第3話 皇権と闇の伝承

 称徳帝の後継は時世の藤原氏の意向で選ばれ、天智系『第49代光仁天皇』が即位するが、天武系の皇后と皇太子が藤原氏の意向により相次ぎ廃されて、AD773年に天智系山部親王が皇太子に擁立された。2年後には更なる陰謀により廃された皇后と皇太子が幽閉先で2人揃って急逝すると、天武系の皇統は完全に途絶えてしまう。

 その後には、天変地異や祟りを感じる事件が続き、光仁帝は恐れ慄(おのの)いて様々な弔いを行い史上唯一の元日改元(AD781年“天応”)を行った後、病を理由に譲位して、同年末に崩御してしまった。

 天武系皇統断絶の祟りは続いて『第50代桓武天皇』が同母弟の早良親王を早々、皇太弟に据えて、藤原良継の娘を皇后に迎えて嫡子を設けて後継を盤石に固めるが、AD785年に桓武帝の“寺院勢力排除の意”を汲み進められた長岡京造営の中心人物であった“藤原良継暗殺の疑い”で早良親王が幽閉されると、早良親王は無実を訴えて、断食の末に餓死してしまう。

 早良親王は元より妃も取らず子も設けず、桓武帝子孫が嫡流と成るのは確かだが、東大寺の指導者で、奈良仏教界の最高位にあった早良親王に謀反の疑いが向いたのは

朝廷勢力の道鏡に対するアレルギーともいえ、関与不明のまま事実上、処刑に及んだとされる。その後に皇族の病死が相次ぎ、疫病流行や洪水が早良親王の祟りとされ、鎮魂の儀式が幾度も執り行われた。

 『長岡京』がわずか10年で『平安京(AD793年)』に遷都された理由も、祟りの呪縛から逃れ、世間の中傷をかわす目的ともいわれる。

 奈良仏教勢力・天智系皇統に早良親王など、恐れる祟りが数多あった桓武帝だがAD789年から蝦夷討伐で更に争いを始める。

 苦戦したが、3度目の遠征(AD803年)で、征夷大将軍坂上田村麻呂が平定すると

“平安京造成と蝦夷軍事遠征が共に百姓を苦しめている”との菅原道真の建言を受容れようやく強引な遠征事業を中断した。AD805年


 在位中に桓武帝が崩御(AD806年)すると、嫡子『第51代平城天皇』が即位してすぐ、皇太弟『第52代嵯峨天皇』に譲位して、上皇の座に就き、嫡子を皇太子に据え桓武帝の遺勅を破り政変を企てる。(AD810年)

 ところが、嵯峨帝方に機先を制され敗れると、平城上皇は直ちに剃髪、仏門に入り皇太子は廃された。

 嵯峨帝は異母ながら桓武帝の子を皇太弟に立て、AD823年『第53代淳和天皇』として、自身は上皇と成って、嫡子を皇太子に立てさせた。

 同時期に上皇の椅子に桓武帝の長男と次男が座り、天皇には異母三男が即位する。桓武帝血統が支配を強める中で朝廷は増え続ける皇族のため財政逼迫で頭を痛める。淳和帝譲位で嵯峨上皇の嫡子が『第54代仁明天皇』に即位すると次には淳和上皇と嵯峨上皇女嫡子を皇太子とした。

 平城上皇亡き後(AD833年)には嵯峨上皇の家父長的支配体制によって、朝廷は長く安定したのだが、藤原良房らの“摂関政治”へとつながる他氏排斥の契機となって桓武帝の時代に復活した天皇権威は、摂関家に代表される朝廷に巣付く一部の氏族に簒奪され見せかけとなり、天皇は藤原氏摂関家の傀儡(デク)となった。

 嵯峨上皇崩御による後継争いで淳和上皇皇子が廃され、仁明帝皇子が立太子して『第55代文徳天皇』に即位したのは叔父藤原良房の謀略であり、文徳帝の践祚から

四日後に産まれた良房娘との子が、3人の異母兄を押しのけて立太子を勝ち取った。"承和の変(AD842年)”文徳帝自身は嫡子の立太子を期待したのだが、朝廷周囲は親王の身を案じ誡めたために帝の希望は叶わず仕舞い、次第に朝廷内の“天皇権威の空洞化”が色濃くなり文徳帝の急逝からわずか9歳『第56代清和天皇』が誕生する。

 外戚として実権を握った藤原良房は、人臣で初めての『摂政』の官位を得た。AD876年、清和帝譲位で皇子が『第57代後陽成天皇』に父帝同様9歳で即位すると、良房に見込まれて養子となっていた藤原基経が摂政に就いた。

 清和上皇崩御で皇太后高子との主導権争いが起きると後陽成帝もろとも排除して、幼帝が2代続いた皇位の混乱を抑えるべく、仁明帝第三皇子を『第58代光孝天皇』に据えた。光孝帝は藤原基経を『関白』に任じて、自らの子孫は『臣籍降下』で皇位を廃したのだが、崩御直前に嫡流から遠い子息“源定省”を親王に復して後継とした。

 この措置にも関白である藤原基経の意向が強く働いたという。


 『臣籍降下』とは、皇族が臣下に籍を移すことで今も昔も皇族には氏(うじ)がないために、その際、新しい氏を朝廷より賜るのが習わしである。

 律令整備以前から続いていた伝統だが、平安に入り権力構造から増え続ける皇族と増大する朝廷経費抑制が急務となり積極的に行われて、時代の潮流となる氏(うじ)もこの時期より新たに使われだした。

 桓武帝の孫代が平(たいら)の氏を賜り(AD825年)、以降は帝ごと流派が別れて仁明・文徳・光孝の子孫へ受け継がれる。

 源(みなもと)氏についても、嵯峨帝皇女8人の臣籍降下(AD814年)の際、賜ったのが最初とされる。後の帝も度々源氏として臣籍を下したため、帝ごと氏爵別けして一門とした。※源(みなもと)や平(たいら)は皇室と祖先を同じくする意といえる。

 

 源定省はAD887年『第59代宇多天皇』として践祚すると、2年後に関白藤原基経が死去する。宇多帝はこれを機に関白職を置かず親政を始めて、世間に広く人材登用をした。一度皇族を離れた経験から社会への視野が広く、国史編纂や政治・文化面でも大きな功績を残し、菅原道真らを重用して“六国史”の最後にあたる“日本三大実録”を編纂して完成させた。

 以後“新国史”なる存在も伝聞されるが、朝廷統治(律令)衰退から中世の動乱期に入り、近世までは国家編纂の史書が完成に至った記録はない。

 一方で、公家(貴族)の宮廷文化や僧侶・武家など為政者や知識人の生活思考から土着の民衆文化まで、後世に伝えるべく『文学』が育ち、社会の軌跡を紡いだことで当時の人々の様子を具(つぶさ)に垣間見る事ができる時代が始まる。

 『記(しるし)』が映しだす社会の多様化は、為政者による王権国家誕生の記録から人間社会の成長記録に移り変わって、そこに広がる“ヒトが育み繋いだ人類の歴史"は呆れるほど血生臭い感情に支配されて“我々は何者なのか?”を思い知らせる。



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