第37話 フィフス・インパクト(幕府終焉②)

 1863年8月「八月十八日の政変」で京から長州藩士と七公卿が「都落ち」すると、残された朝廷には、政局を主導できる政治的能力はなく、島津久光らの呼びかけで「公武合体派」の雄藩・幕閣による「参預議会」が設置された。 

 将軍後見職一橋慶喜、越前藩主松平春嶽、土佐藩山之内容堂、宇和島藩伊達宗城、会津藩(京都守護職)松平容保、薩摩藩島津久光、の6大名が朝廷参預に任命されて孝明帝は将軍家茂を再上洛させたタイミングで公武合体方針の明確化を求めた。

 懸案は長州藩の処分と譲位(横浜鎖港)問題である。孝明帝の長州への逆鱗は深くまた、攘夷論者であることから参預諸侯の開国的考えや「条約破棄は現実的でない」との考えに失望した。幕府は攘夷実行を約束した手前、不可能を承知で条約締結国と「横浜鎖港」の交渉に入り、慶喜は幕府を牽引して横浜鎖港を主張し、政策主導権を握りたい島津久光と激しく衝突した。

 慶喜は朝廷の方針(帝の意志)と幕府の方針(将軍の意志)を正しく共有した上で立場を明確にした責任ある議論を望んだが「参預議会」はそれぞれが自論の綱引きに終始したので、あえて泥酔を装い島津久光・伊達宗城・松平春嶽に暴論を浴びせ罵り「参預議会」を壊す事で時代の時計の針を強引に進めた。

 島津久光はこれを契機に幕府を見限って、曖昧な協調路線を改め「開国・討幕」を明確にする。元治元年(1864年)3月に慶喜は参預・将軍後見職を辞し、朝廷新設の禁裏御守衛総督(外国勢力侵攻へ備え役)に任じられて二条城に入り、江戸幕府とは距離を置きつつ朝廷の意向に沿って横浜鎖港を推進したのだが、幕府内で横浜鎖港が頓挫すると、実行を求め水戸藩「天狗党の乱」が起きて再び攘夷派勢力が浮上する。

 京に潜伏した長州藩士が再興活動を続け、1864年7月「池田屋事件」で反抗計画が「新選組」に阻止されると、8月久坂玄瑞ら長州藩が「禁門の変」で挙兵し市街戦を繰り広げ、京では戦火で3万戸が焼失する大惨事が起きる。

 慶喜は御所守備軍を自ら指揮して戦渦の真っ只中、馬にも乗らずに敵(長州藩)と戦ってこれを打ち破り、朝廷から大きな信頼を得た。

 孝明帝は「長州征討」の勅命を発し、幕府は徳川慶勝(尾張藩長老)を征長総督に任命し「朝敵」長州征討(第一次長州征伐)にかかる。慶勝は、薩摩藩の西郷隆盛を全権委任の参謀格として長州藩の降伏プロセスを任せている。(1864年11月)

 

 長州藩は京を追放されながらも尊皇攘夷の姿勢を崩さず、関門海峡の封鎖を続けて1864年7月、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの4国連合による懲罰攻撃が決定されると、イギリスへ留学中で国勢の違いを痛感していた伊藤博文と井上聞多が急ぎ帰国して藩主毛利敬親と首脳部に止戦を説くが、強硬論に押され徒労に終わる。

 1864年8月艦艇17隻(総員5000)の4国連合艦隊が横浜を出港し、9月長州砲台に猛砲撃を開始して、陸戦隊が長州砲台を占拠破壊し1日で完膚なきまで叩き潰した。

長州藩にすれば、京で「禁門の変」に敗れてからわずか半月後の下関敗戦である。

 藩の停戦使者を務めた高杉晋作は出された要求すべてを受け入れて講和が成立し、賠償金は諸藩の監督役である幕府に請求されることとなった。(1864年10月)

 ちょうどこの頃の西郷隆盛と勝海舟の出会いが、長州ひいては日本の未来を大きく変えるきっかけとなる。勝海舟は「公議政体論(諸侯に政治参加を呼びかけて幕府と共同で政治を行う)」を自論としたが、禁門の変から長州征討へ幕府が勢いづくと、軍艦奉行を罷免されて蟄居の身となっていた。

 幕臣の身で幕府の無力を説き諸藩協調を訴える勝の言動に西郷は強い感銘を受け、第一次長州征伐で徳川慶勝に「強硬策を止め緩和策で臨む」提案をして支持を得ると長州降伏をまとめ内戦開戦をどうにか回避して征長軍を解散した。(1865年1月)

 長州では藩兵と別に「奇兵隊」を筆頭とした民兵隊が創設されており、藩主中心の独立的思想が毛利氏の時代からの連綿と息づいてはいたが、続く敗戦により主戦派は失脚し粛清され、幕府恭順派が実権を握っており藩主毛利敬親は「武備恭順(武力を残しつつ、とりあえず幕府に従う)を国是とする」と言明したが、幕府恭順派により萩城に押し込められていた。

