第36話 フィフス・インパクト(幕府終焉①)

 第121代孝明帝が幕政を批判して水戸藩に直接命令を下したことは、200年以上も続けられた社会体制を否定して「幕藩体制」の根幹を揺るがしかねない一大事であり幕府閣僚がこれに関わった水戸藩士や反幕府の政治活動家を捕らえて処罰したことで「尊皇攘夷」という幕府に抗う思想がかえって熱を帯びてしまう。

 「尊皇攘夷」とは主君(天皇)を尊び外敵(異国)を斥けようとする思想を指す。元は古代中華のものだが、水戸藩校弘道館の教育理念に藩主徳川斉昭が取り上げて、幕末の「政治スローガン」となってゆく。


 十三代将軍家定の体調悪化により後継者争いが激化すると彦根藩主井伊直弼が推す南紀派の徳川慶福(家茂)と、島津斉彬や徳川斉昭ら一橋派が推す一橋慶喜の両派が競った。一橋派にクーデターの嫌疑がかかると井伊は将軍の意向で大老に就任する。

 将軍家定はそれまで表舞台に出ることはほとんど無かったが、1858年7月29日に「日米修好通商条約」が調印されると、1858年8月4日諸大名を招集して従弟である慶福(家茂)を将軍継嗣にする意向を宣言した。8月14日には条約の調印に反対して幕府を非難した松平春嶽(慶永)、徳川斉昭ら一橋派の諸大名の謹慎処分を発表する異例の行動力を見せると、翌日に死去した。(享年35歳)

 養子となった慶福(13歳)が家茂と名を改め一四代将軍に就き一橋派は破れる。


 その後、朝廷は「参内して無断調印の説明」を井伊大老に命じたが、自身は拒んで新任の老中と京都所司代を上京させている。

 こうした情勢の1858年8月24日に薩摩藩主の島津斉彬が急逝したため、リーダーを失った尊王攘夷派は失意の中で「攘夷決行」を朝廷に働きかけ、9月14日孝明帝より「戊午の密勅」が水戸藩に下賜された。これを履行しようとする幕政反対勢力に対し井伊大老は「安政の大獄」を仕掛けたのだ。


 幕府は無断調印に関し「本意でない」こと「海岸の防備を固めて国力がついたら和・戦のどちらかを選ぶ」ことを、幕府寄りの九条関白を通じ言い訳するが孝明帝は「開国は日本国の瑕瑾(傷)であり承知はできない」とする強い意思を伝える。

 幕府使者が参内を繰り返し、言い訳を続ける一方で、反抗的な皇族・公卿に対する処罰は続き、孝明帝が「心中氷解(心中の氷のようなわだかまりは解けた)」として幕府の無断調印を受け入れた後にも、朝廷内での落飾(公卿追放)が相次いだため、孝明帝は九条関白を通じ幕府に公卿の処罰回避を要請するが叶う事はなかった。

 幕府にとって「公武合体」(朝廷権威を取り込む幕藩体制の再編)は必至であり、十四代将軍家茂には朝廷と縁戚を結ぶ重要な任務が託されていた。

 1860年幕府は朝廷に和宮(皇妹)の将軍家降嫁を奏請するが2度拒否されていた。孝明帝は周囲の説得で3度目には「鎖国と攘夷実行」を条件として承知の意を示すが幕府は誓約できずに3度目も却下される。その後、幕府方が「情勢に応じて十年内に条約破棄か征討を加える」と誓約したので、孝明帝は将軍家降嫁の勅許を承知して、若宮自身が受諾すると1860年12月26日江戸城に入り1862年婚礼となった。

 井伊大老が主導する「安政の大獄」は苛烈を極めた。一橋派松平春嶽側近を勤めた福井藩橋本左内も、後世に多くの門弟を送り出した長州藩吉田松陰も1859年11月に死罪となり、「戊午の密勅」返上の朝旨(命令)を朝廷より取りつけた井伊大老は「帝の意志に逆らう水戸藩の陰謀である」として水戸藩主を継いだ徳川慶篤に迫って「戊午の密勅」返上を申し渡し、逆らえば父徳川斉昭に違勅の罪を問うて、御三家の水戸藩取り潰しまで持ち出し脅したのだ。

 これに激怒し脱藩して地下に潜った水戸浪士の襲撃計画が進む。不穏な空気の中で井伊大老は政務を続け、恨みを抱く水戸藩士・薩摩藩士が潜伏して決起の機会を伺い1860年3月24日「桜田門外の変」で井伊大老はついに惨殺された。

 老中阿部正弘や徳川斉昭・島津斉彬らが主導してきた「雄藩協調体制」を否定し、「幕閣の絶対主義」を反対者の粛清によって維持しつつ、朝廷の政治介入を阻止する大老井伊直弼の専制政策は、自身の死によって決定的に破綻した。

 そればかりか、御三家の水戸藩と譜代大名筆頭井伊家が反目して、刃傷沙汰にまで発展して藩主の暗殺に及び、長年持続した幕府権威は大きく失墜し、尊王攘夷運動が更に激化する発端となったのだ。

 

 薩摩藩西郷隆盛・大久保利通、長州藩桂小五郎(木戸孝允)、土佐藩武市半平太に公家の岩倉具視など王政復古や鎖国継続を構想した「倒幕派」に対して、公武合体を心棒する会津藩・薩摩藩の「佐幕派」が不穏分子を鎮圧する形で幕末動乱が進むが、 

 薩摩藩は生麦事件(大名行列薩摩藩士と騎馬イギリス人の殺傷事件)の治外法権を発端に起きた薩英戦争(1863年8月)を経て、討幕派西郷・大久保に主導権が渡る。

 長州藩は長井雅楽の「航海遠略策(単純な外国人排斥や不平等条約破棄だけ目指す破約攘夷でなく、積極的な世界通商で国力を増強し諸外国と対峙する)」を藩論とし佐久間象山・吉田松陰などと同様の先駆的「大攘夷思想」を展開していた。

