第16話 太平記の世(南北朝)

 大塔宮の人気は絶大で上洛は総勢20万7000騎を誇った。(1333年7月末)

継母阿野廉子の計略に堕ちなければ間違いなく天下は大きく変わっていた事だろう。

 後醍醐帝は“建武の新政”で自らの退位と北朝初代光厳天皇即位を否定し、その間の朝廷人事すべてを無効にして、幕府・摂関を廃し、皇統を大覚寺統に一統する。

 地方政権運営は将軍府を陸奥と鎌倉に配置して東国一帯の守りとした。1334年に恒良親王(父後醍醐・母阿野廉子)が皇太子に指名されるが朝廷内の動乱は治まらず将軍府を巡る諍いが勃発する。

 征夷大将軍である大塔宮の意向が叶い義良親王(後村上帝)を奉じて北畠顕家が

“陸奥守”に就き将軍府を設置すると、尊氏は成良親王(義良同母弟)を鎌倉府将軍に擁立して、尊氏弟直義を執権に据え鎌倉に駐屯させる。

 東国での勢力争いが膠着すると、大塔宮は尊氏の野望を指摘して、後醍醐帝に尊氏追討の勅語を願うが叶わず、恒良・義良・成良、三親王の実母で大塔宮人気を恐れた阿野廉子の計略に堕ちて捕まり征夷大将軍を解任されてしまう。当然、裏には尊氏が居て、寵后阿野廉子を操って大塔宮(護良親王)を謀反人に仕立て上げたのだ。


 1334年11月護良親王(大塔宮)は鎌倉府に幽閉され足利直義監視下に置かれる。盟友の楠木正成はこれを耳にすると、政権役職を降りて抗議の意を示したという。 

 1335年に信濃で北条高時の遺児北条時行を担いだ鎌倉幕府残党が“中先代の乱”を興すと、武蔵で足利直義軍を破って鎌倉へ迫った。

 直義は配下に命じて幽閉下にある護良親王(大塔宮)を殺害してから、成良親王と共に脱出して鎌倉を明け渡した。

 護良親王(大塔宮)は北条残党にとって敵方皇族であり、味方のはずの足利直義が慌てて殺す理由など何処にも無かったのだが、北条氏反抗の混乱に埋もれるように、その命はあっさり奪われてしまう。


 後醍醐帝への反抗は京の公家からも起きていた。西園寺公宗が高時弟の北条奏家を匿い、後伏見法皇(持明院統)を擁立して、後醍醐帝の政権転覆を企み失敗したのが遂一ヵ月前で、奏家は逃れて各地に隠れる北条残党に挙兵を呼びかけていた。

 信濃に続いて、北陸では名越時兼(北条一門)も挙兵する。足利直義軍は駿河でも追討軍に敗れて三河まで後退し、京にあった足利尊氏は後醍醐帝に反攻討伐の許可と『征夷大将軍』の官位を要求する。

 後醍醐帝は拒否するのだが、尊氏は即刻、勅状を得ないまま出陣すると後醍醐帝は仕方なく追って『征東将軍』の号を与える。

 弟直義と合流して駿河を今川勢(建武政権方)が奪還するなど徐々に攻勢を掛けて20日間余りで鎌倉奪還に成功すると、尊氏は鎌倉に就き後醍醐帝の存在を無視して功労者に恩給の書状を発給し、上洛命令にも背き離反した。(1335年8月) 


 ここに至り、鎌倉幕府を直接討ち滅ぼして上洛後は2年間パッとせず、足利尊氏に大きく水を開けられていた新田義貞が表舞台に引きずり出されることになる。

 新田氏は建武政権下でも尊氏の足利氏に従う立場であって、後醍醐帝の命とはいえ北条打倒綸旨を賜った縁有る護良親王(大塔宮)の捕縛を尊氏のために主導したのも義貞である。何とも政治的力量には欠けるが、護良親王の失脚後、宮方の旗頭として白羽の矢が立った義貞は昇進を重ねる。

