第22話 群雄割拠(天下布武)

 『堺』は摂津・河内・和泉3国境にある。港は鎌倉時代、漁港・魚市として栄えて1469年“遣明船”の着岸をきっかけに貿易港となり、1474年に堺商人が琉球へ渡った記録も残る。

 1543年種子島に火縄銃が持ち込まれるとすぐ製造技術が研究され豪商今井宗久らにより大量生産に成功すると、鉄砲産業は堺経済を支える重要産業となる。

 この頃の町では有力商人による環濠(防御壕)自治が盛んに行われ、堺は会合衆と呼ばれる実力者組織が大名に支配されない自治都市を築き、ルイス・フロイス曰く

「東洋のヴェネチア」と表現される活気のある街並みを作っていた。

 父元長の時代から関わり深かった三好長慶の躍進を陰で支えて“持ちつ持たれつ”の関係を築いた堺会合衆は長慶の死による三好一門斜陽を一早く察知し、天下の情勢を占った。

 軍事的後ろ盾となる三好三人衆と、旧知の仲である松永久秀が反目すると、事態は深刻化する。1565年三好勢による13代将軍義輝への突然のクーデターに松永久秀は関与していない。言い換えるなら感知しながら放任した。三好長慶が存命の頃には、13代将軍義輝と積極的に関わって、幕臣として高い官職を得るなど、充分にその力を利用したのだがクーデターを節目として、松永久秀の野望は次のステージに入ったという事だろう。

 三好勢が13代将軍義輝の異母弟周高まで捕らえ殺害する情勢下で、大和にあった松永久秀は、将軍義輝の同母弟にあたる覚慶(義秋)に、身の安全を保障する誓紙を送って幽閉する。阿波から義維・義親父子の畿内進出を見越して、自前の将軍候補を確保し備えたのだ。

 三好一門当主義重は“義継”と改名して足利将軍の権威を継ぐ意思を示すが、久秀はとうてい無理と見た。覚慶(義秋)の脱出をわざと見逃し、“足利将軍家当主宣言”に結びつけるシナリオの変更は、久秀と対立を深める三好三人衆への対策で、三人衆は予測通りに阿波の義親(義栄)を招き入れ次期将軍に推すと、松永父子を三好方から追放した。

 1566年、2月三好方と戦端を開いた松永久秀は劣勢に立たされ、堺から逃亡し姿を眩ませる。同時期に、近江六角氏の図らいから京に近い矢島に御所を構えた覚慶は、還俗して“義秋”(義昭)と名乗って、4月には朝廷から任官を授かる。

 ライバル足利義親は摂津まで迫り、同年12月に同様の任官を授かるが任官順番は正統性の順位とイコールと考えてよいだろう。これを契機に義親は“義栄”と名乗り、遅れを取り戻すため三好勢の力を借りて、朝廷や幕臣に対し将軍擁立工作を始める。

 一方で上洛の機会を窺う義秋は、大名抗争を仲立ちする事で上洛へ協力を得ようとして美濃齊藤氏と尾張織田氏、六角氏と浅井氏の近江争奪戦、甲斐武田氏・関東管領上杉氏・相模北条氏との和解を目指すが、織田信長による義秋を奉じる上洛が8月に現実味を帯びると、三好勢の横ヤリにより、和解していた齊藤龍興と近臣六角義賢の離反が同時に起こり、信長は大敗して、義秋も若狭下向を余儀なくされる。

 その後、9月越前朝倉義景を頼った義秋は、一向に上洛の素振りをみせない義景の庇護下で悶々とした日々を過ごす。

 上杉輝虎(謙信)への期待も武田信玄との決着の見えない抗争から上洛は不可能で1567年2月に三好義継が三好三人衆の下から、堺へ戻る松永久秀を頼り出奔した事で形勢が傾いた。出奔の理由は足利義栄擁立で、当主として蔑ろにされた恨みからで、久秀の忠誠心にほだされたとある。

 戦線膠着の10月に久秀は三人衆本陣東大寺の奇襲に成功し畿内主導権は久秀方に移った。“東大寺大仏殿出火と消失”の経緯には諸説あるのだが、ルイス・フロイスの(日本史)によれば、三好方キリシタンの仕業と記される。ともかく歴史的に誤解の多い人物である松永久秀と阿波の大軍勢を率いる三好勢とでは、未だに戦力に大きな開きがあり、松永久秀の打開策は、1566年の段階から織田信長の上洛にしかない。 

