6 チェイテ城へ(チェイテ村滞在2日目)

 翌日、朝。

 ヴァン・ヘルシングはゆっくりと目を覚ました。

 昨夜のことをあまり良く覚えていないのだが、無意識に、俺はヴラドに言ってしまったんだな、と悟った。だが、どこかかしら心が澄み切ったように軽やかだった。

「Bună dimineata【羅語:おはよう】, Abraham.」

 伯爵の声がし、ヴァン・ヘルシングはそちらに顔を向けた。

「Goedemorgen【蘭語:おはよう】, Vlad.」

「よく眠れたかね?」

 伯爵が安堵した様子で尋ねた。

「ああ……。何だか軽くなった感じだ」

 ヴァン・ヘルシングはまだ眠気が残っている表情で目を細めた。

「それは良かった。さて、朝食をもらってこよう」

 伯爵が部屋を出ていこうとしたので、とっさにヴァン・ヘルシングは起き上がり、彼を呼び止めてしまった。

「ヴラドッ……」

 伯爵が振り返った。

「何だね?」

「俺……変なこと言ってたか?」

 ヴァン・ヘルシングの問いに伯爵は一瞬考え、否、と首を横に振った。

「そうか……」

 ヴァン・ヘルシングは少々気に食わない表情を浮かべ、自身の手元に視線を落とした。そんな彼に伯爵は、しょうがないな、と言いたげに小さくため息をつきながら彼の元に歩み寄った。

 伯爵は身を屈めるとヴァン・ヘルシングの頭に手を置き、その顔をのぞき込んだ。ヴァン・ヘルシングは驚いた様子で伯爵を見上げた。

「まだまだ“お子様”だね。案ずるな、エイブラハム。たとえ君が変なことを言ってしまったとしても、俺は君の元から去ったりなどせん。“最後”まで付き合うよ」

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせたかと思えば安心した様子で目を細めた。

「ありがとう、ヴラド……」

 ヴァン・ヘルシングはうつむくと両手で顔を覆った。少しししてすすり泣く声が聞こえ、伯爵はヴァン・ヘルシングの背をよしよし、と擦った。

「どういたしまして、エイブラハム」


 ようやくして落ち着きを取り戻したヴァン・ヘルシングに伯爵が言う。

「では、朝食をもらってこよう。その間に身支度を整えるといい。食べ終わったら昨夜の報告をしよう」 

「分かった」


 ヴァン・ヘルシングの朝食を終えて。

 昨夜の出来事の詳細――ヴァン・ヘルシング個人の本音は別として――を聞いたヴァン・ヘルシングは、ベッドに座り、両膝に肘を置き両手を組んだ。

「チェイテ城、か……。少し胸騒ぎがするな」

 ヴァン・ヘルシングは深いため息をついた。その隣で伯爵がヴァン・ヘルシングを見下ろす。

「行くかね? 今日」

「そうだな。昼間の内に下見ぐらいは……。出来れば、“エルジェーベト”と名乗った吸血鬼の寝床も見つけたい。夜になってまた操られるのはゴメンだ」

「向こうの輩との繋がりは断ち切ったが、だからといって“洗礼”は残っている。やはり、その吸血鬼を滅ぼさねばね」

 するとヴァン・ヘルシングが勢い良く立ち上がり、拳を掲げた。

「よしっ。善は急げ、だ。まずは肖像画を処分しよう」

「燃やして、かね?」

 伯爵が不安げに尋ねてきた。

「もちろん! 燃やす! “返却”では済まさんさ!」

 ヴァン・ヘルシングの力強い発言に伯爵は内心安堵した。

 二人はマッチ箱と肖像画を携え、近くの空き地へと向かった。

 宿を出ると、空はどんよりとした灰色の雲が広がっていた。寒い風が身に染みる。

 とっくに朝だというのに、チェイテ村はしんと静まり返っていた。

 村人たちは“伯爵夫人”の存在を恐れ家に閉じこもっているのだろうか?

