9 散策(ホーエンツォレルン城滞在2日目)

 真夜中。

 風で窓がガタガタと音を立てていた。伯爵が静かにカーテンをめくると、外は吹雪だった。

 窓や扉はニンニクの花や葉で“飾り付けられ”、伯爵には開けることは出来なかった。部屋から出ることが出来ないので――出る用事もないが――、暇つぶしにヴァン・ヘルシングの研究室から持ってきた『吸血鬼カーミラ』を、主人公に噛み付いている、羨ましいな……と思いながら、ベッドの足元に腰掛け、読んでいた。

 『吸血鬼カーミラ』はアイルランド人の作家、レ・ファニュのゴシック小説だ。無論、文章は英語で書かれている。

 伯爵は、英語を勉強していて良かった、と思うのであった。

 その時、ボーン、ボーンと部屋にある柱時計が午前2時になったことを告げた。

 東の方にある日本という国【ブラム・ストーカー氏は原典で、吸血鬼化したルーシーの怒り顔を、『両目には地獄の炎が宿り、額にはとぐろを巻くメドゥーサの蛇の髪のようにうねったシワが刻まれ、血が滴る口はギリシャか日本にある怒りの面(多分般若面)のように険しく歪み――』と説明している】には丑三つ時というものがあって、午前2時から30分間は草木も眠り、幽霊や化け物が動き出す、と言われている時間帯だ。

 伯爵はそっとヴァン・ヘルシングに視線を向けると、なんとヴァン・ヘルシングが、身体をゆっくりと起こし始めたではないか。てっきり目覚めたのかと思いきや、ヴァン・ヘルシングの目は閉じられており、寝息も聞こえる。ただその表情はどこか苦しそうだ。

 ヴァン・ヘルシングはそのまま静かにベッドを抜け出し、扉の方へと、覚束ない足取りで歩み寄っていったのだ。

「ヴァン・ヘルシング!」

 伯爵はとっさに本をベッドに放り投げ、ヴァン・ヘルシングに掴み掛かった。ヴァン・ヘルシングはいとも簡単に伯爵に止められるも、未だに扉に向かおうと足や手を振る。伯爵はヴァン・ヘルシングを肩に担ぐと、ベッドに戻り、彼を強引に寝かせた。それでもヴァン・ヘルシングが起き上がろうとするので、仕方がなく伯爵は、彼に馬乗りになり、両手を押さえつけた。

 ヴァン・ヘルシングを見下ろせば、彼は眉間にシワを寄せ、苦しそうに表情を歪ませていた。そして、しきりに、呼ばれてる……と寝言を連呼し、うなされていた。

 このまま彼の首筋に……と伯爵は一瞬考えてしまったが、ため息をつき、その思考を拭い去った。


 朝、ヴァン・ヘルシングは変な夢から目覚めた。

 覚えているのは真っ暗な闇の中、幼い子どもの声で、おいで……と囁く声だった。

「目覚めたかね? ヴァン・ヘルシング君」

 眼の前から伯爵の声がし、霞んでいた視界がはっきりとしていくと、すぐ眼と鼻の先に伯爵の青白い顔があり、ヴァン・ヘルシングはヒステリーを起こした女性のように甲高い悲鳴を上げた。

「きゃぁぁああっ!!」

 誰だって、朝一番に目に入ったものが青白い顔であれば、悲鳴ぐらい上げたくなるだろう。

「女々しい悲鳴を上げるのだな? 君は」

 伯爵はそんなヴァン・ヘルシングを面白おかしく見下ろす。

「お前! 私の寝込みを襲おうとしてたのかっ!?」

 伯爵がヴァン・ヘルシングにまたがって、両手をベッドに押さえつけていれば、彼が伯爵に襲われていると勘違いするのは言うまでもない。

 伯爵は不満そうに片眉を釣り上げた。

「勘違いをするな? ヴァン・ヘルシング君。余は、君をあの吸血鬼共から守っていたのだよ? 失敬な」

 ヴァン・ヘルシングは自身の顔の両側で、伯爵に押さえつけられている自分の両手を眺め、これが“守る”だって? ただの寝込みを襲おうとしている奴だろうっ! と心の中で悪態をついた。

