第14話 武士の性分

 11月入り元軍の撤退による大宰府軍の勝利が伝わると“神風”が吹いて元軍の船団が壊滅したとの言説が流布され、多くの神社が幕府に恩賞を要求した記録が残る。

 幕府側も神領興行令を発布し恩賞に充てるなど要望に答え『八幡神』が鎌倉武家の守護神として崇敬された事が窺える。

 鎌倉幕府は逆襲を計画したが準備が整わず、元軍の再来襲に備えて九州の沿岸に

“異国警固番役”を配備した。

 1275年にはフビライから7度目の使節団が送られて、長門国(山口)に来着すると執権時宗は鎌倉に連行、龍ノ口刑場(江の島龍口寺付近)で斬首に処した。

 フビライは再侵攻を決めてはいたが、大陸での戦いが一旦、落ち着いた事もあって延期して3年後の1279年、今度は征服した南宋から使者を立て8度目の使節を送る。幕府は元からの服属要求を確認すると博多で又も斬首に処する。

 フビライは使節団の帰還を待つ一方で次の出兵準備を進めるが、造船を命じていた高麗でも疲弊に喘ぎ建造が進まず、侵攻を諫める者が相次いだ。それでもフビライは侵攻を諦めない。その頃、使節団処刑の報が元に伝わり、怒りの侵攻国意は決する。 


 1281年、元・高麗軍900艇、旧南宋軍3500艇、計4400艇14万人(当時世界最大)大艦隊が日本侵攻に編成された。(弘安の役)

 先方の、東路軍(900艇)は江南軍(3500艇)合流前に対馬・壱岐・長門へ侵攻を開始して博多湾になだれ込むが、幕府が築いた防塁に阻まれて上陸は叶わず、周辺の島を占領して軍船停泊地とした。

 これに対し、幕府軍が陸路と海路から断続的に攻め込んで追い詰めると、東路軍は島を放棄し、壱岐まで後退して江南軍との合流を待つ手に出る。

 ところが、合流期限を過ぎても江南軍は現れず、軍内には疫病が蔓延して3000人を超える死者を出し、進退極まりつつ壱岐海域で待機を続ける。

 江南軍は半月遅れで長崎沖の諸島群域に到着し、軍船団を停泊してようやく本陣を構えた。時を同じくして、壱岐の東路軍に幕府軍総攻撃が始まるが、江南軍の動向を掴んでいた東路軍は合流に向けて壱岐を放棄する。

 合流する元軍の拠点となった鷹島(長崎)沖での海戦は昼夜を通し激しく続いて、本土侵攻は防塁に阻まれ、元軍が目論んだ上陸して大宰府進軍と行かず、やむを得ず鷹島に防御の土塁を築いて、立て籠もるような格好になったという。

 一方の幕府軍では、六波羅探題から増援部隊60000騎の大軍が、北九州に向かって進軍し、荘園領からの兵糧調達など戦時動員体制は万全であり、執権時宗の卓越したリーダーシップにより“挙国一致”の士気は高まって、西日本選抜の御家人衆は昼夜を問わず勇敢に攻め続ける。

 戦闘が2カ月を過ぎた頃、“台風”が沿岸部を襲うと、海上にある江南軍大型軍船は互いに激突して沈み、兵士は次々荒海に投げ出された。

 被害程度は残された記しによって様々だが、文永の役(元寇初回)を経験していた東路軍の軍船は頑丈で台風被害も軽度に済んで、多くの将兵の生還が叶ったようだ。しかし、江南軍の撤退は味方同士が帰船を奪い合う修羅場と化した。

 鷹島に置き去りにされた10余万の元軍兵に対する掃蕩戦の激しさは、鷹島地方に残された地名からも伝わるが(首除クビノキ・血崎・地獄谷)元軍兵は多くが将校に見捨てられた兵卒であり、敗残兵に組織的戦闘など出来るわけもない。


 二次侵攻の“弘安の役(1281年)”にも敗北したフビライは、1283年に三次侵攻を計画したが、さすがに本国でも疲弊が激しく情勢不安から国内には大規模な盗賊団が横行していた。

 その他1284年から1286年樺太遠征アイヌ排除に、1285年・1288年ベトナム侵攻の陳朝戦敗北。1287年ビルマ侵攻では傀儡政権樹立に成功するものの、どの戦いでも現地勢力の激しい抵抗で思うような戦果は得られず、遂には支持母体のモンゴル高原東方諸王家から反乱者が出る。