 落ちている枝や枯れた雑草を寄せ集め、マッチを擦ると寄せ集めたものに火を点けた。吹いてくる木枯らしがそれを邪魔しようとしてくる。

 ヴァン・ヘルシングは更にマッチを擦り、種火を放り込んだ。

 ようやく焚き火が出来るくらいの火が起こり、伯爵が肖像画を火の中に焚べた。

 火に当てられた肖像画の絵の具はドロドロに溶けていき、みるみる黒く焦げ、勢い良く火をあげ始めた。時折黒い煙をあげ、油臭いにおいを漂わせた。

 二人はその様子をじっと眺めていた。

「この肖像画を燃やしたらドリアン・グレイのように“死ぬ”だろうか、ね?」

 伯爵が静かにヴァン・ヘルシングに尋ねた。

「それで退治出来たら苦労しないのにな?……オスカー・ワイルドの、読んだのか?」

 ヴァン・ヘルシングが伯爵を見上げた。

「以前ね。君の部屋の書斎から拝借した。うん、面白かった」

【オスカー・ワイルド氏作『ドリアン・グレイの肖像』は1890年に初出版された小説。ワイルド氏はストーカー氏の知り合いでもあり、ストーカー氏の妻の元恋人でもある。1900年11月30日パリにて亡くなる】

 伯爵は少々考えた後、思い出したように付け加えた。

「確かもう亡くなっていたね……。因みに彼のお話では、戯曲だけど『サロメ』が気に入っている」

【同氏作『サロメ』は1893年フランス語で書かれ、パリで出版された戯曲。翌年英語翻訳版が出版された。二人が読んだのは英語翻訳版の方】

 伯爵はじっとヴァン・ヘルシングを見つめた。ヴァン・ヘルシングは顔を引きつらせ、恐る恐る伯爵に尋ねた。

「まさかお前……俺の首をご所望か……?」

 伯爵が首をかしげた。

「首? それ“だけ”ではつまらん。それに“首だけ”にする必要はないであろう?」

 伯爵はヴァン・ヘルシングをからかうように、ニタリと笑いながら見てきた。

 昨夜のことを思い出したヴァン・ヘルシングは顔を真っ赤にさせると、手で口元を覆い、そっぽを向いた。

「この“キス魔”め……」

「何とでも言うがいい」

 伯爵はふふん、とご満悦そうに鼻を鳴らし焚き火に視線を戻した。


 肖像画が完全に燃え尽きた。暖も取れたところで焚き火を消火させると、二人は、森の向こうの小高い丘の上にそびえ立つ、今は廃墟と化した城――チェイテ城の方に向き直った。

 宿に戻るとチェイテ城へと向かう準備を整え――今のヴァン・ヘルシングにホスチアや十字架を触ることは出来ないが――、辻馬車を呼び、チェイテ城を目指した。

 チェイテ城への道中、辻馬車を進める馭者が好奇心旺盛にヴァン・ヘルシングたちに尋ねてきた。

「お客さん方、あの城に行くということだが、吸血鬼退治?」

「まあ、そんなところです」

 ヴァン・ヘルシングが静かに返した。

「チェイテ城には変な噂があってね? 真夜中に女たちのうめき声が聞こえたりとか、白い女の人影が彷徨ってるとか……。まあ、今は昼間だからそうでもないが、夜には絶対に行きたくないよね」

 馭者の話にヴァン・ヘルシングは興味深そうに考え込んだ。

……女たちのうめき声……。行方をくらませた娘たちの声か……? 生存しているのだろうか……?

 そう思うとヴァン・ヘルシングは深いため息をつき、辻馬車の天井を仰いだ。

「ヴラド……」

 ふと、ヴァン・ヘルシングが伯爵に投げ掛けた。

「何だね? エイブラハム」

 伯爵が横目にヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「正午過ぎには村に戻ろう。そして屋敷の肖像画を全部燃やす。俺みたいな被害者を出さないために」

「ほう。何なら“屋敷ごと”はどうかね?」

 伯爵が面白可笑しそうに返した。ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、伯爵を見上げた。

「それはやり過ぎだ」

「つまらんな……」

 砂利や雑草だらけの斜面を登って行き、一時間ほどして辻馬車はチェイテ城の前へと着いた。

 辻馬車の馭者には、正午にチェイテ城に迎えに来るよう依頼し、二人は石造りの城を見上げた。

 チェイテ城は1799年に焼失し、そのまま放置状態だった。

 背後を振り向くと、麓にあるチェイテ村が一望出来た。

「いい眺めだ……」

 ヴァン・ヘルシングは持っていた鞄を地面に下ろすと、深呼吸をした。

「俺は何とも思わないね……」

 伯爵がつまらなさそうに呟いた。そんな伯爵に苦笑いを浮かべたヴァン・ヘルシングははいはい、と返した。

 二人は砂利道の斜面を登って行き――案の定ヴァン・ヘルシングは息切れを起こした――チェイテ城入り口前に辿り着くと、先にヴァン・ヘルシングが城壁を潜った。その後すぐに伯爵の方に振り返った。

