第32話 江戸退廃文化

 十代将軍徳川家治は祖父八代吉宗の期待を一身に受けて育った。父九代家重に従い田沼意次に幕政の一切を委ねたため暗君とされているが、田沼意次による経済政策の再評価によってその治世の評価も変わりつつある。

 世子家基が18歳で急死したため1781年一橋家二代当主徳川治済(八代吉宗孫)の長男豊千代(十一代将軍徳川家斉)を養子とした。

 1786年十代将軍家治が急死(享年50歳)すると田沼意次は失脚に追い込まれる。15歳で十一代将軍となった家斉は徳川御三家から推挙された松平定信を老中首座に任命して『寛政の改革』が始まり積極的な幕府の財政再建が図られたが、厳格過ぎたため将軍家斉や幕府上層の不評をかう。1793年松平定信は罷免されて寛政の改革を支えた老中達も幕政の中枢から離れると、将軍家斉は側近政治をおこない財政破綻と政治腐敗が侵攻する結果を招き、地方では幕府に対する不満が上がるようになる。 

 天保の大飢饉(1833年~1839年)の最中起きた『大塩平八郎の乱(1837年)』は百姓・町人による一揆とは異なり、支配階級である武士が幕府に反旗を翻したことで江戸社会に大きな衝撃を与えた。

 家斉は将軍在職50年の後、世子家慶に将軍職を譲るが(1837年)、大御所として実権を握り続け1841年69歳で死去するまで退廃的・享楽的な時代を牽引し続ける。

 後に『天保の改革』を主導した水野忠邦は1839年には老中首座に任じられたが、本格的な改革が始動するまでには大御所家斉の死去を待たねばならなかった。

 

 この時代は、260年以上続いた徳川幕府の中でもとりわけ「泰平の世」であったとされるが財政破綻と政治腐敗が蔓延り、増加する外国船の接近に対しては対症療法に終始し明確な姿勢を打ち出せないなど幕藩体制にはほころびが表れていた。しかし、大御所家斉自身が政治に興味を見せず、厳しい改革が行われなかったこともあって、自由な気風の中で庶民文化が花開き、「江戸文化」は最盛期を迎えていた。

 その特徴は退廃的・享楽的・観念的江戸大衆文化で「しゃれ」や「通(つう)」が好まれた。芸術作品においては何といっても『浮世絵』葛飾北斎・歌川広重だろう。また、歌舞伎がブームで、三味線も依然として人気があった。学問(教育)の普及も目覚ましく儒教・国学・蘭学などが藩校や寺子屋で学べる時代となっていた。

 『解体新書』杉田玄白や日本のダビンチ平賀源内に生粋の古国学者本居宣長など、そうそうたる顔ぶれの学者を輩出している。


 一二代将軍家慶は45歳で将軍に就いたが(1837年)、父家斉(大御所)の死後に四男家定を後継に定め、水野忠邦に家斉派を粛清させて『天保の改革』を行わせた。徹底的な奢侈(身分を越えた贅沢)の取締りと緊縮財政政策を採用したため、世間に支持されず、また言論統制も行なわれ開明的な蘭学者を弾圧した(蛮社の獄)。 

 改革は、江戸町奉行を通じて江戸市中にも布告されて、華美な祭礼や贅沢・奢侈はことごとく禁止される。江戸町奉行遠山景元(遠山の金さん)は厳格な統制に対して上申書を提出し、見直しを進言するが庶民にとって厳しい時代は続いた。

 余談だが、大岡忠相(大岡越前)と遠山景元(遠山の金さん)は100年ほど時代が違う。テレビドラマとして今も茶の間に伝わるが、江戸幕政に威厳があった時代と、どこか退廃的な江戸後期の時世の描写を比べると見事に違いプロの仕事である。


 九代将軍徳川家重の時代『第116代桃園天皇』が即位(1748年7歳)して10年後、朝廷内では幕府から朝廷運営を一任されていた摂家の衰退によって、他家の公家達の抑えが効かなくなっていた。若い公家達の倒幕思考を察知した摂家の関白一条道香は京都所司代(幕府方)に相談を掛けるが深刻には受け止められずに放置されていた。

