第20話 戦国時代到来

 1493年、日野富子は細川政元を誘い込み、クーデターで10代将軍足利義材を廃し

8代義政の甥で“堀越公方足利政知“の子義澄を故義政の猶子として、11代室町将軍に据えた。元服から将軍宣下までは管領職にある細川政元の独壇場だったが日野富子が死去して11代将軍義澄も成長すると管領政元と対立する。政治的な綱引きが続くが11代将軍義澄が後継候補である足利義材異母弟の処刑を求め、管領政元が認めると次期将軍候補を失った事で両者の微妙な協力関係が続いた。(1502年)


 『第103代後土御門帝』は、“応仁の乱”終結後に古来朝廷儀式復活に熱意を注ぐが財源は枯渇し上手くいかない。

 朝廷権威を軽んじる勝手な将軍擁立に腹を立て譲位を決意するがそれもままならず結局5回も拒否される。1500年土御門帝は崩御するが、葬儀費用が捻出出来ず40日も御所に遺体が置かれたままだった。

 践祚した『第104代後柏原天皇』にしても、即位の礼を挙げるまで21年間の歳月を要し、京の都はかつてない荒廃に臨む。


 1507年権勢を揮った管領政元が暗殺され、細川氏の家督をめぐる内輪揉めを機に前10代将軍義尹(義材より改名)を擁立する大内義興の軍勢が上洛するとの報から11代将軍義澄は京を脱出して近江へ逃げた。

 義澄は将軍を廃され、1508年に10代将軍義尹が、実に13年間に及んだ逃亡の末に返り咲く。将軍職をめぐる抗争は続いたが、1511年11代義澄が病死して決着した。

 10代将軍義尹の親裁思考は相変わらずで、幕政を握る細川・大内・畠山の諸氏と対立すると、将軍を無視した後柏原帝からの叙位に怒って、遂には、“抗議の意”から京を出奔して、近江で病を理由に篭ってしまう。

 手を焼く諸大名からの連名の和解に応じ、京へ戻ると10代将軍義植と改名した。1518年には大内義興が管領代を辞して帰国すると、管領畠山尚順もこれに続いた。帰国の理由は領内統治の事情だが、すでに“下剋上”が畿内の有力守護にも迫っている事を感じさせられる。

 大内義興ら有力守護大名の帰国から軍事的な支えを多く無くした10代将軍義植は京にひとり残った管領細川高国と対峙する。

 管領争いに敗れて落ち延びていた細川澄元が返り咲き好機とみて挙兵するのだが10代将軍義植は高国への支持を守った。

 しかし、1520年になると高国が大敗して京へ逃げ帰り、10代将軍義植を引き連れ共に近江へ下るよう画策すると、既に澄元から恭順の書状を受けた10代将軍義植は高国を見限り、若くて純朴な澄元に乗り換える決意をした。

 ところが、近江で勢力を回復した高国は澄元を破って京に再び返り咲いたので、10代将軍義植はやむなく堺へ出奔するが、多くの家臣は京に留まり10代将軍義植を見限った。これが後柏原帝の待ちに待った“即位の礼”直前の出来事で、帝は激怒して管領細川高国に儀式の準備を命じて予定通りに挙行させる。


 京を掌握した管領細川高国は10代将軍義植に代え、11代義澄遺児である足利義晴(亀王丸)を第12代将軍に擁立する。(1521年)

 義晴(亀王丸)は誕生の直後から父11代将軍義澄の信頼厚い播磨守護赤松義村の庇護下にあり、政情不安な播磨国内を転々とする中で、不意に12代将軍に招かれる事が決まり、11歳にして上洛し管領細川高国の歓待を受ける。

 そそくさと儀式は進み、元服を済ませると同年に将軍宣下を請け12代将軍義晴が誕生する。幼年将軍を支える幕臣に父義澄の支持層が集まり政務に就くが高国宿敵、澄元の子細川晴元が賊軍の憂いを払うため12代将軍義晴の弟義維を擁立して反旗を掲げると、12代将軍義晴を擁する管領細川高国は京を追われ近江に逃げたため、堺を本拠とした弟義維は『堺公方』と呼ばれて室町将軍の対抗勢力となる。(1527年)

 重なる和睦交渉も実を結ばず、両者の争いは3年に渡り、その間に12代将軍義晴は近江朽木で幕政を敷いた。朝廷・公家勢も将軍義晴との関係を維持したが1531年に

“大物崩れ”と呼ばれた摂津大物での戦における赤松政祐による裏切り(仇討ち)で、戦局が崩れ、敗戦した管領細川高国は仇敵晴元の命で自害に追い込まれる。

 12代将軍義晴は、高国に代わる後ろ盾を求め、六角定頼の庇護下の近江桑実寺で更に2年間幕政を執って、どうにか朝廷との関係を保ち、幕府の機能を維持した。

 一方堺府では、細川高国の死によって、堺公方義維が上洛して、新将軍に就くのは時間の問題とも思われたが、細川晴元と三好元長の内紛から晴元が本願寺の一向勢を味方に着け、20万の一向一揆勢力が堺を包囲する。