 「謝罪恭順」の幕府恭順派は「諸隊鎮撫(民兵隊解散)」の方針を示したが、それに抵抗し決起した高杉晋作・伊藤博文らがクーデターを起こすと2カ月で藩政奪還に成功して、長州藩は「武備恭順」の下で藩軍制改革を推し進めて、軍装備の洋式化を図る。この時に坂本龍馬(亀山社中)の仲介のよって、イギリス軍艦を薩摩藩名義で購入した縁により1866年薩摩藩西郷隆盛と長州藩木戸孝允の会談で「薩長同盟」が成立して倒幕の気運は高まった。


 朝廷・幕府・諸藩のパワーバランスの上に成り立つ体制下で、根源の「体制委任(帝が将軍に国政委任)」が空文化するのを恐れた一橋慶喜や京都守護職松平容保は保守派が巣ず喰う江戸城から将軍家茂を引き離し、京に引き寄せ「公武一和」推進し事態打開を図ろうとしたが、幕閣は「破約攘夷の元凶は朝廷」と考える条約国の中でフランス帝国の後押しを受けて、幕威の復古に自信を深め強固な姿勢で朝廷や諸侯と接するようになり、勤皇諸藩では朝廷を以て幕府を制し「挙国一致」の体制をはかる志向をしている。

 朝幕対立を憂慮した容保は自ら江戸に出て「将軍上洛」運動を起こそうと考えたが幕閣連中に阻止され、慶喜共々危うく京を追い落とされそうになった。

 この時期の国内・国外の危うく複雑な情勢を何とかコントロールしたのは京に在る一橋慶喜と京都守護を兄弟で担う松平容保と松平 定敬の3人(一会桑政権)であり、幕府から半ば独立して朝廷を援護し政局を主導していた。


 幕府は長州藩主毛利敬親と養嗣子定広及び「禁門の変」で都落ちし山口に潜伏した五卿の「江戸拘引」の御沙汰書を下したが、広島藩、宇和島藩、大洲藩、龍野藩など西国諸藩は協力を拒否し、長州藩は幕命を軽んじて無視を続けたので、幕府は将軍の西上を布告して「江戸拘引」がおこなわれない場合には征伐すると言明したのだが、長州処分は不振を極め幕府の威信は地に落ちた。一橋慶喜は幕府を孤立させないため朝廷に「再征勅許」を求めるが、薩摩藩大久保利通の入説によって近衛忠房が朝議をボイコットし難航すると「匹夫の議に動かされて参内の時刻を移し、あまつさえ軽々しく朝議を変ぜんとするは奇怪至極せり斯くては将軍を始め一同職を辞せんのみ」と恫喝して「再征勅許」を力づくで獲得する。


 同時期、大阪城に居を構えていた将軍・幕閣は、条約国の「兵庫開港要求」圧力に専権で応じる決断をしたが、慶喜は「勅許を得ずに開市開港すれば朝廷の信頼を失い諸藩も収まらない」として急遽、条約国へ回答期限の10日間延長を申し出て承認を受け「勅許獲得」に動き、将軍家茂参内の段取りを組むが幕閣は裏切り、将軍家茂の上洛は無かった。慶喜は、再度大阪に下る旨を朝廷に申し出るが朝廷の怒りは限界に達しており、朝議が開らかれ朝廷をないがしろにした幕閣の厳しい処分が決する。

 慶喜・容保・定敬の3人が朝廷に願い出て、どうにか官位剥奪と蟄居に落ち着かせ後には朝幕関係ゴタゴタの末、五カ国との条約を認める条約勅許を何とか獲得した。(実はこの時、兵庫開港を認めさせたわけではなく、開港勅許を得られたのは条約が定める開港予定日1868年1月1日の半年前、将軍慶喜による3度目の要請後だった)


 とりあえず、問題が一段落して「第二次長州征伐」に取り掛かった幕府は、諸藩に長州へ出兵を命じたのだが、薩摩藩は出兵拒否を宣言して、広島出張で幕兵の士気の低さを目の当たりにした新選組近藤勇は「勝目は薄く、長州藩が表面で恭順ならば、寛典な処置で対応していく方針が望ましい」と述べる始末。それでも「長州征伐」は強行されて結局、幕府に大きな汚点を残す結果となった。

 長州藩は「薩長同盟」を介した密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施され士気は極めて高く、訪問した坂本龍馬は感激し薩摩に「長州軍は日本最強」と手紙をしたためたという。

 1866年8月第二次長州征伐の途上、大阪城で倒れた十四代将軍家茂が亡くなった。

遺言では、将軍後見職徳川慶頼の三男徳川家達が宗家跡取りに指名されていたのだが「4歳の幼児に国事多難の折り、舵取りは困難」という理由で経験豊富な一橋慶喜が十五代将軍に推され、再三固辞するが、1867年1月に朝廷の「将軍宣下」を受けて、ようやく就任を受諾した。

 将軍職空位の4カ月間、薩摩藩主により征長反対の建白書が出され朝議が割れると召し出された慶喜の発言により、孝明帝は「戦争継続」を指示し、慶喜は将軍家茂の名代として出陣する運びとなったが、戦況が京へ伝わると「止戦」に転じた。

