第18話 室町の時代(鎌倉公方)

 その頃、東国は争いの火種となる事件が起こって、3代義満の代から燻ぶっていた確執が燃え上がろうとしていた。

 初代の鎌倉公方基氏が1367年病没して、幼少の嫡子氏満が2代鎌倉公方となるが、氏満は若くして非常に勇猛で東国武者を相手に大いに暴れて、3代将軍義満が脅威を感じ干渉を考える存在に成長していた。(1379年)

 1392年、義満から出羽・陸奥の統治を任されはしたが、将軍家との確執は根深く残って、氏満が1398年40歳で病没すると嫡子満兼が3代鎌倉公方となるが、幕府との遺恨は続いて1409年32歳で死去するとその嫡子持氏に引き継がれた。

 幼い4代鎌倉公方足利持氏は関東管領(公方補佐)人選に翻弄された。最初に就く管領上杉憲定は、叔父の足利満隆が起こした騒動の煽りを受けて辞任に追い込まれ、管領職は上杉禅秀に渡るが、禅秀は反持氏勢力であり、両者の対立から1415年には管領の交代劇が再び起きて、禅秀が辞任して上杉憲基(憲定の子)が就任すると、1416年ついに足利満隆・上杉禅秀によるクーデターが勃発した。

 持氏・憲基勢は鎌倉を追われ駿河へ逃れて、京の4代将軍義持は激怒し援軍派兵を決めるのだが、同タイミングで弟足利義嗣が突然、京都から出奔して山城国に逃れる事件が起きて、京は一時騒然となる。

 弟義嗣の行動は、義父上杉禅秀との連携と見なされ、幕府方に逮捕・幽閉されると謀反の計画が露呈する。鎌倉では、幕命を受けた越後守上杉房方・駿河守今川範政の鎮圧軍が攻勢をかけると翌年、禅秀・満隆・持仲(持氏弟)は自害、乱は鎮圧されて4代鎌倉公方足利持氏らは鎌倉に復帰した。

 1418年将軍義持の密命により弟義嗣は殺害され、謀反に関わった諸大名の処罰が始まり、幕府と鎌倉府の溝は嘗て無い深刻なものとなる。

 4代公方持氏は疑心暗鬼から東国各地に討伐軍を差し向け、苛烈な戦後処理を行い親幕府派の守護大名までが討伐対象となって、諸国情勢は大いに混乱する。


 足利義持は嫡男義量に将軍職を譲って(1423年)、5代室町将軍が誕生していた。大御所義持の公方持氏への怒りは頂点に達して討伐令が下されると、追い詰められた公方持氏は謝罪と和睦を申し入れて(1424年)一度は許される。

 1425年、5代将軍義量(19歳)が急死。義量に子は無く、大御所義持にも他に子は居ない。しばらくは後継者不在とし大御所義持による幕政が続くが、朝廷でも同様に称光帝が病弱で皇子など期待出来ず、後小松院の第二皇子も早世して後継者の問題が危惧されていた。これに守護大名の政争が輪をかける。

 大御所4代義持は多くの苦悩が絶えぬ中、有力大名の勢力均衡に奔走していたが、確執は徐々に広がり幕政は混迷する。そのためか、5代将軍義量が亡くなると自身の存命中は後継者の指名を拒否したのだ。

 1428年その時が訪れると大御所義持は父代から信任厚く“黒衣の宰相”と呼ばれた僧満済を呼びつける。管領畠山満家はじめ幕府の重臣は慌てふためいて、満済の下に集い病床義持から何とか後継者の意向を聞き出そうとするのだが「義持は決定せず、幕府重臣の評議に任す」との遺思を表明すると、重臣による評議結果は「次期将軍を義持弟の4人からクジ引きで定める」に一致をみて、義持もこれを了承する。

 クジは義持の死後に開封することが決められ、2日後に同母弟の義教(僧義円)の後継者指名が通達されると、幾度か辞退の後で、なんとか承諾まで漕ぎつける。

 義円の意向により元号は改めたものの、還俗(俗人に戻る)して征夷大将軍に就くまでの1年3カ月の間は、将軍職は事実上不在であった。

 その間に病床にある称光帝が危篤に陥る。義円は密かに後継と目される“彦仁王”を京に保護して大覚寺統の動きを警戒すると「治天の君」後小松院に新帝擁立を求め、1429年『第102代後花園天皇』が即位した。

 同年、義円(足利義教)が6代将軍に就任すると幕府権威の復興を目指し父義満の政策に倣う将軍親政を目論んだ。

 中華明朝と勘合貿易を復活させ、財政・軍政の再強化に努めるが鎌倉公方持氏は、将軍義教を軽んじ続ける。

 関東管領上杉憲実が懸命に融和を講じたが持氏に疎まれ管領職を追われた。一方で幕府においても将軍義教を導いた管領斯波義淳が辞し、宥和派畠山満家が1433年、重臣満済が1435年、次々没すると将軍義教を諌められる人材は消えた。 