 しかし、中先代の乱で新田一門の多くが尊氏与党として参じ命を張り、一族所領は尊氏の命により武功ある者へ褒美として勝手に分給された。

 更に、尊氏は義貞を君側の奸と奏状して、鎌倉に留まりながらも後醍醐帝に誅罰を進言する。義貞から反論奏状が提出され、後醍醐帝はどちらか選ぶ決断を迫られた。

 1335年11月、足利直義命による“護良親王の殺害”が明らかになり朝議は決して、新田義貞に対し足利尊氏・直義兄弟の討伐宣旨が発せられる。

 “錦の御旗”を賜って、義貞は遂に祖先から続いた足利氏への従属連鎖を断ち切る。官軍総大将の義貞は尊良親王を奉じ10万の軍勢で鎌倉へ向かい、陸奥将軍府からは北畠顕家が増援として進軍を開始する。


 足利尊氏には躁鬱(そううつ)の気があったとされ、この時は護良親王(大塔宮)を手に掛けた贖罪と恩義のある後醍醐帝へ背信行為から鬱状態にあり、仲間内に対して遁世(隠居)を願いでる有様で、代わりに弟直義が軍議を開き軍勢を纏め出撃すると三河と駿河であっさり官軍に敗れる。

 朝敵の烙印を押された足利軍の士気は低かったが箱根まで攻められ後がなくなると20万の軍勢と共に尊氏が前線に復帰して形勢は一気に逆転する。


 総崩れで逃げ惑う新田官軍を追撃する足利軍。

太平記では撤退で自ら殿(しんがり)を勤め、兵を逃がす義貞に主従のおもいやりを強調し「あるべき武士の姿」とするのだが1335年12月末には京の都が主戦場となり義貞は追い詰められる。

 1336年1月尊氏の軍勢が京を占拠すると後醍醐帝は逃げて義貞もこれに供奉する。そこへ遅れて、北畠顕家ら陸奥国府の官軍が京へ到着し、戦の形勢が再び逆転すると1月末には義貞・正成ら官軍によって京都奪還の総攻撃が始まり、30日間攻防の末に足利軍は敗走した。必要な首級を失う事なく摂津に布陣して再上洛を窺う尊氏だが、義貞軍の攻勢に再び敗れて九州へ落ち延びる。

 合戦の最中で尊氏に“一騎打ち”を挑んだ義貞だが、相手にもされずに討ち損じる。知将の誉れ高き楠木正成の洞察力は義貞より敵方尊氏に武将として器量を強く感じ、案の定、尊氏は計略により追討軍を播磨に釘付けて、本隊は九州で増強を図り迅速に巻き返しする。

 1336年5月戦力を立て直し北朝初代光厳上皇から“後醍醐帝への追討宣旨”を賜った尊氏の軍勢に摂津まで押し込まれた新田義貞軍は楠木正成の軍勢と合流して尊氏軍を迎え撃つ陣立てを行った。

 酒を酌み交わし胸の内を語り合う二人、皇軍総大将の重責に圧し潰され連敗を気に病んで玉砕覚悟の義貞を慰めつつ、その頑迷さに落胆したに違いない正成は、翌日の

“湊川の戦い”で新田軍との連携の不味さを突かれ敗れて、弟の楠木正季と刺し違えて自害する。

 弟正季が残した「七生マデ只同ジ人間二生レテ朝敵ヲ滅サバヤトコソ存候へ」が、後に忠臣の証として語られる「七生報国」の由来となった。


 義貞は敗戦濃厚で騎馬が矢に倒れても殿(しんがり)を続け何とか落ち延びるが、宮方は比叡山に逃げ込み、尊氏は光厳上皇を奉じて京に凱旋して、近江に陣立てした義貞と睨み合う。 