 第二次長州征伐では、戦闘区域の3箇所は極めて短期間で幕府軍が敗退し、残った小倉戦においても幕軍の戦意の低さに呆れた肥後藩兵の戦意喪失により長州が勝利。将軍を継いだ慶喜は勝海舟に停戦交渉を依頼し、朝廷より「休戦詔勅」を引き出して会津藩や朝廷上層部の反対を押し切る形で休戦協定の締結を急いだ。

 慶喜は元より開国指向であり、将軍就任は日本の開国へ向けた本格的移行ともいえ朝廷と密接に連携し在職中一度も畿内を離れず、関白・摂政を兼任させる朝廷構想も繰り返し浮上するなど「幕府独裁制」の新たな修正が模索されている。

 慶喜が「将軍宣下」を受けた直後1867年1月末、孝明帝が崩御した。(享年35歳)公武合体と譲位を望む保守的姿勢を崩すことなく大久保利通や岩倉具視など皇臣から孝明帝の考えに批判が噴出した矢先の出来事なことから毒殺説もささやかれる。


 1867年2月、第122代明治天皇(睦仁親王)が14歳で践祚して間もなく、薩摩藩と岩倉具視ら一部公卿を中心にして討幕論が公然となった。十五代将軍(征夷大将軍)徳川慶喜は討幕の大義名分を消滅させるため1867年11月「大政奉還」に踏み切って約680年続いた武家政権に終止符を打つ。

 「大政奉還」は「公武合体」による「体制委任(帝が将軍に国政委任)」を解消し「政令一途(日本の突き進む方向が一つになること)」を目的としているが、実際は反徳川雄藩連合が増長し武力討幕派(薩摩・長州・安芸)へ土佐・越前と肥後などの諸藩が加わる流れを断ち切り、武力討幕論を抑える狙いからである。

 朝廷には政務を司る実力は無く、実態として慶喜政権が継続されたることは容易に想像できたのだ。大政奉還論とはいわば平和裏に政体変革をなす構想だが、薩摩藩がこれに同意したのは将軍慶喜が大政奉還を拒否すると予想して、これを討幕の口実に挙兵する狙いからであった。

 事実「大政奉還」が朝廷に提出された11月9日、岩倉具視の暗躍によって薩摩藩と長州藩に対し「討幕の密勅」が下され、徳川慶喜討伐だけでなく会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬の誅戮を命ずる勅書まで下されている。「大政奉還」が受理されたことで、慶喜の思惑通り討幕延期の沙汰書が下されたのは11月16日のことである。


 朝廷は諸侯会議を召集し合議による新体制を念頭に徳川慶勝(尾張藩)松平春嶽(越前藩)島津久光(薩摩藩)山内容堂(土佐藩)伊達宗城(宇和島藩)浅野茂勲(安芸藩)鍋島直正(肥前藩)池田茂政(慶喜の実弟、備前藩)ら諸藩に上洛を命じ体制発足まで幕府に引き続き国内統治を委任し、幕府はその間存続することとなる。 

 倒幕派の岩倉具視や薩摩藩には大政奉還により一旦討幕の名分を失わせられた上、朝廷が従来の機構を温存し、親徳川派の摂政二条斉敬や中川宮に主催されたままでは自分たちの意向も反映されず、諸侯会議においても慶喜を支持する勢力が大きければ結局、新体制は慶喜を中心とするものになってしまうという懸念があった。

 これを阻止するため、明治天皇や自派の皇族・公家を擁して二条摂政・中川宮らの朝廷首脳を排除し、機構・秩序を一新させた(慶喜抜きの)新体制の樹立を目指して政変計画を練り、薩摩・長州・安芸3藩は藩論をまとめ政変出兵の同盟を締結する。

 政変決行は、対外的に政治正当性を印象付ける兵庫開港予定日(1868年元日)に近づける必要があり、岩倉具視呼びかけで土佐・尾張・越前を加えた軍事力を背景に1868年1月3日に決まった。しかし、尾張・越前の両藩の思惑はあくまでも徳川家を諸侯の列に下すことを目標としており、政変自体は徳川家を滅ぼすためでなかった。 

 慶喜ら徳川勢も実行3日前に事態を察知したが阻止する動きは一切みせていない。前日1月2日夕方から翌朝にかけて行われた旧体制最後の朝議では、長州藩主父子の官位復旧と入京許可、岩倉具視らの蟄居赦免と還俗、五卿の赦免などが決められた。朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた5藩の兵が御所の九門を封鎖した。二条摂政や中川宮ら親幕府派朝廷首脳も参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らは、天皇出御のうえ御所に参内して「王政復古の大号令」を発し新政府の樹立を決定、新たに置かれる「三職」の人事を定めた。

 号令は5日後に諸大名へ7日後に庶民へ布告され、将軍辞職を勅許し、支えてきた会津藩・桑名藩を追うことで慶喜の新体制への参入を排しつつ、一方では従来からの五摂家を頂点とした公家社会の門流支配をも解体し天皇親政・公議政治の名分の下で一部公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府を樹立するものであった。

 

 


 

 

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ながれゆくもの『記』 amanojaku0916 @sirusi-1

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