第19話 室町の時代(応仁の乱)

 足利義視は管領細川勝元と手を結び官位昇進を続け、将軍就任は既定路線である。朝廷でも『第103代後土御門天皇』に代替わり、後花園院政が始まり、左大臣官職の8代将軍足利義政は、院執事を務めた。

義政には、後継に将軍職を譲って、大御所として政治の実権を握る意図があったが、幼少の実子義尚の乳父を勤める伊勢貞親らは義政の将軍継続を望み、将軍候補である義視を支援する山名宗全・細川勝元と対立を深め、それに有力守護大名の家督争いが複雑に絡み合う。

 1461年斯波氏お家騒動が起きる。将軍義政の特命により家督相続者、斯波義廉の同族内の立場が悪化すると1463年に伊勢貞親の介入で、廃嫡されていた斯波義敏が赦免されて、1466年に義廉を排除して、義敏を斯波氏家督へ復帰させる。

 これに山名宗全・細川勝元が抵抗して、将軍義政が出す追討令にも従わず、義廉は将軍候補義視に接近する。伊勢貞親は疑念を深めて、遂には次期将軍の候補であった義視排除に動き、謀反の疑いから切腹を訴える。

 8代将軍義政も一旦切腹を命じたのだが、山名宗全・細川勝元による必死の制止を聞き入れ、伊勢貞親・斯波義敏ら将軍継続派は一旦政争に破れる形となった。

 次は、畠山家の家督争いへの介入である。山名宗全の呼び出しに応えて、6年前に家督争いに破れ没落していた畠山義就が上洛する。

 細川勝元との対立により山名宗全・斯波義廉は畠山義就を支援し、8代将軍義政も接見で支持に転じ家督を認めた。(1467年)

 これに反発した畠山政長は義就との合戦に及び、戦に破れて敗走する。将軍義政は諸大名へ介入を禁じる命を出し、細川勝元は従ったが、山名宗全は公然と畠山義就を支援して戦に勝たせ細川勝元の面目は丸潰れとなる。

 巻き返しを図り、味方を集め山名宗全との戦闘に入る細川勝元。将軍義政は当初は停戦を命じたが、その後「東軍」細川勝元に将軍旗を与えて「西軍」山名宗全追討を命令した。戦乱は南朝系譜の皇子まで巻き込み、全国へ飛び火して京は収拾つかない戦火にさらされる。(応仁の乱1467~1477)

 後花園院と後土御門帝は戦火を避け室町殿(花の御所)に避難すると、将軍義政は

“花の御所”を改築して一部区画を仮の内裏とした。

以後、しばらく天皇と将軍が同居するという事態が続き、京の戦乱の最中にあっても御所内では度々、豪華な宴が催された。


 将軍候補の足利義視は当初東軍総大将とされたが立場は不安定で、8代将軍義政が伊勢貞親を再び重用した事に反発して西軍に身を投じた。

 1473年、西軍山名宗全・東軍細川勝元、揃って死去したのを契機にして将軍職を子義尚に譲り隠居した8代義政だが、幼将軍足利義尚の将軍代に君臨する日野勝光は正室富子の兄であり、管領を置かない奉公衆と女房衆による歪な体制が構築された。

 1476年に勝光が没すると生母日野富子が実質指導者となる。“応仁の乱”を終結に導いた和睦交渉で足利義視の仲介を請負うなど立回り、東西両軍に影響力を発した。 

 日野富子は夫である8代将軍義政の手前、戦を通じて細川勝元が率いる東軍に身を置くが、東西両軍の大名に多額の金銭を貸し付け、兵糧投機を行うなど暗躍し続けて現在の価値にして70億円もの資産を抱えた。

 1476年戦火により花の御所が焼失すると、政治へ興味を失い小河に設けた御所に一人移り住んだ義政の元へ、9代将軍義尚と母富子が移ったのだが、1481年に義政は逃げるように一人山荘へ移った。