 「欧米諸国と紛争を避け、なし崩しの内に開国しようとする幕府」「それを阻止し強硬に攘夷へ転換させようとする朝廷」両者の対立は混迷を極めて、京の都は攘夷・討幕・王政復古を掲げる過激な浪人が集まり、もはや暴発寸前である。

 長州藩においても長井雅楽ら開国派は、久坂玄瑞ら尊攘派(急進派)に押されて、藩論を「攘夷」に転換させるに至った。

 

 1860年9月に「安政の大獄」で罪状不明の隠居謹慎となっていた一橋慶喜の謹慎が解除され、1862年慶喜は「将軍後見職」に任命されると、急進派の意見に押されて破約攘夷(条約破棄の強行)やむなしとする幕府の情勢に「万国が好を通じる今日に日本のみ旧態依然とした鎖国に固執すべきでない」と説き、開国やむを得ない情勢を帝に奏上すべきと考えたが、幕意が割れる中、「延議が攘将軍となりかねない」との山内容堂の助言で自論を抑えた結果、幕議は「朝廷へ破約攘夷の奏上」に決した。

 1863年2月、攘夷実行について朝廷と協議するため十四代将軍家茂は将軍としては229年ぶりに上落、義兄となった孝明帝に参内することとなった。

 慶喜は先駆け上洛して将軍名代として交渉にあたり、鷹司関白らに対し攘夷実行を含む国政全般を従来通り幕府へ委任するか政権を朝廷に返上するか二者択一を迫る。しかし、朝廷は「幕府へ大政委任」を認める一方で「国事に関して諸藩に直接命令を下すことがあり得る」との見解を表明した。

 幕府としては攘夷実行を迫られただけで権威回復は望めず交渉は不成功に終わる。松平春嶽が朝廷の要求に反発して政事総裁職の辞表を出す一方で、一橋慶喜はこれを受け入れる姿勢をとり幕閣の猛反発を招いたが、もはや幕府に諸藩統率が不能な事を慶喜はよく解った上で国家としての姿勢を整える事を優先したのだろう。

 1863年4月、孝明帝は天皇として237年ぶりに御所を出て十四代将軍家茂を伴って攘夷祈願に神社参拝を巡るが、源氏ゆかりの石清水八幡宮では、尊攘急進派の長州藩

・三条実美ら公家が画策した「節刀御拝の儀式」をかわすために、慶喜は将軍家茂を病欠させ、名代で出席することとなった慶喜自身も直前に急な体調不良を訴え儀式を欠席した。(1863年4月)

 その後、こうした将軍家の対応に激怒した尊攘急進派から慶喜は「天誅」の脅迫を相次いで受けることになったのだが、興味深いのは、孝明帝も儀式へサボタージュを試みて三条実美に阻止されている。つまり、将軍家も天皇でさえ尊攘急進派に憤りを感じながら情勢に合わせるしかなく、尊皇攘夷討幕派の中心人物である三条実美らは長州藩の急進派と結託して、ある意味で「帝をないがしろ」にしたのだ。

 朝廷に攘夷決行を約束した「文久3年(1863年)5月10日」に向けて幕府は動く。慶喜の指揮下どうにか「生麦事件」賠償金支払い問題を乗り越え、当日に横浜鎖港を条約締結国に打診し、穏便な交渉による攘夷実行に着手する形だけは整えた。

 幕府は、諸藩に向け海岸防御を呼びかけて、敵の襲来は撃ち払うよう布達したが、日本側からの攻撃は禁じ「焦土と化しても開港しない」孝明帝の勅命も発せられた。

 ところが長州藩は幕命を無視し、関門海峡を通過するアメリカ商船に砲撃を加えてその後も外国船に砲撃を実施したため、6月アメリカ・フランス軍艦より下関砲台が報復攻撃を受けた。

 8月には「薩英戦争」が勃発して鹿児島市街がイギリス軍艦の砲撃に晒されると、薩摩藩の幕命に沿う軍事行動は称賛を浴びたが、長州藩による「武力攘夷」は他藩の理解を得られず、いよいよ朝議の主導権を握る急進派公家衆と連携して、天皇委任に基づく幕府の攘夷実行指揮を否定し、天皇自らが指揮先導する「武力による攘夷」(攘夷親征)へ転換する道を突き進み、幕府に抗う姿勢を鮮明にしてゆく。


 長州と協力関係にあった土佐藩主、山之内容堂は土佐勤王党(尊攘急進派)弾圧に乗り出しており、孝明帝の信頼を得ていた薩摩藩主、島津久光は尊攘急進派が牛耳る朝議で攘夷実行や破約を求める「孝明帝の預かり知らぬ危険な朝勅」が乱発されると急遽、会津藩ら在地兵力の協力を得て、「兵力をもって国の災いを除くべし」という孝明帝の意志による官内クーデター(八月十八日の政変)を主導して、尊攘急進派を朝廷中枢から追放した。

 孝明帝は事実上それまでの「攘夷勅命の無効化」を宣言し尊攘急進派と距離を置き

長州藩士は京を追放されて、藩主毛利慶親と子毛利定広は国許へ謹慎を命じられる。  

 長州藩(毛利氏)は「関ケ原の戦い」で徳川家康に欺かれ外様大名に格下げされた不遇の時代を乗り越え「雄藩」と呼ばれるまで復活していたが、再び政治的主導権を奪われ「朝敵」におとしめられたのだ、もはや「戦い」しか道は残されていない。

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