第17話 室町の時代(花の御所)

 2代将軍足利義詮の遺児、義満はわずか10歳で将軍家の家督を継ぎ、2年後1369年征夷大将軍宣下を受けて、3代将軍となった。

 北朝では後光厳帝の強引な擁立から5年後、不測の事態で皇位を追われた崇光院が京へ戻ると、偶然が重なり皇位に座る後光厳帝との関係はやはり微妙なものであり、1370年に至り、後光厳帝が自らの子息への譲位を望むと両者の関係は決裂する。

 “皇統の正統性”は難題で、皇位継承者であった直仁親王が、解放直後の復位要求を北朝方に拒絶され失意の出家をしており、崇光院が自らの皇子の即位を求めて争うが最終的には後光厳帝に押し切られて『北朝5代後円融天皇』が即位し、後光厳上皇の院政が開始された。(1371年)


 この時期、政(まつりごと)一切を仕切る幕府管領の細川頼之は幼い3代将軍義満に帝王学を学ばせ、滞りない政治を行い幕府権力を固めて、京の支配権を朝廷より吸い上げてゆく。1378年京北小路室町に幕府政庁を移転して「花の御所(室町殿)」と呼ばせ、今日でいう『室町幕府』が 3代将軍義満の代で名実共に揃う事となる。

 敷地は御所の2倍に及び、義満の公家社会に対するデモンストレーションで庭園は鴨川の水が引かれて、各地の守護大名から献上された四季折々の花木が咲き誇って、正に幕府による“花の御所”が京に開かれたのだ。

 1379年22歳の将軍義満は、充分政治巧者に成長していた。管領である細川頼之の施政が政敵や南朝の反抗で難航すると、反細川派勢力も利用して絶対的な将軍権力を確立してゆく。 

 征夷大将軍と右近衛大将を兼任し、公家社会の一員として積極的に朝廷に出仕して行事に参加し権威を高めて、遂には祖父尊氏を超える内大臣・左大臣に就任するなど官位昇進を続けた。

 1382年に父後円融帝譲位で『北朝6代後小松天皇(6歳)』が即位し、後円融院の院政が始まるが、朝廷内で将軍義満の政治的影響力は上皇を凌駕する程であった。

当然、両者は対立して『治天の君』である後円融院は将軍義満の影におびえて常軌を逸す行動に度々及んだようで権威は失墜した。

 1383年武家として初の“源氏長者”となり“准三后”宣下を受けた義満は武公両勢力の頂点に上り詰める。“公武一体”からいよいよ南朝方に対しても悠然と交渉が始まる。


 室町幕府は全国66カ国(陸奥・出羽は守護不在、正確には68カ国)を治める守護大名の連合の上に成り立っており、将軍には奉公衆(直轄軍)があるものの、統制が困難な有力守護大名の弱体化を図る事は、将軍にとって必至であった。

 幕府実権を握る細川氏と斯波氏の対立さえ利用して幕府内の勢力均衡に余念のない3代将軍義光は守護大名の“家督”継承へ直接関与した。

 1387年に幕府創業の功臣であり美濃・尾張・伊勢3カ国の守護であった土岐頼康が死去して甥康行が後を継ぐと、土岐氏一族を分裂に仕向け、康行を挑発して挙兵まで追い込むと討伐の命を下し領国を取り上げ土岐氏をまんまと美濃1国に格下げした。

 次の狙いは、全諸国の六分一を領した山名氏で、元々は新田氏の一門であったが、尊氏・直義・直冬と代々の足利一門に加担して、山陰地方で権勢を揮っていた。

 2代義詮の時代に所領安堵を条件に幕府方に帰順して、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作5カ国の守護となり、3代義満の治世には、11カ国の守護大名として君臨して、

“六分一殿”と呼ばれる畿内きっての実力者となる。義満は1391年山名氏の内紛に油を注ぐ挑発を続け、挙兵に追い込んで討伐し多くの所領を分割し大内義弘や赤松義則、京極高詮など功労者に分け与え、山名氏は1382年楠木正儀が裏切り南朝へ帰参した報復戦での大きな武功もあり存続こそ許されたものの、嫡流ごとにそれぞれ1カ国の3カ国まで所領は削られてしまう。


 1392年、南朝楠木氏居城千早城が遂に陥落した。正儀亡き後に一門を率いていた嫡男正勝は吉野に敗走したが、程なく南北朝廷で講和が成立し『第99代後亀山帝(南朝4代)』は吉野を発ち京へ、56年間に及ぶ朝廷内乱が終わる。(明徳の和約)