「分かった、分かったからっ!」

 ヴァン・ヘルシングは不貞腐れたように叫び、ようやく伯爵から解放された。

 急いでカーテンを開けると、一夜にして銀世界となった森が目下に広がっていた。

「何てことだ、これでは城からは出られないな……」

 空はどんよりと曇っていたが、積もっている雪が白く輝いて、昼間のように明るかった。

「よし、先ずは城内の偵察をしつつ腹ごしらえだ。“私たち”以外の人々が気になる」

「ほう、余も“人扱い”かね?」

 伯爵がニタリと口角を上げ、ヴァン・ヘルシングに尋ねた。

「言葉の綾だ。お前は私の“モルモット”だ!」

 ヴァン・ヘルシングの“言い方”に伯爵はムスッと口を歪めた。ヴァン・ヘルシングは伯爵に構うことなく鞄から洗面道具を取り出すと、バスルームに行ってしまった。

 少しして、身なりを整えて出てきたヴァン・ヘルシングは鞄に杭や木槌、ニンニクの葉花、野薔薇の枝などを入れ、散策の準備をする。

「よし、行こう」

 ヴァン・ヘルシングはフロックコートを羽織り、フェドーラ帽子を被ると、道具の入った鞄を持った。伯爵も真っ黒なフロックコートとその上にマントを羽織り、シルクハットを被ると、ヴァン・ヘルシングに続いた。ヴァン・ヘルシングが不思議そうに伯爵に振り返る。

「朝だぞ? 寝なくて良いのか?」

「君の朝ごはんを作ったら寝る」

「そ、そうか……。すまんな……」

 ヴァン・ヘルシングが珍しく伯爵に、申し訳無さそうに言ってきたので伯爵は、先ほどのヴァン・ヘルシングの発言を水に流すことにした。

 扉に飾り付けたニンニクの花や葉を外し、部屋を出ると、静寂に包まれた廊下を進む。陽は隠れているが、朝だと言うのに廊下は薄暗く冷気が漂っていた。

「冷えるな……」

 ヴァン・ヘルシングは空いている手で腕を擦った。

「寒いかね?」

 ヴァン・ヘルシングの隣で伯爵が尋ねてきた。

「ああ、人間には寒い……」

 そう呟いた彼の吐く息は、白くふわりと天井へ登っていった。

 伯爵は静かにマントを外すと、それをヴァン・ヘルシングの肩に掛けた。マントの左の襟にはドラクレシュティ家の紋章が付いていた。

「えっ?」

 ヴァン・ヘルシングは戸惑った表情を伯爵に向けた。

「寒いのだろう? 余は平気だ」

「あ、ありがとう……。暖かいし、長いな」

 ヴァン・ヘルシングはほころんだ顔を伯爵に向けた。そんな彼の細められた青い瞳に、伯爵は胸の辺りがくすぐられる感覚を覚えた。

 ヴァン・ヘルシングはひと先ず、隣の客室の扉をノックしてみた。

「隣の者ですが、誰かいますか?」

 応答はなかった。誰もいないのか、もしくは……。

 失礼は承知の上でヴァン・ヘルシングは、扉の取っ手を掴むと、開けようとした。だが、扉には鍵がかかっていた。

「使われてない、だけか……?」

 すると今度は伯爵が扉に近づき、スンスンとにおいを嗅ぐ。

「否、血の“匂い”だ。夜に吸血されたのだろう」

「何だと!」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の横で扉を勢いよく叩いた。

「大丈夫ですかっ!? 起きているなら返事をっ――」

「ヴァン・ヘルシング君、無駄だ。今頃貧血でぐっすり眠っているだろう」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは、伯爵を不安な面持ちで見上げた。

