第15話 太平記の世(倒幕)
北条得宗家貞時が執権職を従兄弟の師時に譲って(1301年)嫡男高時の元服まで中継ぎとしたのは、政権中枢に血縁者を多く置く為だが、1305年の連署時村殺害に始まる北条一門の亀裂は得宗家貞時の一族内の孤立を深める結果となる。
1308年、八代将軍久明親王に代え、その子守邦親王(8歳)を九代将軍に擁立し、翌1309年には嫡男高時を元服させて後継を整えるが、その後は政治意欲を無くして政務を疎かに酒宴に耽る日々を過ごし、1311年十代執権師時が亡くなると、政敵が次の執権職に就くという始末で、北条得宗家である貞時が不在でも幕政に支障は無く得宗家は将軍同様に幕府のお飾りとなる。
得宗家貞時は十代執権師時の死去から1カ月、後を追い寂しく死去する。(41歳)
嫡男高時はわずか9歳で得宗家を継いで、中継ぎの執権を3代経て1316年に父と同じ14歳で執権に就くが実権は無く“後内人”と呼ばれる得宗家のお傍衆が権勢を揮った。
始祖源頼朝から御家人衆が受け継ぎ目指した“土民の平和”を守る幕府の姿はもはや見る影もなく、上層部は内輪の諍いに明け暮れて大局を見失う晩年を迎えていた。
京では、1287年『第92代伏見天皇(持明院統)』即位から、1289年に伏見帝弟の久明親王が八代将軍に就き、持明院統にとり有利な情勢が続いていた。
1298年『第93代後伏見天皇(持明院統)』11歳が即位して、2代続けた持明院統の天皇擁立は幕府と大覚寺統の抵抗を生んで皇位継承に圧力がかかると、3年後1301年後宇多院の第一皇子に譲位して『第94代後二条天皇(大覚寺統)』が即位した。
この際、後伏見院は僅か14歳皇子もなく皇太子は異母弟富仁親王が据えられた。1308年に後二条帝が急逝すると『第95代花園天皇(持明院統)』が12歳で即位し。続き1318年後宇多院第二皇子が中継ぎで『第96代後醍醐天皇(大覚寺統31歳)』に即位する。250年ぶりの30代の天皇即位であり大覚寺統体制確立の刺客といえた。
表向きは、父後宇多院政“治天の君”の下、後二条帝遺児の邦良親王(大覚寺統)が次の皇太子となり、後伏見院皇子の量仁親王(持明院統)が続き皇太子となるはずの示し合わせであり、つまり後醍醐帝は一代限りの主として皇統に子孫が連なる事など無い存在である。
ところが、1321年後宇多法皇は院政を停止して後醍醐帝に親政を許した。理由は諸説あるが、1324年に後宇多法皇が崩御(58歳)すると、“治天の君”を受け継いだ後醍醐帝に対し六波羅探題(幕府)から圧力が掛かった事は間違えない。
そんな中で、後醍醐帝の次の帝に約束されていた邦良親王が27歳で急逝すると、次期皇太子に持明院統である量仁親王が繰り上がり波乱を感じた幕府の後醍醐帝への譲位圧力は更に強まる。
後醍醐帝は六波羅探題の監視の目をしのぎつつ皇権復興を目指して『倒幕』意思を固めるが、1331年側近の密告から倒幕の計画が露呈して身辺にまで危機が迫ると『三種の神器』を持ちだし京都脱出を決行し挙兵した。(元弘の乱)
これには尊良親王と大塔宮(護良親王)の二皇子が添って、合戦名手として畿内に知れた『楠木正成』が加担する。
元は得宗家に仕え、幕府に歯向かう強者を悉(ことごと)く打ち破って功績を挙げた正成が、どのような因果で後醍醐帝の呼びかけに応じ兵を挙げたのか定かでないが
“忠臣・尊王”といった凝り固まった思想で語るよりも、もっと破天荒な反逆者精神の方がすんなりと時代にハマる。
後醍醐帝方3000に対し鎌倉幕府は75000の兵を差向け圧倒すると、幕府方は早々に後醍醐帝を捉えて『三種の神器』奪還に成功する。
帝位は直ぐ幕府に廃され『光厳天皇(北朝初代)』が就き、皇室の反逆行為を蔑む六波羅探題の取り調べに“悪魔のせいだ”と醜く言い逃れ隠岐島に流される後醍醐帝と対照的に、大塔宮(護良親王)と楠木正成の幕府勢を翻弄した戦ぶりが『太平記』に記される。姿を眩ましながら“錦の御旗”の下に反幕勢力を募り令旨を発する大塔宮と楠木正成の強烈な武威に引き込まれ、幕府に不満を抱える雑兵が集まり始める。
