗れて以降「インド支配はイギリス東インド会社のもの」となりフランスは撤退してゆく。

 

 同じころ北米大陸でも同じような戦争があった。「フレンチ・インディアン戦争(1754~1763年)」はイギリス入植地軍とフランス軍及びフランスと同盟を結んだ様々なインディアン部族との戦争であった。

 ヌーベルフランス(北米フランス入植地)と主にバージニア植民地(イギリス方)境界線での紛争でケベックやモントリオールを攻略したイギリスは北米大陸東半分の支配を固めたが、戦争による出費は深刻でイギリスの国債はほぼ2倍になり、債務を支払うため国王ジョージ3世はアメリカ13植民地に対し砂糖法(1764年)など新税を次々に導入して財源に充てた。最終的にこれらの課税条例が「アメリカ独立戦争」につながってゆくことになるが少し先の話だ。(1775年~1783年)

 この戦争の勝利からフランスとの植民地獲得競争の優位を確実にしたイギリスでは植民地貿易の一層の利潤蓄積が可能となり1760年代以降の「産業革命」へと進む。 

フランスにとっては戦費負担が国力を弱め1789年「フランス革命」の遠因となる。


 結構、怖い話し

この戦争において「天然痘ウイルス」がイギリス軍によって生物兵器的な使われ方をしたと言われている。「インディアンに対しウイルスの付着した毛皮を贈る」行為が必要におこなわれたが意図的かどうかわからないとされる……


 またフランス帝国が江戸幕府を支援したのに対抗し、イギリスは民間の武器貿易で薩摩藩や長州藩に近づいて体制転覆に加担したのは周知の事実である。

 坂本龍馬や五代友厚に岩崎弥太郎らと深く結びつく武器商人トーマス・グラバーのグラバー商会はアヘン貿易の主役を担うジャーディン・マセソン商会が日本に作った代理店である。ジャーディン・マセソン商会は清のアヘン輸出禁止令に対抗するため英国議会にロビー活動を行い、大英帝国艦隊を清に展開させた張本人であった。

 初代内閣総理大臣となった伊藤博文は、1863年維新の5年前にグラバーの手引きで英国留学を果たしている。明治維新は英国のアヘンマネーを背景に薩長の下級武士が皇室を「錦の御旗」に政治利用して、徳川から政権を奪取したクーデターといわれる所以でもあるのだ。


 



 







 


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