第21話 群雄割拠(バテレン)
1583年、宣教師ルイス・フロイスは、島原でイエズス会の本部指令を受け取る。それはポルトガル国王エンリケ1世の命(1579年)で編纂が始まった“ポルトガル領インド史”を手掛ける司祭からの“日本でのキリスト教布教史”の執筆依頼であった。
以来、10年以上に渡る詳細な執筆活動によって、織田信長や豊臣秀吉の生々しいルポルタージュなど多く貴重な軌跡を残し、その著作(日本史)には優れた観察眼と情報収集能力から描かれる『記(しるし)』の妙がまじまじ見てとれる。
ルイス・フロイス(日本史)は足利義輝の死についても記す。
事件前日に13代将軍義輝は危険を感じ二条御所を脱出したが、近臣の「将軍権威を失墜させる」との声にほだされ不本意ながら屋敷に戻ったという。最後は剣豪らしく自ら薙刀を振り刀を抜いて戦い、槍傷で伏せたところを一斉に切りかかられ討ち死にしたと記され、その勇猛さを称えている。
南蛮貿易の波は、大陸の東の外れ島日本にも届いて確かな痕跡を残し始めていた。南蛮貿易とはポルトガル・スペインの商船との海路貿易を指す。
当時イベリア半島諸国は、“レコンキスタ(国土回復運動)”を成し遂げた一方で、王室は財政難に喘ぐ。この打開策で海外進出を始めアフリカ大陸へ進出(1415年)やがて1488年には“嵐の岬(喜望峰)”までたどり着く。
1497年夏、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガルリスボンを出航し、4カ月で喜望峰を周って1498年春、インドのカリカットに到着。この航路の開拓によって海上帝国が築かれてゆく。
1509年にポルトガル遠征艦隊がインドと直接交易を獲得し、1557年にはマカオに要塞を築き極東への進出拠点が出来上がる。
その間の1543年に大隈国種子島に一艇のジャンク船が漂着し、乗員の南蛮人から日本人が買い求めた火縄銃二挺が“鉄砲伝来”の経緯である。
このニュースはポルトガルでも大事で250年に渡る未知の国“黄金の国ジパング”の発見となる。ヨーロッパでは13世紀ヴェネチア商人マルコ・ポーロの旅の記録
「東方見聞録」で紹介された“ジパング”が広く信じられた。
この本が伝える東方アジア諸国の富と繁栄こそが、大航海時代の引き金となった。ジェノヴァ出身であり「東方見聞録」愛読者であったクリストファー・コロンブスはポルトガル・スペインと渡り歩きパトロン探しに没頭して1492年“グラナダ陥落”から財政上の余裕ができた「スペイン王国イサベル1世とその夫のフェルナンド2世」をようやく説き伏せ遠征計画を承認させた。
その年8月にスペインアンダルシアを出航して大西洋を一路西へ、2カ月後に現在のバハマ諸島で初のインディアンに遭遇すると略奪の限りを尽くした後、キューバ島を発見、その年の終わり現在ドミニカ共和国辺りにアメリカ大陸最初の入植地を作る。
1493年3月、スペインに一旦帰還したコロンブスは、9月に17隻の大船団を率いて出航して、11月到着すると、築いた砦は破壊されて39人の入植者は殺されていた。
コロンブスはこの地を放棄し新たに女王の名を冠したイザベル植民地を築くのだが進んだ先々での各インディアン種族の抵抗行動に対する徹底した殺戮と弾圧はまるでスポーツのようだったという。
この先の虐殺、地獄絵図は別の機会に紹介したい。
とにかくコロンブスのとんだ勘違いの西航路インド探索と、ヴァスコ・ダ・ガマの東周りの計画的な航路開拓では根本的な意味が違った。
シルクロード貿易はムスリム(イスラム教徒)と華僑にほぼ牛耳られ東南アジアやインド・中華明との直接交易には、海洋ルートを確保する以外ない。
それと共にレコンキスタの先にはキリスト教世界(カトリック)拡大構想がある。伝説のキリスト王“プレスター・ジョン”が築いたといわれる“キリスト教国”の発見はヴァスコ・ダ・ガマに与えられた大きな使命のひとつだったのだ。
国家としての利害は、国境を持たない宗教勢力とこれまでしばしば内政干渉という口実で対立して特殊な紛争を生んできた。それは“ドグマ(教義)”の解釈に基づいて多種多様だが、“善と悪”の問題ではない。