 南北朝合一は父正儀の悲願ではあったが正勝にしてみれば、室町幕府への反抗こそ志であり、遂に朝廷と袂を別つ事となる。1392年“三種の神器”は後小松帝に移され南朝後亀山帝は廃絶し『大覚寺殿』と称されて幕府の庇護に甘んじる。

1393年に“治天の君”後円融院が崩御すると、3代将軍義満は上皇権勢までも継承して義満院政とまで後世が呼んだ権力を振るって『第100代後小松天皇(北朝6代)』を全くの傀儡に置くと、1395年には将軍職を嫡男義持に譲って表向きは隠居したが、実権を握り続けて同年太政大臣に昇進すると、残る寺社勢力の糾合を狙い出家して

“道義”と号し、朝廷からも身を引く。

 1411年に後小松帝第一皇子が親王宣下を受け、11歳で元服すると“烏帽子親”には

4代将軍義持が就いた。これでは持明院統が2代続けて帝となるため両統迭立の命に反するが、大覚寺統の抗議行動の甲斐もなく翌年『第101代称光天皇』が即位する。 

 後小松院にすれば『治天の君』となっても『室町殿』義持の威光の風下に立つ事を余儀なくされたのだ。


 1395年に出家して、官職を全て辞した道義(義満)は、天皇の臣下でない自由な立場を使って、1401年中華『明』に使節を派遣する。

 若くして抱いた野望は、1374年の遣使から“南朝懐良親王こそ日本国王良懐”として明朝が唯一正規な通交通商相手に定めた事と、“天皇臣下との通交は認めない”という中華外交の方針から幕府の交渉は実らず挫折する。1380年に再度チャレンジするが前回と同様で入貢は拒まれていた。

 懐良親王は1336年父後醍醐帝の命を受け九州攻略に就き1361年大宰府を制すると1370年に明朝使節団のアプローチに応え冊封を申し入れたようだが1372年明使者は博多を制圧した幕府方に捕われ、冊封承認を“国王良懐”に伝達出来なかったようだ。

 道義(義満)は明朝の“良懐冊封”既成事実を改め正規通交を始めるのに苦労したが明朝2代皇帝建文帝は“日本国准三后源道義”として冊封し両国国交が正式樹立すると1404年『勘合貿易』が始まった。

 明王朝は当時、強固な中華イデオロギーから“朝貢貿易(冊封による貿易)”以外は認めず、日本にとって中華皇帝に朝貢する形は、遣唐使時代に聖徳太子の外交成果で中華と暗黙の了解が成立して以来守ってきた独自性により公家社会が強く否定した。元寇では武家政権主導で挙国一致が叶い、なんとか守り抜いた“国家の威信”である。

 道義(義満)はそんな“悠久の名分”をあっさり捨て実利を取り、公家社会は俯いて暗に批判したが、この時期の日明貿易が今日続く日本文化・芸術を生み育んで民衆に浸透する先駆けとして深く関わった事は紛れもない事実である。(後記を参照)

 1408年、幕府・朝廷の絶対権力者である道義(義満)が亡くなる。(享年51歳)

朝廷から死の3日後『太上天皇』の尊号を贈られたが、将軍義持は“先例なし”として辞退して宣下自体がなかった事とされた。これは道義(義満)の功績に対する朝廷の配慮であり、事前の示し合わせにより辞退の処遇まで決まっていたという。

 4代将軍義持は父義満と不仲で、異母弟義嗣が寵愛を受けた。内裏清涼殿で異例の元服(1408年)から11日後の義満死去によって家督相続問題が起きる。

 通常ならば将軍職を継いだ兄義持にすんなりと収まるのだろうが、親王に相当する待遇を受けていた弟義嗣を後継と見る者も多く、義満の真意の解らぬまま管領である斯波義将の主張により家督相続は将軍義持に一旦落ち着いた。

 49日法要あと4代将軍義持は“花の御所”に入るが、翌年には祖父2代義詮の住んだ三条坊門殿に移り、義満造成の政務中枢の“北山第”は、“鹿苑寺(金閣)”を除いて、全て取り壊され、公家寄りから武家政権色の復活を印象付けると、明貿易に肯定的な斯波義将の死去(1410年)を契機に、明朝との冊封関係解消に動き、翌年に国交を断絶して3代義満の残した政策に抗った。

 管領に畠山満家を就ける頃から、独自の政策に自信を深め、父義満の専制的手法と異なる調整役としての機敏な政治手腕を発揮してゆく。



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