 戦は1477年西軍が軍を引き上げ終結していた。日野富子は終結翌日の言葉として

“土御門帝の内裏が炎上を免れたのは、西軍大内政弘と申し合わせたから”と発言し、その財力が戦争さえコントロールしたことを誇った。

 戦乱が起こる前から京は七口の関所があり内裏(天皇御所)修繕費、諸祭礼費用に充てる建前であったが、富子はその大部分の関銭を懐に入れた。

 1480年、激高した民衆が徳政一揆を起し関所を破壊すると、富子は財を守るため弾圧に乗り出し、関の再備を強行して民衆のみならず、公家衆の怨嗟の的となる。


 8代義政は隠居後、“東山山荘(銀閣)”建築に没頭し、政務から引退を表明するが

将軍義尚への権限移譲は両者の思うように進まず確執が深まる。

 応仁の乱後の幕勢は弱く難題が山積みで舵取りは難しい。陣中での政務を強いられ長引くと、将軍義尚は次第に酒色に溺れ、政治・軍事を顧みなくなり、1489年には陣中で病没してしまう。死因は過度の酒色とも荒淫とも言われる。

 日野富子は息子の急死に意気消沈したが、後継は既に準備をしていた前将軍候補の足利義視嫡子である義材の将軍擁立を8代義政に認めさせて、1490年に義政が没して即座に10代将軍足利義材とした。

 しかし、後見人となる義視は権力を持ち続ける富子と敵対して、義視が亡くなると将軍義材もまた富子を疎んじた。

 もはや室町幕府の将軍職は守護大名権威の裏付け以外存在意義はなく、駆け引きに長け、莫大な富を持つ日野富子に適う訳もない。

 それでも10代将軍義材は、前将軍義尚の意志を継いで近江六角氏を成敗するなど都の軍事に気を張って、“応仁の乱”後も内部抗争の止まない畠山氏への関与などで、永く京を留守にした。


 8代将軍を勤めた足利義政は幕政から身を引いて祖父3代義満が生んだ“北山文化”に日本的な芸術性を高め日本の原点とされる“東山文化”を開花させた。

 集大成“銀閣”完成を見る事無く没したが“応仁の乱”後に、政治と妻富子から離れて室町文化の担い手となる9年間は義政にとって至福の時であり、創造的には今日へと続く日本文化のゆりかごでもあった。


 『北山文化(3代義満の時代)』伝統的公家文化と新興武家文化の融合に『明』の貿易と武家が好む禅宗の影響を受けた壮麗な鹿苑寺『金閣』に代表される。

 朝廷庇護下にある雅楽・散楽が民衆に広まる過程で、滑稽な“笑い”の芸と結び付き能・田楽・猿楽が生まれ、3代将軍足利義満が見物した“観阿弥・世阿弥”親子により大成された。


 『東山文化(8代義政の時代)』幽玄、わび・さび、に通じる日本独自といわれる美意識の創造、慈照寺『銀閣』に代表される。

 和室(畳・障子・襖・床の間)や枯山水が様式化され、茶道・華道・連歌の文化が花開く。狩野正信(狩野派租)土佐光信(土佐派租)雪舟(水墨画大成)など多くの絵師を輩出した。

 京の町が戦火に見舞われた事で、多くの文化人・知識人が地方の守護大名のもとへ身を寄せたため文化の地方伝播が急速に進行して、各地へ小京都(都うつし)が誕生する契機となり美意識は広く民衆へと受け継がれた。

 『惣村』百姓の自治的な共同集落での庶民の日常や、荒廃した京の都を復興する『町衆』の生活にも合致して、庶民文化として広く受け入れられ、やがて国民文化へ成長してゆく。

 読み書き計算など『教育』の概念も庶民に普及しており、農村でも『御伽草子』の読み聞かせや、能・神楽の演芸、琵琶法師による『平家物語』語りなど知識と教養や道徳観が幅広く養われた。

 平安・鎌倉時代まで“教育の対象は貴族・武家の子供達”であり、庶民に教育機会は与えられなかった。室町時代には“庶民の教育を担う”寺院が現れ、旅僧が読み書きを教えた記録も多く残り、庶民が集う場で盛んに演じられた“勧進平家”など約1カ月に渡って平家物語全巻を語る興行形式の娯楽もあったという。

 大いに流行る『御伽草子』には絵本もあり“物くさ太郎・一寸法師・浦島太郎”など現在でも良く知られる話しが多く、風流踊りや念仏踊りが“盆踊り”に姿を変え庶民の遊びとなるなど、多くの民衆文化が花開いた。


 どうしようもない戦乱と困窮の世が、民衆(ヒト)へもたらす“表せないパワー”はヒトの遺伝子に組み込まれた「創造主による偉大な仕掛けとも強欲すぎる生存本能」とも思える。一部の為政者による権力闘争の歴史が、日本全国の武人以下領民たちも巻き込んで新たな世を開く大きな転換期を迎えていた。

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