 神学者である竹内式部の尊王論に強く感化された彼らは君徳涵養(帝王学)のため若い桃園帝に対し竹内式部の学説にのっとった日本書紀を進講したのだが、幕府との諍いを恐れた摂家(一条家・九条家・鷹司家)は神書講義の中止に動いた。ところが桃園帝自身が講義の再開を求め近衛家が内密に応じたため、それが露呈すると諍いが起こり、天皇の近習は粛清され、竹内式部まで奉行所に拘束された。(宝暦事件)

 桃園帝は1762年22歳で急死してしまうが、朝廷内の混乱はこれを契機に広がって異母姉(桜町帝二女)が『第117代後桜町天皇』として即位したのは、皇子が5歳という幼齢であることと、宝暦事件の余波から幼帝と摂家の間に割って入る公家勢力を警戒したためであった。二代将軍秀忠の孫であった第109代明正帝以来119年ぶりの女帝誕生であった。9年後1771年甥に譲位し、『第118代後桃園天皇』が予定通りに即位して、後桜町上皇となる。

 1779年、後桃園帝が皇子のないまま22歳で崩御すると、皇女欣子内親王を皇后に世襲親王家の閑院宮家から9歳祐宮を養子として『第119代光格天皇』が即位した。

 光格帝は後桜町上皇に導かれ成長すると、『天明の大飢饉』の際には家康が定めた『禁中並公家諸法度』の伝統の掟を破って幕府に民衆の救済を申し入れるなど権威の復権に努めた。1800年欣子内親王(中宮)との間に生まれた皇子が早世すると皇位継承を定めるため恵仁親王(後の仁孝帝)を中宮の養子にして皇太子とした。

 新嘗祭など朝儀の復活に努め、近代天皇制への下地を作ったとの高評価を残して1817年に譲位し、1840年崩御した。(享年70歳)

 『第120代仁孝天皇』は父光格帝の意を受け朝儀復興に尽力し、父の悲願であった皇族や公家の子弟の教育機関の設置構想が現実となった矢先に崩御(享年47歳)。翌年1847年に、仁孝帝の遺志によって御所の外郭に公家講学の学習所が設立されて『第121代孝明天皇』の勅額により学習院(京都学習院)と名乗るようになった。


 孝明帝は明治天皇の父君である。1846年即位して直ぐに幕府に対し「海防強化、及び対外情勢の報告」を命じ、幕府は異国船の来航状況を報告した。


 十二代将軍徳川家慶は14男13女を儲けたのだが成人に至ったのは四男の家定だけ家定もまた病弱で人前に出ることを極端に嫌ったという。家慶は家定の将軍としての器量を心配し一橋家の徳川慶喜を将軍継嗣に考えたというが、老中阿部正弘の反対を受けて結局は家定を将軍継嗣とした。(1841年)

 1853年家慶が病没すると十三代将軍徳川家定が誕生する。

 祖父十一代家斉は向き合わず遊びほけ、父十二代家慶は目を合わせず締め付けて、江戸の時世はすっかり歪んでしまっていた。

 時代の知識層の中には外に目を向け、手にある民衆の幸福が外敵によって不条理に壊されてしまう危機感から幕府の在り方を強く批判するものが現れだしていた。


 1639年ポルトガル船来航を禁じて「鎖国」体制に入って以来、最初に開国通商を迫ったロシアのラクスマンは、1792年北海道根室に来航して江戸への直航と幕府と接見を求めたが、幕府は長崎以外に異国船入港を認めないとして長崎入港の許可書を交付した。12年後の1804年、許可書の写しとロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を携え長崎に入港したレザーノフ一行は半年間の交渉の末に受理されず退去を命じられ帰国途中の樺太・択捉・礼文の日本人入植地を攻撃し幕府を警戒させた。

 江戸中期3000万人を突破した日本の人口も大きな変動はなくなり安定期に入って江戸は100万人が暮らす世界最大都市(1801年ロンドン約86万人・パリ約67万人)となっていた。鎖国下でゆっくりと着実に育まれ世界最大に成長した独自の都市文明をどう解釈して紐解くかは非常に重要で「持続可能(サステナブル)な定常型経済」(活発な経済活動の下でも経済規模の拡大がほぼ無い社会)の生成は縄文文明同様にヒト文明思想の革新へ大きなヒントとなるはずだった。

 しかし、縄文時代と同様に日本列島は逃れようない外圧に飲み込めれてゆく。

 

 

 

 

 




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