 義貞は尊氏に再び一騎打ちを挑むが相手にされず、比叡山の後醍醐帝や一部同胞が裏で尊氏の調略に応じた事も知らずにいる。

 これは太平記のみ記すが、後醍醐帝が義貞を見限って己の延命に動いたという事。少なくとも1336年10月に義貞と恒良親王・尊良親王軍勢が北陸へ向かい後醍醐帝と分裂したのは確かであり、その後の義貞と親王一向の道程は苦難を極める。

 後醍醐帝は三種の神器を光厳上皇弟『北朝2代光明天皇(持明院統)』に差し出し廃位の後に京御所内に幽閉された。


 北朝2代光明帝は足利尊氏を征夷大将軍に任じ、尊氏は武家政権樹立を宣言すると自ら『鎌倉殿』を名乗る。(1336年11月)

 12月後醍醐帝が京を脱出し吉野に逃れ『南朝』を樹立、京朝廷『北朝』に対抗し後醍醐帝は北陸に続き皇子を九州・東国・奥州へ送ったが北朝(京朝廷)と尊氏勢の形勢優位は揺るがず、1337年3月、義貞勢が籠城する越前金ケ崎城が半年間の包囲の末に陥落する。

 飢えで凄惨を極めた戦闘は、恒良親王の捕縛、尊良親王・新田義顕(長男)自害の結末で、義貞だけが生き永らえて越前で死闘を続けた。

 その年8月に奥州北畠顕家が挙兵して上洛し、義貞次男や北条時行(高時遺児)が合流して破竹の勢いで西進を始め、後醍醐帝(南朝)呼びかけも有り義貞の越前軍も巻き返して優位に戦いを進める。

 ところが、1338年1月北畠顕家は越前義貞軍と合流する道を選ばずに、奈良方面へ向かうと、その後は苦戦を続けて和泉で尊氏軍に追い詰められ討ち死にしてしまう。

 南朝勢はこの愚策により唯一といえる勝機を逃して、半年後には新田義貞も越前の地で眉間に矢を受け、太刀で頸(くび)を掻き切って果てた。(享年38歳)

 新田義貞の死は、足利尊氏との武家の棟梁を巡る争いに終止符を打ち、後醍醐帝の南朝劣勢を決定づける。

 太平記は京都人の新田義貞への追悼の記しともいわれ、公家や寺社勢と折り合いは悪いが、庶民に人気があった義貞ならではの逸話だ。それから一年後の1339年8月、奥州遠征より吉野へ戻った義良親王(七男)に、病床にあった後醍醐帝が譲位して『第97代後村上天皇』(南朝2代)が即位した翌日、後醍醐は50歳で崩御した。

 “暗君後醍醐帝”を取り巻く「忠臣の悲劇の記しが太平記」であり、南朝の正統性が確認された江戸時代以降でも歴史評価が変わる事は無かった。たしかに、建武親政の性急さは、武士のみならず、貴族・寺社、庶民に至るすべての既得権益をあっさりと瓦解させてしまう危険すら孕んでいた。

 後醍醐帝自身も己の発想と目の前の現実との帳尻合わせに悩んで、帝が理想とする500年も昔の「延喜の治(貴族の世)」とは、比べ物にならない武家社会の複雑さにゲンナリした事だろう。

 鎌倉幕府を滅ぼして京に政治の中枢を戻しても「御成敗式目と忠義と恩賞」により形作られ、ある意味で「公正を目指した」武家による社会秩序は、民衆社会隅々まで浸透しており、公家(貴族)だけが特権を振りかざす世など誰も望んでいない。

 そうした武家社会や世相とのひずみに帝の権威『綸旨(天皇私的意思文書)』や『宣旨(天皇正式文書)』を発する事で直接係って、対決しようと臨んだのは無謀と言える強い意気込みであった。