 三好元長が敗北を悟り、嫡子長慶らを阿波へ逃がし自害すると、堺公方義維もまた自害を試みるが細川晴元により阻止、堺公方は出奔し堺府は崩壊する。(1532年)

 足利義維(義晴弟)は堺を出奔した後に“阿波”へ逃げ去って、細川晴元と和睦した12代将軍義晴は六角定頼と共に入京し、細川晴元も三好長慶を伴い上洛すると京で各勢力協調下の一時的な安定を迎える。


 朝廷では、1526年後柏原帝崩御により『第105代後奈良天皇』が践祚していたが、財政の困窮は変わらず、“即位の礼”を行うことが出来ずに、後奈良帝直筆の書を売り収入の足しにする程に逼迫していた。

 清廉な人物の声が高い後奈良帝の、“大嘗祭(五穀豊穣祭)”を行えない現状を世に詫びる悲痛な言葉が残される。「大嘗祭をしないのは怠慢なのではなく国力の衰退によるものです。今のこの国では、王道がおこなわれず”聖賢有徳“の人もなく、利欲に囚われた下剋上の心ばかり盛んです。このうえは、神の加護を頼むしかなく、上下が和睦して民の豊穣を願うばかりです」(1545年伊勢神宮宣命・訳)


 12代将軍義晴は、きりない群雄割拠の争いの中で細川晴元の側に立ち続けたが、1546年細川氏綱(細川高国後継者)が多くの味方を付けて優位に立ち支持を求めてくると細川晴元の苦境とみて排斥を画策して、関係を悪化させる。

 そうした中で嫡男義藤が元服すると将軍宣下を行わせ11歳の13代将軍足利義藤が誕生する。異例の烏帽子親(将軍烏帽子親は代々3管領)を仰せつかった六角定頼は複雑な立場で細川晴元は娘婿で共に鞍を並べた同志であったが、12代将軍義晴への報復心から阿波国で庇護していた足利義維(義晴弟)擁立を企てる。

何とか諍いを治めるため、両者の和解に動くが板挟みは簡単には解消出来ず窮まる。

 父12代義晴・子13代将軍義藤と関係悪化の中、細川晴元が各地で氏綱派を負かし京へ迫ると身の危険を感じた 義晴・義藤父子は山城へ籠城して対決姿勢を表わす。  

 困った六角定頼は大軍で山城を包囲して半ば強引に細川晴元との和解を求めると、現将軍家である義晴・義藤父子は、成す術を失って従うしかなくなる。

 六角定頼のその後の工作によって、細川晴元派と氏綱派の和睦が表面上成立すると将軍父子は京へ戻り、立場を失った義維(義晴弟)は堺を離れて阿波へ帰った。


 争いの中で存在感を示した三好長慶と三好三兄弟は1548年に仇である晴元派から離反して、氏綱派に鞍替えすると、翌年に京から細川晴元と12代義晴・13代義藤を追い出して、幕府と京の実権を握った。

 六角定頼を頼り近江へ下った将軍一行は、12代義晴が病に倒れて死去(1550年)後に13代将軍義藤は細川晴元と六角定頼の支援を受け近江朽木に籠るが、1552年に定頼が死去して子義賢に家督が移ると、13代将軍義藤と三好方で和平が急速に進み細川晴元は見捨てられる形で若狭へ逃れて守護大名武田信豊を頼った。

 13代将軍義藤は三好長慶を幕臣に列し、長慶が推す細川氏綱兄弟が細川氏家督を独占して、伊勢貞孝ら親三好勢が挙って幕臣帰参したのだが、これに反目する勢力も同時に生まれた。両者の確執が強まると再起を図り京周辺で攻勢を続ける細川晴元に三好長慶排除を目論んで策動するようになり、その働きかけにより13代将軍義藤も再び細川晴元方に立つ事を決断する。  

 ところがいざ戦に発展すると幕府軍の居城はあえなく落城して頼みの細川晴元勢は三好勢の猛攻に恐れをなして一戦もせずに退却する有様で、伊勢貞孝など幕臣ながら三好勢に準じる者も多く現れる。13代将軍義藤には近江朽木に逃れるしか道はなく六角義賢の支援下で以後5年間もその地で過ごすこととなった。


 三好長慶は新将軍を擁立せず、朽木を攻める事もなく、膠着状態が永く続くと、1554年13代将軍義藤は“義輝”と改名、続けて近江朽木で幕政を執った。朝倉義景と加賀一向宗の和平調停を成功させ本願寺“顕如”を味方につけて、京を牛耳る三好勢に東西から脅威を与え将軍としての存在感を示す。(1557年)

