7 鉄の処女
チェイテ城の地下室の扉を開け放つと、まるで腐ったものがさらに腐ったような腐敗臭が漂ってきた。ヴァン・ヘルシングにとっては、ロンドンのカーファックスの屋敷――以前の伯爵の隠れ家――にも結構な悪臭を感じていたが、この地下室は、カーファックスの屋敷以上の悪臭を放っていた。
ヴァン・ヘルシングは額に冷や汗を流し、顔をしかめつつ懐中電灯で地下室内を照らし出した。地下室の壁は石造りで、天井と床は土が剥き出しだった。血痕と思われる飛び散った褐色の染みが、壁や天井、床のいたるところに付着していた。どれもこれも古いものに見えたが、一部最近になって付いたと思われる赤黒い染みもあった。
室内には所狭しと、身の毛もよだつ拷問器具の数々や武器が置かれていた。壁には短剣や剣が数十振り、数十本のモーニングスターや両手斧、槍がずらりと掛けられており、その手前にはさらし台や人体の四肢を固定する台はもちろん、棘の生えた鉄製の椅子、ギロチン、鉄製の熊手のようなもの、そして鉄の処女が鎮座していた。
鉄の処女――アイゼルネ・ユングフラウまたはアイアン・メイデン――はバートリ・エルジェーベトが、誘拐した娘たちの血をかき集めるのに作らせた、鉄製の機械仕掛けの拷問器具と言われている。
鉄の処女の腕を広げるように正面の扉を開けると、中は空洞で無数の棘が生えている。その中に犠牲者を入れ、バネ式の扉を閉めると、犠牲者は無数の棘に体中を突き刺されるというわけだ。そして流れ出た血はエルジェーベトの浴槽に集められたのだ――。
考えてみただけで背筋が凍った。
ヴァン・ヘルシングはブルッと体を震わせたが、少しの好奇心に負け部屋の奥にそびえ立つ鉄の処女の元に歩み寄っていった。伯爵も続く。二人とも鉄の処女を実際に目の当たりにするのは初めてだった。
鉄の処女は壁に沿って3体並んでおり、両端の鉄の処女は扉が開かれ、中の棘が剥き出しの状態だった。では、真ん中のは――。
ヴァン・ヘルシングは真ん中の鉄の処女に懐中電灯を向け、注意深く観察した。蝶番を照らし、そのまま下へと明かりを移動させ鉄の処女の足元を照らした。ヴァン・ヘルシングは目を見開くと、ヒュッと息を飲んだ。鉄の処女の足元には赤黒い液体――血液が流れたような跡が鮮明に残っていたのだ。それもごく最近のものだ。それに小さな虫が寄ってたかっているのが見えた。ヴァン・ヘルシングは手を震わせながら鉄の処女の扉に手を掛けようとした。が、横から伯爵が遮った。
「君には衝撃的かもしれんぞ」
「……」
ヴァン・ヘルシングは何も言えず、ただ伯爵に場所を譲った。伯爵が鉄の処女の前に立つと、ゆっくりと扉を開けた。錆びついた金属がきしむ、嫌な音が室内に響いた。鉄の処女の扉が開かれ、ヴァン・ヘルシングは固唾を飲みながら、伯爵の横からそっと鉄の処女をのぞき見た。とたん驚愕の表情を浮かべると、胸に手を添え、ただただ、神よ……と静かに呟くしか出来なかった。
その光景は、“笑いの王”ですら身を潜めてしまうものだったのだ――。
村に戻ったヴァン・ヘルシングと伯爵は、鉄の処女の中で無数の棘に串刺しにされた、娘の遺体を集会場に連れ帰った。集会場には娘が行方不明になった家族たちが押し掛け、無惨な状態の遺体を眺め、とある夫婦が泣き崩れた。その様子を後ろの方でヴァン・ヘルシングと伯爵が見つめていた。
娘の遺体を遺族に引き渡し、ヴァン・ヘルシングと伯爵は馬車で村外れの屋敷に向かった。その道中の馬車の中、ヴァン・ヘルシングは発見した娘の遺体について疑念を抱いていた。
……血液は確かにほとんど抜かれていた。だが……。
娘の遺体には無数の棘で刺された痕はあったのに、肝心の、首筋の吸血痕は一切なかったのだ。