1534年カトリック修道会男子7人より創設され、1540年ローマ教皇パウルス3世に承認された「イエズス会は(神のより大いなる栄光のために)を掲げて」躍進すると世界での布教活動を重視するイエズス会はポルトガル王の要請に従い1541年インドゴアへ赴いた。
創設メンバーの一人でもある宣教師「フランシスコ・ザビエル」はインドで多くの信徒を獲得して、マラッカで出会ったヤジロウの話しから日本に興味を覚えた。1549年来日して、2年の滞在で薩摩・肥前を経て周防(山口)へ渡り、海路和泉堺へ上陸し京へ入って、後奈良帝・13代将軍足利義輝への拝謁を請願するが叶わずに、周防(山口)へ戻り、守護大名の大内義隆より「信仰の自由」を得て、歴代初となる常設教会を興し約500人の信徒を得たという。
その活動から“盲目の琵琶法師ロレンソ了斎”などの優秀な宣教師が生まれている。その後に、豊後(大分)では守護大名大友義鎮の庇護の下、宣教を行って共に布教に取り組んでいたトーレス神父とフェルナンデス修道士に日本での布教活動を嘱託して日本人信徒4人を伴いインドゴアに戻った。(1551年)
うちの一人“鹿児島のベルナルド”は1549年ザビエルが日本で最初に洗礼を授けた人物でゴア神学校で学んだ後、1553年にはポルトガルの修道院で暮らし、その後にローマに渡り教皇に謁見した記録も残る。
日本では、イエズス会の宣教師のみによって順調に宣教が進んで、為政者の庇護を受ける事にも成功する。しかし、アメリカ大陸の宣教活動はスペイン・ポルトガルの植民地経営との衝突が生じ、後には本国での迫害にまで発展する。
イエズス会もドミニコ会(1216年認可)もアメリカ大陸“ネイティブアメリカン”の権利を主張して、奴隷制に抗議する。
“保護統治地”を造るなど、奴隷商人や利権を得る政府高官には目障りな態度を執り
“ナショナリズム”と対立したのだ。
誤解を避けるため、あえて記せばイエズス会の宣教師の道徳心による行動と捉えることは危険で、イエズス会の忠誠心はバチカン公国教皇のみに向けられるものであり異教・プロテスタントとの争いにおいては「白いものも黒になる」頗る狂信的組織に成長して、その後には利害の相反からポルトガル始めヨーロッパ諸国列強が挙って
イエズス会の追放を決めローマ教皇クレメンス13世に対しイエズス会禁止の圧力を掛けると、ローマ教皇はバチカンは諸国教皇庁との関係を選ぶか選択を迫られて、1773年にイエズス会を禁止した。
ただしロシア皇帝エカテリーナ二世はこれを拒否し自国内でイエズス会を存続させプロイセン王フリードリヒ2世も自国へ亡命を許可し、イエズス会は細々生き残ると1814年にローマ教皇ピウス7世により復興が許された。
迫害を乗り越えての復活は、キリスト教世界にとってはお約束の正統性を誇示する攻勢パターンで、イエズス会は2番目に大きな男子修道会として、時に政治の領域にまで踏み込む過激な宗教組織に成長する。
南蛮貿易でマカオ(ポルトガル拠点)と定期便が開設されて平戸へ来航が増えると近隣領主大村純忠は港を提供して宣教師に便宜を図りポルトガル商人とイエズス会を自領に引き込み莫大な富を得る。
1563年にトーレス神父の洗礼を受けキリシタン大名となって、数々の優遇措置を与える一方、領内の仏教寺院・神道寺社を打ち壊し神官・僧侶を殺害した上、領民に改宗を強要し従わない者を迫害する。1570年にはポルトガル人に「長崎を寄進して教会領とする」など、最盛期には6万人を改宗させ、拒否した者を奴隷として海外に売り渡した。
豊臣秀吉が後に話を聞きつけイエズス会から長崎を取り上げ「バテレン禁止令」を出したのは17年後であり、イエズス会が売国奴を生み出して世相の闇に紛れ人心を操作して民衆に恐怖をもたらしたのは確かな国家の裏側の歴史なのだ。
警戒心のまだないこの時期には、南蛮貿易が最優先されて黒色火薬の成分である
硝石や鉛・真鍮など国内で手に入らない鉄砲の材料が続々荷揚げされ、畿内において南蛮貿易港『堺』の直接支配に成功した織田信長が下剋上を制して覇王と成ったのも必然といえよう。
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