 後醍醐帝は野心家で、すべて請負って忙し過ぎた。結局膨らんだバイタリティーを

まとめられず、思考を破綻させてしまう。

 革命的思想の持ち主にありがちな失敗で、後醍醐帝も信長のように“人間五十年~夢幻の如くなり~”と舞いたかったに違いはないのだ。

 後醍醐帝のイメージはネガティブなプロパガンダからか暗愚で不徳の君主であるが

二頭体制が保守派の安直な衆愚政治と化した時代に、天皇制ルネッサンスを呼び掛け強引にでも終わらせた功績は大きいと思う。

 また本当の地方分権思考の先駆け (大塔宮の功績)でもあり、結果的ではあるが大勢の民衆が暮らす世の土台となる社会体制を創造し今の世に通ずる革命的な仕事をした思想家君主であったとも思うのだ。

 北畠親房は大塔宮(護良親王)発案である陸奥国将軍府を創設した北畠顕家の父で

“後の三房”と呼ばれた後醍醐帝側近だが、義良親王(後村上帝)を奉じ奥州随行して北畠顕家・新田義貞の亡き後に後醍醐帝の下に参じ、南朝総司令官となる。

 南朝は1347年楠木正行(正成嫡男)挙兵で奮闘するが、翌年1348年に幕府執事の高師直の軍勢に正行軍が玉砕する。

 高師直は1338年に南朝の救世主であった北畠顕家を討ちとり、10年後、“軍神”を父正成より継承していた楠木正行を破って南朝勢を吉野の地から追い出した。

 将軍足利尊氏の側近として権勢を揮い、幕府内で直義(尊氏弟)と双璧を成すが、対立により計略にはまり執事を解任されると、直義罷免を訴えて武力蜂起して遂には直義を出家に追い込んだ。

 両者の諍いに将軍尊氏は「どっちつかず」の曖昧な態度で臨み、結果的に弟直義の後釜に義詮(尊氏嫡男)が座り、鎌倉公方に基氏(尊氏次男)が繰り上がる。

 尊氏庶子で弟直義の猶子となった足利直冬が九州で勢力拡大すると討伐に遠征軍を組織させた。

 1350年直義派が幕府内で追い込まれると直義は京を脱出して南朝傘下に加わり、これに直義派の武将も次々と従って勢力を拡大させ、義詮(尊氏嫡男)の京幕府勢を圧倒する。(1351年)

 将軍尊氏は、高師直を捉えて差し出す事で南朝に下った弟直義と和睦し、高師直の護送中の殺害を許可する。高師直を見捨て、弟直義を再び迎えて悪びれる様子も無く尊大に振る舞った将軍尊氏の態度に、勝ち戦を自認していた直義派の武将は恐怖して将軍尊氏の権勢はむしろ高まる事となった。

 結局、その後も直義派へ幕府内の追い込みが続く中で、将軍尊氏は南朝と接触まで始める。諍いの最中で“直義追討令”を発したものの、兵を募れなかった北朝光厳院の権威失墜に見切りをつけた格好だ。

 これに対して、弟直義は再び京を脱出して北陸経由で鎌倉の地を目指した。

将軍尊氏は1351年11月南朝との和議を成立させ、南朝から直義追討の綸旨を得たが北朝3代崇光天皇は廃されることとなる。(正平一統)

 南朝方の北畠親房・楠木正儀らが京へ侵攻して来ると、父尊氏の南朝和睦の考えに従うしかない嫡男義詮は近江国へ避難して北朝は光厳・光明・崇光3上皇と皇太子を奪われた。南朝方リーダーの北畠親房はこれを機に北朝勢と足利勢の一掃を画策していたのだ。

 足利尊氏は征夷大将軍を解任され、『治天の君』光厳院も奪われ、三種の神器さえ南朝の手の内にある。

 嫡男義詮の奮闘により、南朝2代後村上帝の京行宮を何とか阻止して、南朝方より京を奪還した幕府・北朝だが、深刻な政治危機は変わらずで、治天の君・帝位による政治裁可の正統性を早急に取り戻す必要に迫られると、光厳・光明院の生母を強引に治天の君に据えて、崇光院弟を『北朝4代後光厳天皇』として即位させる。