……吸血鬼の仕業、なんだろうか? もしそうだとしたら、あの娘は不死者となってしまうが、その様子はなかった……。
屋敷に着くと、まだ昼間だというのに、屋敷の背後の森のせいで、屋敷周辺は夕方のように薄暗く、鬱蒼としていた。馭者には夕方に来るよう伝え、二人は屋敷内を散策した。無論、伯爵はヴァン・ヘルシングに“招いてもらった”。
無造作に生えた、枯れた雑草を払いながら墓、若しくは棺などがないかを入念に確認し、二人は屋敷へと踏み入った。玄関を潜ると目に飛び込んで来たのが、2階へと続く二つの階段である。その壁には肖像画が所狭しと掛けられていた。それには伯爵も驚きに目を丸くした。
「俺でもこんなに肖像画を描いてもらったことはない……」
「ワラキア公国元君主でもびっくり、か……」
二人は呆然と、壁の肖像画を眺めた。
少しの間、たくさんの肖像画たちを見つめていたヴァン・ヘルシングの耳元で、伯爵がからかうように囁いてきた。
「いばら姫のようにまた“起こされたい”かね……?」
「うわっ!」
肩をビクつかせ、ようやく我に返ったヴァン・ヘルシングは怪訝な表情で伯爵を睨んだ。
「間に合ってる! よ、よし……取り掛かろう……」
ヴァン・ヘルシングと伯爵は壁の両側から、各々肖像画を外していった。
全ての肖像画を外すのに少々手間取った――天井付近にもあったので――が、無事に全て外し終えると二人は、まるで廃棄物でも運び出すように肖像画を、屋敷の門前に無造作に山積みにした。
ヴァン・ヘルシングは鞄からマッチを取り出した。その傍らで伯爵が枯れた雑草を掻き集め、肖像画の上に掛けていった。
「ヴラド、準備は良いか?」
ヴァン・ヘルシングはマッチを擦り、発火させた。
「もちろんだ、エイブラハム」
伯爵は意気揚々と答えると、ヴァン・ヘルシングの隣についた。
「“楽しい”キャンプファイヤーの時間だ。昼間だがな?」
言葉とは裏腹に、真剣な表情を浮かべたヴァン・ヘルシングは種火を、枯れた雑草に投げ込むと着火させた。マッチの火はみるみる雑草に移り、大きな炎となっていった。そこにさらに、ヴァン・ヘルシングは発火させたマッチを放り込んだ。炎は次第に肖像画たちを包み込み、辺りには油の焼ける臭いと黒煙が漂った。
数時間して、ようやく全ての肖像画が真っ黒になり、灰になった。残り火を鎮火させると二人は屋敷内へ戻った。全ての肖像画が消えた屋敷内の壁には、長年掛けられていた肖像画の跡だけがあった。
ヴァン・ヘルシングの目を引くものはなくなったので、二人は手分けして屋敷の部屋という部屋を見て回った。
広間、キッチン、配膳室、ダイニングルーム、応接室、リネン室、ボイラー室、客室、寝室、屋根裏、お手洗い、庭の納屋などなど……。どの部屋も劣化が進んでいて、当時の美しかった面影はなく、蜘蛛の巣と積もりに積もった埃が虚しくあっただけだった。
だが、棺らしいものはおろか、未だ行方不明の娘たちの痕跡もなかったのだ。
ヴァン・ヘルシングは階段に座り込み、口元に手を当て考え込んだ。
……やはり、チェイテ城の方なのか……?
その時、肩に何かが乗った感覚がした。目を向けると、真っ赤な瞳の真っ黒なコウモリと目が合った。
『エイブラハム、もう日没だ。それに、外で馬車が待っている』
ヴァン・ヘルシングは上着の胸ポケットから銀製の懐中時計を取り出した。時刻は午後の4時を超えていた。
「もうこんな時間か……。宿に戻ろう」
屋敷を出ると、外は薄明の空が広がっていた。屋敷の門の前では馭者が怯えた様子で、馬のすぐ横で辺りをキョロキョロ見渡していた。
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