『太平記』は後醍醐帝即位(1318年)から室町幕府2代将軍足利義詮の死去に至る50年間を描いた軍記物語だが、琵琶の調べに引き込まれる『平家物語』の芸術的な完成度とは違い、どこか一貫性を欠く事象の詰め込みに感じられる。
物語僧により語り読みされ広まったというが、作中は首尾通してゴタゴタだらけで討幕戦乱・分裂・南北朝動乱と合戦続き、“下剋上”の風潮が当時の政治に批判的ではあるものの南北朝分裂は双方の正統性についての議論に留まり釈然としない。
何かどれも中途半端で美意識に欠け、鎌倉末期“利権争いの泥沼”が混沌と続いて
“武士の美徳感”に代わる新たな価値の創造が出来ないまま、為政者の生臭い首だけが挿げ替えられた不毛な時代を映し出し、“これもヒトの歴史”と残念な思いに駆られる後味の悪い作品なのだ。
物語の主役の一人である足利尊氏にしても不安定過ぎる行動原理が語られぬままに英雄or悪人のイメージが定着している。
足利氏は鎌倉御家人衆内でも北条氏に次ぐ名門で、1331年高氏(尊氏)が家督を継いだ。その年、京で“元弘の乱(後醍醐帝挙兵)”が起こると幕府は派兵を命じる。
高氏は喪中を理由に辞退するのだが許されず参加させられ、太平記ではこの遺恨が幕府への反旗に繋がるとされた。
幕府側勝利により高氏の名声は高まるが、京で花園上皇への戦勝報告に参加もせず功績へ官位授与も無頓着、地位名声などまるで眼中に無い感じなのだ。(1332年)
1333年2月、大塔宮(護良親王)は吉野で再起し挙兵するのだが、又も幕府大軍を前に籠城を余儀なくされ、最後を覚悟した大塔宮は家臣村上義光の説得で死の寸前に落ち延びる。義光は大塔宮の甲冑を着て身代わり切腹して、自ら腹ワタを引きちぎり敵に投げつけた。この村上氏にしても元は北条得宗家に仕える有力御家人であって、どんな因果で大塔宮への忠臣に及んだのかわかっていない。
大塔宮は高野山に落ち伸びて、抵抗勢力を集め倒幕の立て直しを図る。楠木正成は元弘の乱で明け渡した赤坂城を1332年に奪還すると背後の山に千早城を築き一帯を要塞化して幕府と対峙し、1333年2月の大塔宮挙兵に呼応したが吉野も赤坂も陥落、全幕府方が楠木正成の千早城に押し寄せて完全に包囲される。
太平記には、力攻めにより憤死する幕府方惨状が記され、正成の“千早城籠城戦”は伝説となり、大塔宮の援軍により幕府包囲軍の兵糧が断たれると、形勢は正成に傾き幕府方に離反が増える。
千早城攻防に釘付けの幕府軍の隙を突き1333年4月後醍醐帝が隠岐島を脱出すると
“倒幕の綸旨”を全国に発したのだが、既に倒幕の気運は高っている。
鎌倉幕府は反乱鎮圧軍を新たに組織して、名越高家と足利高氏(尊氏)を司令官に上洛させる。
高氏は妻登子・嫡男千寿王らを人質として鎌倉に残しながら、上洛の途中で謀反の志を腹心達に打ち明けて、伯耆(鳥取)で籠城する後醍醐帝へ内通し“倒幕の密勅”を賜った。宮方との初戦で名越高家が戦死すると、丹波にて寝返り反幕府の兵を挙げてすぐに播磨・近江の反幕府勢力を糾合し上洛すると、5月に幕府拠点の六波羅探題を攻め滅ぼした。(1333年5月)
同じころ関東では、千寿王(高氏嫡男)が鎌倉脱出に成功し武蔵国の利根川流域で『新田義貞』の軍勢に合流する。父(高氏)名代として家臣の補佐により鎌倉攻めへ参加する武士に軍忠状を発付し、“武家の棟梁”足利氏が広く認知される端緒を作る。
新田義貞は“太平記では足利尊氏のライバル”として大スター扱いで描かれている。しかし、平家物語における木曾義仲とキャラが被り義理人情に厚い無骨な田舎武者が京の政治に翻弄された挙句の果て……という結末だ。
上田国新田荘(群馬太田)で、代々足利氏とは関係深い新田宗家の嫡男に育って、幕府からは冷遇されていたという。
楠木正成が奮戦する“千早城の戦い”に幕府の動員命令に応じて参加するが、途中で新田荘に引き上げる。これは、大塔宮と内通して“北条氏打倒綸旨”を受け取った為とされているが事実は定かでない。