「Come in, Vlad.」

「Thank you, Abraham.」

 ヴァン・ヘルシングに“招かれた”伯爵は難なくチェイテ城へと入った。

 荒れ果てた城壁を潜ると草原が広がっていた。その奥に、積まれた石が所々崩れ落ち、荒廃した城が静かにそびえ立っている。これで天気が良ければ、のんびりとピクニックでも出来そうな場所だった。

「お昼持ってくれば良かったかね?」

 ヴァン・ヘルシングの隣で伯爵が、ニタリと笑いながら言った。

「否……。俺は宿でゆっくり食べたい」

 ヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべながら返した。

 奥へと続く城壁に沿って進んで行くと、ようやく城門前に辿り着いた。

 城門の跳ね橋は焼け焦げ朽ち果てており、門の扉もない状態だった。

「よし、さっさと調べて浄化出来るところはしてしまおう」

「了解した」

 石造りのトンネルを抜けると広々とした中庭があった。無論手入れはされていないので園は木々や雑草だらけで、当時の美しかった庭園の面影はない。


 伝承によるとバートリ・エルジェーベト伯爵夫人は、誘拐した娘たちの遺体を召使いたちに命じ、薔薇園の下に埋めさせた、のだとか。エルジェーベト本人は否定したらしいが、証言によると誘拐した娘たちの人数は650人と言われている。

 誘拐された一人の娘が命からがら逃げ出し、チェイテ城での残忍な出来事を告発し、事件の捜査に乗り出した当時のハンガリー王(ハプスブルク家)によって事件が公となった。

 チェイテ城の地下には拷問室があり、そこには“鉄の処女”をはじめ色々な拷問器具があった。室内には無惨な姿の娘たちの遺体が積まれていたらしい。

 その後エルジェーベトは自身の城であるチェイテ城の、室内を漆喰で真っ黒に塗り固められた真っ暗な寝室に幽閉される。光が入るのは、見張りの兵士が食事を持ってくる時のみだった。そして1614年8月21日、食事を届けに来た兵士によって死亡が確認されたそうだ。エルジェーベトの遺体はチェイテ村の中心にある教会に埋葬されたはずだったのだが、今はどこに葬られているのかは分からずじまいである。

 確かにバートリ・エルジェーベトは使用人や誘拐した娘たちに残虐な行為をしたのかもしれないが、その話が語られるようになったのは彼女が亡くなって随分後になる。

 一節によると、ハンガリー王国ハプスブルク家と対立していたバートリ・エルジェーベトを良く思わなかった、ハプスブルク家が陰謀を企て、彼女を幽閉したとも言われている。そうなると彼女も伯爵同様、政治的な犠牲者と言えるのではないだろうか――。


 ヴァン・ヘルシングは一瞬身震いをすると中庭の奥へと視線を向けた。

……中世とは恐ろしい……。ヴラドにとって昔と今、どちらの方が――。

「なあ、ヴラド」

 不意にヴァン・ヘルシングが伯爵に尋ねた。

「何だね?」

 伯爵がヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「お前にとって昔と今、どちらの方が、その……良かった?」

 ヴァン・ヘルシングはそっと伯爵を見上げた。

「言われずとも今の方が楽しいに決まっておろう? なら、この時代に生まれたかった、というわけでもないがね? そういうことを踏まえると、吸血鬼になったのも悪くない」

 伯爵はニタリと口角を上げ、ふふっ、と笑った。ヴァン・ヘルシングは呆れたように頭を押さえた。

「急ごう、お昼になってしまう」

 ヴァン・ヘルシングが歩き始めると、伯爵も隣に続いた。

 中庭奥の、白い積石が崩れた城内へと入ると、屋根はなくポッカリと天井が空いており、淀んだ空が見えた。室内は雨ざらしで、ほとんどが風化し、床には雑草が生い茂っていた。