 京では13代将軍義輝が近江朽木にある間、都に慈悲を注いだ後奈良帝崩御に伴い『第106代正親町天皇』が践祚し1558年改元が行われたが、将軍義輝には知らされず朝廷は三好長慶のみに相談して改元を実施した。

 改元は元来、朝廷と幕府の協議の上で行われきたもの、幕府を蔑ろにする諸行は、13代将軍義輝には受け入れ難く、三好勢の駆逐と将軍権威の復古を掲げ挙兵すると苦戦は続くが三好勢も背後を本願寺勢に突かれる事を警戒し動きが鈍り、将軍義輝の籠城で戦は膠着する。その後六角義賢の仲介で両者の和睦が進んで13代将軍義輝の

5年ぶりの入京が叶うと、1559年には上京と下京の境、勘解由小路烏丸に堀を備えた新御所を建て将軍権威を示した。

 13代将軍義輝は三好一門を厚遇し、破格の待遇に諸国大名は羨望の眼差しを向け三好氏は長慶のもとで最盛期を迎える。

 また、13代将軍義輝もその力を借りて、代々伊勢氏のみ独占してきた政所執事の権益掌握に成功するなど、将軍としての地盤を強固にした。

 味方を変えれば、自ら室町幕府によって保障されてきた古い権威を否定したわけで旧来の上位権力による制御はもはや不可能な中で、13代将軍義輝は幕府将軍のみが唯一、可能な大名同士の抗争の調停役に生き残りをかけて紛争介入に奔走するなど、一定の存在感を発揮した。

1558年、甲斐武田晴信と越後長尾景虎

1560年、薩摩島津貴久と豊国大友義鎮

1560年、安芸毛利元就と出雲尼子晴久

1561年、三河松平元康と駿河今川氏真

1563年、安芸毛利元就と豊国大友義鎮

1564年、越後長尾景虎と相模北条氏政

1564年、相模北条氏政と甲斐武田晴信

 すると、将軍に忠誠心を見せる大名が現れ、将軍を傀儡におきたい三好一門にとり脅威となる。1559年には、2月尾張織田信長、4月美濃齊藤義龍、5月越後長尾景虎、大名の上洛攻勢で13代将軍義輝に謁見した。同年に、大友義鎮を九州探題に任命、伊達晴宗を奥州探題に任命、足利義輝は13代幕府将軍として健在ぶりを見せる。

 しかし、当時三好長慶の勢力は絶対的で並ぶ大名は居ない。松永久秀など名立たる武将を従え畿内に君臨していた。とはいえ三好氏の頭越し諸国大名と将軍が連携する事態は避けねばならない。

 三好氏にとっては、13代将軍義輝が描いていた地方の新興大名を取り込む新たな武家秩序の構築など容認出来る訳もないのだ。

 それでも長慶は微妙な陰りを感じた事だろう。1561年には弟十河一存の急死から所領和泉の脆弱を畠山勢・六角勢に突かれ、弟三好実休が戦死する。

 戦いの最中で長慶自身も病に侵された。1562年に政所執事の伊勢貞孝が謀反して反三好勢の動きが顕著となり、1563年、唯一の嗣子義興が22歳で早世する。

 弟十河一存の息子を三好重存とし養子にするが、名目上の主君筋である細川晴元と氏綱も他界し、政権維持に必要な管領まで失う事になった。

 相次ぐ困難に思慮を失った三好長慶は、1564年に松永久秀の讒言に惑わされて、弟安宅冬康を誅殺してしまうとその後悔は尽きず病が更に悪化し、まだ若年の後継者三好重存を残して病死した。(享年43歳) 

 長慶はじめ三好一門の相次ぐ死の衰運と対照的に13代将軍義輝の権威は高まる。

若年で三好氏惣領となった三好重存を三好三人衆と松永久秀・久通親子が支えるが、13代将軍義輝は邪魔な存在だ。三好三人衆は阿波に篭る足利義維(12代義晴弟)と図り、義維嫡男である足利義栄の新将軍擁立を朝廷に掛け合うが帝は耳を貸さない。

 1565年三好重存は上洛し13代将軍義輝に謁見すると、官位を授かり“義”の偏諱が許され以後は、三好義重と名乗る。

 それから1カ月を待たずして、惣領三好義重は三好三人衆・松永久通の軍勢を従え完成間近の二条御所(将軍屋敷)を攻めた。

 13代室町将軍義輝は死を覚悟すると、近臣と別れの盃を交わした。(享年30歳)

三好一門による主君殺害は世を憤慨させ、義輝と親交あった大名・朝廷を怒らせた。 

 群衆は追悼の意を示し、鉦鼓を鳴らし踊り狂い(六斎念仏)親しくした大名は憤り上杉輝虎(上杉謙信)や朝倉義景が相次ぎ怒りを露わにし、朝廷は従一位・左大臣を追贈したばかりか正親町帝も政務を3日間停止して弔意を示す程だった。


 三好一門は世間全てを敵に回したのだ。


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