 1352年、尊氏は逃げた弟直義を捕らえて鎌倉に幽閉する。(その後直義は急死)尊氏が京都不在の間に南朝との和睦が破られると、畿内から鎌倉の間で、南朝勢との小競り合いが続いたが、嫡男義詮の救援要請に答えて凱旋すると京を奪還した。

 1354年には足利直冬を奉じた旧直義派の大攻勢に苦戦したが、嫡男義詮軍と共にこれを撃退する。しかし、直冬討伐も果たせぬまま、足利尊氏が没して(1358年)嫡男足利義詮が征夷大将軍に就き一身に幕府・南北朝の諍いを背負い込む事になり、抗争絶えぬ中で懸命の政治手腕を発揮する。


 足利尊氏は無頓着な気前良い人物で知られる。他人を恨む事を知らず、敵へ寛容であったというが、つまり土壇場まで一貫性のない人物という事でないのか?その性格ゆえに、周囲の野望を持った動向に振り回され望まぬ窮地へ追いやられ、そこで下す安易な決断を死ぬまで後悔したのだ。

 尊氏の下した決断が、天下を翻弄してきた事は言うまでもない。極めつけといえる一時的南朝帰順から3年後の1354年、知恵袋北畠親房の死去を契機にリーダーを欠く南朝は一気に衰退の道を辿り、1355年光明院、1357年は光厳院・崇光院・直仁親王次々北朝に返還して、幕府方に講和の意を示すが実は結ばず、1358年2代将軍義詮の本格的な南朝掃討が始まる。

 『第97代後村上天皇(南朝2代)』摂津国住吉大社行宮は10年間に及び、この地で終焉する(1368年)。後継は永く明らかにされず、1926年(大正15年)になって『第98代長慶天皇(南朝3代)』在位がようやく公認された。

 長慶帝は1368年践祚して間もなく楠木正儀(南朝総大将)に見限られてしまう。和平に望みを託していた正儀が、長慶帝の今更の強硬な姿勢に呆れて北朝へ降ると、いよいよ史料が減って、行動はベールに包まれるが幕府軍に追い立てられ行宮の地を転々とし、1382年正儀帰参の翌年、弟で穏健派『第99代後亀山天皇(南朝4代)』へ譲位したようだ。

 幕府では、1367年鎌倉公方で関東統治と文化興隆に努めた2代将軍義詮の弟基氏が病没し(享年28歳)、3ヶ月後には2代将軍義詮が幼少の嫡男義満を有力守護大名の細川頼之に託し死去する。(享年38歳)

 「太平記は2代将軍義詮を愚鈍な人物として描く」しかし、父尊氏のカリスマ的な武力によって切り開かれ“ばらさ”と呼ばれた身分・秩序を無視する過ぎた実力主義や権威を軽んじて嘲笑・反撥する派手な振舞いなど、当時流行の“カオス”な世の風潮に秩序と安定を与えたのは2代将軍義詮の地味で実直な内政や軍略ではないのか。

 いずれにしても、後醍醐帝の派手な野望に始まり、足利義詮の地味な終焉で幕引きされた「太平記の世」こそ、対極的な権威の神輿に担ぎ手が目まぐるしく立ち回る『下剋上』の始まりであり、“ばらさ”思想と美意識から、一部の武士は“己の正義”を主張して、民衆はその粋な姿に“自由”を見たが、窮屈な社会常識から一瞬解放される痛快さとは裏腹に治世は乱れる。“世の太平”とは、平和を祈願する意味に他ならず、京街で花開く“町衆”に代表される民衆社会の自治こそが、その後の人間社会を支える強い原動力となってゆくのだ。

 舞台は再び京に戻った。二条通を境に北が上京、南が下京と呼ばれ上京は政庁街で下京は商業や手工業の盛んな“庶民の街”として賑わう。

 政治都市として復活する一方で経済発展を遂げ、“町衆”と呼ばれる有力市民による自治の伝統が生まれ、為政者にとって無視できない民意を反映する文化が形成されて人々の暮らしを豊かにしてゆく。









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