 本当にこんなところに人が住んでいたのか? そんな印象だった。

 数時間ぐらい城内を散策したが、これと言って棺のようなものは見当たらない。土の下に埋まっているのか、若しくは塔の下にある地下室にあるのだろうか。

 本当は行くのをためらっていたのだが――。

……行くしかないな。

 ヴァン・ヘルシングは鞄を地面に置くと、中を漁りだした。取り出したのは懐中電灯である。

【19世紀末には電池式の懐中電灯がもう製造されている。無論電池も発明されている。ヴァン・ヘルシングが使っているのは米国製】

 城の中心部に佇む塔に入ると、一部、石造りの床にはポッカリと暗い穴が空いており、そこから地下への階段が続いていた。

 ヴァン・ヘルシングは懐中電灯で石階段を照らした。

「お先にどうぞ」

 ヴァン・ヘルシングは懐中電灯で階段を指し示した。伯爵は少々呆れた表情を浮かべながら先陣を切った。その後ろにヴァン・ヘルシングが続く。

 石階段はらせん状になっており、少し降りていっただけで外界の明かりは遮られてしまった。ヴァン・ヘルシングの懐中電灯だけが真っ暗な石造りの壁や階段を照らし出している。

 下に降りていくにつれ空気が淀んでいった。土の生臭い臭いも強くなっていき、息が詰まりそうになった。ヴァン・ヘルシングは小さく息をついた。

……地下の方がもっと――。

 少しして、壁や地面が、土が剥き出しの広い通路に出た。

 眼の前で伯爵が止まった。ヴァン・ヘルシングは伯爵の横から顔を出すと、正面を懐中電灯で照らした。先にあったのは石造りのアーチ状のトンネルに、重厚で威圧的な錆びた鉄製の門だった。

「ここが……地下室か」

 伯爵が扉を開けようとしなかったので、ヴァン・ヘルシングが横から出てくると、扉に手を押し当てた。

「ブラム、開けない方が――」

 伯爵の制止も虚しく、ヴァン・ヘルシングはそそくさと扉を開け放った。

 刹那、ヴァン・ヘルシングは思わず手に持っていた鞄を落とすと、手で口元を覆い、伯爵を押し退け、老体とは思えない素早さで石階段の手前まで駆け出した。

 地面にうずくまったヴァン・ヘルシングはうえっ……と声をもらしながら呼吸を乱していた。そんなヴァン・ヘルシングの横に伯爵がやって来て、彼の背を擦った。

「大丈夫かね?」

「……カーファックスの屋敷の方が“マシ”なぐらいだ……」

 ヴァン・ヘルシングは涙声で返した。

「確かに……」

 伯爵は顔だけを地下室の入口に向けた。

 少し開かれた鉄製の扉の向こうは漆黒の闇が広がっていたが、伯爵には関係なく見えた――飛び散って、染み付いた大量の血痕が――。

 伯爵はヴァン・ヘルシングに向き直ると、自身のスカーフを外し――伯爵の斬首された痕が露わになった――、ヴァン・ヘルシングに差し出した。

「これで口元を覆うと良い」

 ヴァン・ヘルシングは涙目で伯爵を見上げ、静かにスカーフを受け取った。

「あ、ありがとう……。すまん……」

 よろよろと立ち上がったヴァン・ヘルシングは伯爵のスカーフで鼻や口元を覆い、深呼吸をした。スカーフからは以前――17年前――のような悪臭はなく、逆にココアの匂いがした。

……もう、血よりココアの方が多いからな……。

「行けそうかね?」

 伯爵は地下室の方を向きつつヴァン・ヘルシングに尋ねた。

「ああ、もう大丈夫だ。あ、ヴラド、少し屈め」

 ヴァン・ヘルシングは自身のネクタイを外しながら伯爵の正面に立った。伯爵は目をパチクリしつつ、少し身を屈めた。

「これで照らしててくれ」

 ヴァン・ヘルシングは懐中電灯を伯爵に手渡すと、彼のワイシャツの襟に自身のネクタイを結んでいった。

 ネクタイを巻かれ、伯爵の斬首の痕は襟に隠れた。

 ヴァン・ヘルシングはネクタイを結び終えると、伯爵の襟やネクタイを整えた。

「気休めだがな?」

「ところで君――」

 突然伯爵が気に食わなそうな表情を浮かべてきた。

「何だ?」

 ヴァン・ヘルシングは不思議そうに伯爵を見返した。

「前々から思っていたのだが……他の輩にも“これ”をやっているのかね……?」

 伯爵に問われ、ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

「は? 今も昔も、ネクタイなんか結んでやったのはお前だけさ」

 ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵は、そう、と呟くと満足そうに口角を上げた。

「よし、乗り込むか」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵から懐中電灯を受け取ると、正面の地下室の扉を照らした。

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