義貞の幕府への反逆が定まったのは帰還後、里で無理な軍費調達の取り立てをする幕府の徴税官を腹に据えかね切り殺すことによる。
得宗北条高時の報復により、所領は没収され討伐軍が向けられる情報が耳に入ると素早く決起し鎌倉を目指した。(1333年5月)
はじめ騎馬武者150騎の軍勢が道中で9000に膨れ上がり、尊氏嫡男の千寿王200が合流するとそれを聞きつけ、更に各地から兵が押し寄せて、総勢20万の大軍勢が方々から鎌倉へ向かう。
幕府方は義貞挙兵の報を受け、回り込み背後を突く2面作戦で臨むが、鎌倉街道を進む新田軍は迅速で両軍布陣の余裕もなく出合い頭に戦闘が始まる。
30000の幕府方相手に、新田軍10000は奇襲で挑んで2日目に本陣を突くと幕府方は後退。勝ちを焦った新田軍は幕府方北条奏家軍10万の増援に気付かず、無理に突撃を敢行してあっさり迎撃される。
敗走の中で義貞は九死に一生を得る。勝利確実のはずの幕府方は撤退する新田軍を静観して見逃した。どうやら、この辺りで京での足利高氏による“六波羅探題殲滅”が両軍に伝わったようである。
その後、戦局は再び義貞方に傾いて、幕府方は多摩川まで後退。新田軍70000対、幕府方50000の戦いで北条泰家は鎌倉に逃げ帰って初戦から6日間が経過していた。
幕府方は防備を固め鎌倉街道を進軍する20万に膨れ上がった新田軍を迎え撃つ。義貞は決戦を控え軍勢を立て直し、8日目に三方から鎌倉に攻め入るが、侵攻は全て失敗して幕府方の鎌倉を囲む“切通し”の守りは鉄壁だった。
10日目、義貞は援軍を連れ稲村ケ崎へ駆けつけるが断崖下と沿岸の幕府軍防備は万全で簡単には攻め込めない。しかし、11日目明朝には新田軍は稲村ケ崎を難なく越え、由比ヶ浜になだれ込んだ。太平記で「龍神の奇蹟」とされた進軍は鎌倉幕府の敗北を決定付けて、最後には、得宗家北条高時は菩提寺の東勝寺へ退いて、火を放ち一族・家臣、283人と共に自害する。
九代将軍の守邦親王が職を退いて出家すると、15日目“九州鎮西探題”が反幕勢力により陥落して鎌倉幕府は完全に滅亡する。(1333年5月)
鎌倉を陥落させた新田義貞と千寿王はそれぞれ鎌倉に陣を構え、義貞は戦後処理に奔走して権威を示すが、1333年6月に後醍醐帝が帰京して『建武の新政』が始まると様子は一変する。
京での論功業賞を聞きつけ、鎌倉に陣取った諸将は次々と上洛して、残る武士達も無官の義貞ではなく足利尊氏子息の千寿王の下へ集まった。
新田義貞は留まる理由を失って、1333年6月には鎌倉を去って上洛する道を選ぶと
鎌倉の治安は尊氏が派遣した細川三兄弟により平定されて足利氏の支配下となった。
楠木正成は帝の凱旋に駆けつけ道中の警護にあたり先陣を務めると後醍醐帝からの信任は厚く、多くの所領や官職を賜ることとなった。
足利高氏は“勲功第一”とされ30箇所の所領と鎮守府将軍他、多くの官位官職を賜り帝の諱尊治から偏諱を受けて“尊氏”と改名はするのだが、建武政権内の要職に自らは就かず、執事・家臣を多く送り込んでいる。
朝廷に尊氏なしと噂されるが帝と尊氏どちらの意向か定かでない。(1333年7月)
大塔宮(護良親王)は帝の凱旋パレードに現れない。大塔宮にしてみれば、自身の悪戦苦闘がいつの間に“後醍醐と尊氏による戦い”となり、すべて牛耳られ己の立場が軽んじられた事へ不満を覚えた半面、尊氏の野心と謀反に警戒し陣を解かなかった。
後醍醐帝は使者を立て、大塔宮と交渉して天下泰平のため武家を辞して門跡となり法灯に進むよう進言する。簡単にいうなら護良親王の権力すべてを仏教界に封じ込め俗界には進出させない心積もりだったのだが、大塔宮は天下の泰平は一時的であって尊氏が武家として台頭する事で戦乱の世が再び来ると主張した。
後醍醐帝は尊氏牽制の意味も含め大塔宮を『征夷大将軍』に任じて武家から朝廷を守る思いに答える反面、その人気を恐れて御家人制を廃止し将軍の効力を奪った。
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