 1438年に鎌倉公方持氏の嫡男元服で、重なる幕府への挑発行為に抗議して儀式を欠席した関東管領上杉憲実は鎌倉を去り、領国の上野国へ下る。

 これを反逆とみて討伐軍を差し向ける鎌倉公方持氏、上杉憲実救援を命じて大軍を派兵する室町将軍義教、もはや互いの争いは避けられない。

 公方持氏に“朝敵綸旨”が後花園帝より下され、相次ぐ裏切りで孤立無援になると、持氏は、上杉憲実に将軍義教への執り成しを願い出るに至って、出家・幽閉された。

憲実は持氏助命と嫡男義久の“鎌倉公方就任”を懇願したが、将軍義教は許さず討伐を命じ、1439年攻められた持氏と嫡男義久は自害し果て、鎌倉公方は一旦断絶する。

 以降、関東地方は幕府の影響の下、関東管領上杉氏による専制統治が成された。


 6代将軍義教の戦は、朝廷権威を奉じる“治罰綸旨”を多用して、守護大名に対して『朝廷・幕府』といった権威への強い服従を求める形でおこなわれた。

 目の上の瘤であった後小松院も亡き後、後花園帝親政下において、疑念赴くままに思い通りの強権的な幕政を敷くと、1440年逃亡していた持氏遺児を暗殺。1441年に謀反を疑われ日向に身を隠した異母弟の僧義昭を日向守護島津忠国に命じ討たせた。 

 6代将軍義教は有力守護の家督継承にも積極的に干渉して、意に反する守護大名へ容赦なく誅殺を加え出していた。

 前将軍義持の時代に反逆で領地を奪われる罪をどうにか赦免されて、家督相続した播磨守護赤松満祐は侍所頭人を務め、6代将軍義教と当初は良好な関係を保ったが、義教による有力大名謀殺が始まると、満祐の家臣や兄弟へ被害が広がり次第に情勢が悪化する。1440年には、遂に侍所別当職を罷免されて幕府方に不穏な空気が漂うと赤松満祐は子の教康と共謀し、将軍御成の“猿楽”を催して誘い出すと、伴う側近共々6代将軍義教を討ち取ってしまう。(1441年6月)

 突然の将軍暗殺に幕府の指揮系統は混乱して、赤松親子は追手もなく播磨へ悠々と引き上げ、足利直冬(尊氏子・直義養子)の孫とされる足利義尊を新将軍に奉じて、幕府へ対立色を露わにした。

 幕府方は6代将軍義教の葬儀後に2カ月かけ赤松親子を討伐して、赤松氏嫡流家は一旦滅亡する。

 将軍職には義教の幼子義勝が翌年に元服して7代将軍に就くが、僅か在任8カ月で死去。1443年、後任に同母弟三春(8歳)が選出されて、6年後に“将軍宣下”を受け正式に8代将軍に就任した。

 8代将軍義政は、父義教と同様に守護大名の家督相続へ積極的に関わる。父義教の暗殺による鎌倉府再興の機運から、幕府は持氏遺児である万寿王丸(成氏)の擁立を許して鎌倉公方とするが、仇である関東管領上杉氏との対立は必然であった。

 1455年、鎌倉公方足利成氏が上杉憲忠を謀殺して、公方成氏側近が上杉家重臣の長尾実景・憲景父子を殺害。これに対し、関東と越後の上杉勢は共闘して、幕府方も成氏討伐に向かうが、成氏は下総古河を根城にして『古河公方』と呼ばれて、鎌倉を明け渡しながらも利根川を境に東側一帯を勢力下に置いた。

 1458年8代将軍義政は、古河公方成氏への対抗策で異母兄の足利政知を鎌倉公方に送ったが、関東武者の支援を得られず、伊豆堀越に留まり『堀越公方』と呼ばれる。

 次の討伐軍派遣は、総大将が任務を捨てて己の所領内の争いの鎮圧に向う有様で、成氏討伐どころでなくなった。

 この関東での争いは実に30年に及び、幕府権力を公然と無視して、抗争を続けた古河公方足利成氏の戦は、東国における“戦国時代の幕開け”と言ってよい。


 京では、8代将軍義政の親政が続く中で幕政に関わる有力守護大名の勢力争いから畿内の武力衝突に繋がり、都へ戦乱を逃れる流民流入が増えると、1460年ごろから飢饉・災害が相次ぎ京に大きな被害をもたらす。

 京の街は餓死者が溢れ“賀茂川の流れが死骸によって澱むほど”であったとされる。当然、民衆は“朝廷・幕府”為政者へ批判を抱いて、迫る危機感から自衛力を高める。

鎌倉後期から南北朝動乱を経て室町中期に至り、民衆による社会は飛躍的に発展して為政者にとり脅威となる“土一揆”など、実力行使も度々行われるようになっていた。


 1464年跡取りに恵まれない8代将軍義政は、実弟を還俗させ養子として次期将軍に任命し足利義視とした。その翌年、将軍正室日野富子が嫡男足利義尚を出産すると、後継者の神輿は例に漏れず、都の政治に関わる有力守護大名の政争の道具にされる。


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