 歯向かう齊藤龍興を遂に敗走させた信長は、1567年11月に「天下布武」の朱印を使い始め、畿内を室町幕府に代わって平定して京の秩序回復目標を宣言する。


 足利義栄の将軍宣下は朝廷に拒否されていた。三好勢は朝廷の求めていた献金には応じられず、正親町帝の嫡男誠仁親王への義栄妹の輿入れも却下されたが、前将軍の義輝により政所執事から追放された伊勢貞為を復活させた事で、朝廷に権威を担える姿を見せて、阿波三好氏の当主、三好長治の後方支援を受けた事で態度を軟化させた朝廷は1568年正月に就任内諾し、2月には悪銭が混じりながらも献金をどうにか叶え朝廷から“征夷大将軍の任命”を授かり、上洛を果たさぬまま14代将軍義栄となった。

 4月に朝倉義景の館にて、義秋の元服が行われ名を“義昭”と改める。信長は上洛に向けて朝倉家の家臣明智光秀の仲介により、義昭との交渉を再開する。

 7月信長の待つ美濃に入り対面した義昭は上洛準備に入って、9月信長は大軍勢を伴い岐阜を出発する。六角勢が又も行く手を塞ぐが3日で蹴散らして尚進軍すると、9月30日に三好方荒川山城を落とし、義昭の入城を待って将軍旗を掲げ居城とした。

 同日に、病床の14代将軍義栄が死去する。10月松永久秀・三好義継・池田勝正ら味方が荒川山城に出仕すると、武家のみならず有力寺院などが、所領の安堵を求めて挙って集まり、松永久秀は大和平定を義昭により正式に認められた。

 これによって、畿内は義昭と信長に制圧される。信長の共奉を受け上洛を果たした義昭は1568年10月18日朝廷より将軍宣下を授かって15代室町将軍義昭となった。


 信長の武功に対し、様々な恩賞が用意されたが、信長はそのほとんど謝絶して、堺・草津・大津の直轄領を求め、虚名よりも実利を選択した。将軍義昭の論功行賞は阿波に潜んだ三好勢の畿内侵攻への警戒から幕府臣下の武力再興が重要視されたが、信長にとっては、正親町帝の保護と朝廷の財政再建のほうが数段重要で幕府の再興にたいした思い入れは無かった。

 1569年正月に、信長率いる織田軍主力が美濃に帰還すると、隙を突いて三好勢と齊藤竜興ら浪人衆が共謀して15代将軍義昭仮御所を攻撃するが、織田軍の機動力は凄まじい。

 豪雪の中、僅か2日で援軍が駆けつけたが既に明智光秀らの奮戦で、信長の到着を待たず敵を退けていた。信長はこれを機に大規模な将軍御所を二条に築いてやった。

 15代将軍義昭に殿中御掟を突き付け、将軍として天下静謐(天皇命を受け将軍が逆賊を対峙し諸国に平穏をもたらす事)に背かぬように強く戒めた。

 15代将軍義昭は基本的に兄13代義輝の政策を継承したが、政所執事権限を将軍が掌握した事で実務効率が極端に低下して、信長まで幕府の困窮ぶりが伝わってきた。要は“使えない殿様”という事だ。

 正親町帝は、信長を政務に引き込むために勅旨を下し副将軍に任じようとするが、信長は返答しなかった。

 1570年正月に“殿中御掟”は5条追加された。その間にも自軍を動かして反抗勢力の平定に忙しく動いている信長にしてみれば「ちゃんとしてよ~!」といった感じで、足利義昭の将軍権威を削ぐものなどでは決してない。

 中央の政治不信は諸国大名の不満に繋がり、血で血を洗う争いに発展してしまう。信長は古い権威を打ち壊して、新たな秩序を覇道で構築しようとしたと言われるが、室町幕府の権威に、もはや従うモノのないことを悟ったのは案外遅くて、この頃ではないだろうか?

 15代将軍義昭が兄13代義輝を真似て勅書を発し、兵を動かすほど天下には騒乱が広がる。将軍義昭の申し入れに朝廷が答え、この年改元が行われ(元亀)となったが権威も武威も形ばかりで役に立たない。

 とにかく結果が出せない残念な将軍で、唯一可能性のある寺院勢力の取り込みにも見事に失敗して、後々まで話がこじれる起因となった。

 1570年7月に三好勢と細川昭元が挙兵して、15代将軍義昭方の城を攻めた。義昭は河内畠山勢に動員を掛け、自らも出馬して陣を構えた。信長の援軍が出陣する最中に石山本願寺離反で法主顕如が門徒に檄を飛ばして“一向一揆”が起きる。将軍義昭は

“勅命講和”を図り、朝廷から勅使が派遣されるが戦火で下向出来ず、もたつく間に

“本願寺挙兵”に呼応して信長と対立し戦闘を繰り返していた浅井・朝倉連合軍3万が信長の所領である近江坂本に侵攻する。

 「信長包囲網」とされるとりとめない血で血を洗う戦いの一端であるが、明らかに将軍義昭を餌に信長を追い詰める戦略なのだ。


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