 老齢皇帝フビライ自身が軍を率い鎮圧に辺り、混乱に乗じ兵を挙げたカイドゥ軍を旧都カラコルムに進駐して、何とか退けはしたのだが、度重なる外征と財政難から、日本への再侵攻は放棄せざるを得ない状況となった。

 それでも、5年に渡る内乱がようやく治まるとフビライは再び日本へ侵攻を考えたという。高麗忠烈王の賛同を得て、軍備に入ったのが死の2年前。

 1294年にフビライの死(78歳)で計画が中止されると、後継者の6代皇帝テムルは13回目の使節団(テムルとしては1回目)を送った。

 その後には日本に構う事は無くなるが、幕府は情報を得るため間者を元の首都まで差し向けしばらくは緊張を続ける。


 弘安の役3年後に、病床の執権時宗が逝去し(34歳1284年)、嫡男貞時(12歳)が九代執権を継ぐが有力親族が早世していたため、政権の始まりは不安定だった。

 それでも1289年に26歳になっていた七代将軍源惟康を解任し、八代将軍久明親王(後深草院皇子)を据えたのは執権貞時の意向と言われ、21歳の1293年には幕政を掴み得宗家専制を強める。

 1294年、国防を理由に西国支配を北条家で固め鎮西探題を新たに設置(1296年)一段と北条一門が権勢を揮う結果となった。


 元寇の莫大な軍事費を御家人は借金漬けになって必死でまかなっていた。


 幕府成立以来、1世紀近くが経過しており、承久の乱から半世紀して、相続の度に御家人の所領は目減りを続けて生活は困窮してゆく。

 『奉公』の戦や長引く警固費を自腹で賄うには、所領を担保にして費用を調達する他ないが、防衛戦争に勝った所で得るものは無いから、幕府は御家人の奉公に対して充分な恩賞を払う事が出来ず『主従の契約』は反故される。

 九代執権貞時は、御家人の不満を抑える苦肉の策として“関東徳政令”を発布して、所領の質流れを強引に阻止したのだが、生活に困窮していた御家人衆にとって一度は救われても次回から金を借りられず御家人の社会的没落はむしろ進む結果となった。(武家信用喪失)

 『サードインパクト(元寇)』がもたらしたモノは非常に興味深く、単に史上初といえる侵略戦争の経験に留まらず、この時代特有の社会変革の扉であるように思う。

『セカンドインパクト(中華の脅威)』から600年間、初期の中央集権国家の形成を経て社会は成長して文明は特有の進化を始めていた。

 武士の登場は“支配の構図”を一変させ、朝廷を傀儡とした軍事政権樹立に至った。いわば、“武芸奉公”を家業とした職人集団頭目が幕府御家人(幕府奉公武者)となり『御恩と奉公(主従の契約)』に一門が就いて、鎌倉幕府が成立する。

 1275年、幕府記しにある全国の御家人総数は約480名であり、最も多いところでも武蔵国80名、他は相模国30名、信濃国30名が多い方で、御家人それぞれの動員力はまちまちとはいえ、思いのほか狭き門なのだ。

 武士として幕府に仕えない“非御家人”は多く、元寇で幕府が非御家人への指揮権を得て、“挙国一致”が叶った結果、全国的に強まった幕府の支配権が北条氏一門へ集約されると敵対して抗う勢力も全国へ拡散を始める。

 これは領民も含めて封建的主従に乗っ取った社会の拡散であり、ポイントは主人でなく奉公人の方にある。

 幕府は御家人への統率力の根幹といえる『御恩と奉公(主従の契約)』を破綻させ

御家人所領の維持だけを考えて一時しのぎで“徳政令”を無理強いした。

 幕府と御家人の社会的信用は地に落ちて、同時に戦地以外では封建領主の安定した治世と発展が見られ、農業技術の向上や貨幣の流通を背景に、庶民による経済活動が活発となり、支配層であるはずの御家人(武士)が、社会発展の流れに取り残されてしまう事態を生んだ。

 著しく人口増加が見られる農村部は“定期市”が開かれ、行商人により農作物だけでなく、手工業品も流通するようになってゆく。売買に“宋銭(貨幣)”が普及すると、更に経済は活発となり、庶民の中に中小御家人を凌駕するもが現れる。

 御家人衆の多くが経済的に没落すると武力に訴え“為政者に逆らう悪党”が横行して幕府の求心力は更に落ち社会変動は進んだ。

 こうして『サードインパクト(元寇)』は、鎌倉幕府によって開かれた“不完全な封建社会”に決定的なダメージを与えて、次のステージを開くきっかけとなる。



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