「まさか、もう吸血鬼化して――」

「まだ死んでいないようだ」

 伯爵は扉の隙間に鼻を近づけ、さらににおいを嗅いでいた。

「案ずるな。先ずは腹ごしらえだろう? それからゆっくり奴らの墓を探せば良い。見つけ次第“滅ぼせ”。その間余は寝る」

 伯爵は不気味に目を細め、口角を上げた。

「ああ。そうしといてくれ」 

 二人は城の台所へ向かい、食料と調理器具を拝借し、ヴァン・ヘルシングの腹ごしらえをした。

「ナイフはお借りしよう。万が一に役に立ちそうだ」

 ヴァン・ヘルシングは先の尖った銀のナイフを鞄へと忍び込ませた。

「では、余はしばし“休息”させてもらうとしよう。ああ、そうだ――」

 伯爵は何かを思い出した様子で脇から小さなバスケットを出すと、ヴァン・ヘルシングに差し出した。

「腹が空いたら食べると良い」

 ヴァン・ヘルシングはバスケットを受け取り、中をのぞき見た。サンドイッチと、ピューター製の水筒が入っていた。

「ありがとう、助かるよ。日没前には部屋に戻る」

「君が戻るのをのんびりと待っているぞ」

 そう言い残すと伯爵は、コートの裾をひるがえし、きびすを返した。

「おい、マント――」

 ヴァン・ヘルシングが引き止めるよりも早く、伯爵の姿は跡形もなく消え去っていた。

「は、良いの――あ……」

 ヴァン・ヘルシングは仕方なく――寒くもあったので――、マントを肩に羽織り、バスケットは鞄に入れ、城内の散策に向かった。台所を出て、先ずは礼拝堂を探すことにした。

 ホーエンツォレルン城の両端にはそれぞれ礼拝堂が存在する。当初宗派はカトリックだったのだが、その後ドイツではプロテスタントが主流となったからだろう、とヴァン・ヘルシングは推測した【実際ホーエンツォレルン城には礼拝堂が2つ存在する。所有者の関係で、プロテスタントの家系とカトリックの家系の両家で所有しているから(共にホーエンツォレルン家)】。

 廊下を進み、大きい方の礼拝堂への扉を恐る恐る開いた。礼拝堂内はとても静かだった。不気味なくらい、しんと静まり返っている。自分の呼吸の音が嫌に大きく聞こえた。

 ステンドグラスがはめ込まれた窓から入る、淡い日光の中で埃がいくらか舞っており、厳かな雰囲気が漂っていた。正面には祭壇があり、その上に大きな十字架が――否、十字架は掲げられていなかった。外されていた。十字架が掲げられていた跡だけが残されていた。

 礼拝堂内を散策したが、これと言って棺は見当たらなかったので、礼拝堂の、外へと出る扉を開けると、銀世界が広がっていた。雪がヴァン・ヘルシングの膝丈ぐらいまで積もっている。

 ヴァン・ヘルシングは唸った。

……スコップが必要だ……。

 扉から身を乗り出し、敷地内を見渡すと、隅に小さな納屋があった。ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、伯爵のマントを風呂敷代わりに鞄を包み、首に掛けると、両手でスラックスの裾を持ち上げ――無意味だったが――深々と積もる雪の中に足を踏み入れた。

……ああ……刺さるように冷たい……。

 ヴァン・ヘルシングは雪で湿っていくスラックスや革靴、靴下に、文字通り白いため息をつきながら敷地内の小さな納屋を目指した。

 ようやく納屋の前まで来ると、愕然とした表情を浮かべた。

「ああ……ついてないな……」

 納屋の扉の取っ手には鎖が巻かれ、南京錠で施錠されていたのだ。ヴァン・ヘルシングはマントを広げ、鞄の中から木槌を取り出すと、納屋の取っ手目掛けて振り下ろした。

 ガツンッ! と鈍い音が響き渡った。だが、“相手”は鉄製の取っ手。それに比べて“こちら”は木製の木槌。刃が立たなかった。それでもヴァン・ヘルシングは何度も木槌で取っ手を叩き、次第に取っ手を固定していた鋲が緩み始めてきた。

「もうすぐだっ、私!」

 体力がなくなっていく中、自身に声を掛け、最後の渾身の一撃でようやく取っ手が外れた。

 ヴァン・ヘルシングは大きな安堵のため息をつき、両手を振り上げた。その頃には寒さよりも暑さのほうが上回っていた。

 

 そんなヴァン・ヘルシングの様子を、礼拝堂の影から見ている者がいた――。


 納屋からスコップを拝借したヴァン・ヘルシングは手当り次第、礼拝堂の敷地内の“除雪”をした。気が付けば腹の虫が鳴った。

 空を仰ぎ見ると、雲の隙間から斜め上に太陽が見え、もう午後を過ぎたことを告げていた。

「もう昼か……」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵からの差し入れを思い出し、お行儀が悪いと知りつつ、突っ立ったままサンドイッチを頬張り、水筒の中身――冷え切ってしまったが――の紅茶で喉を潤した。

 昼食を終え、ヴァン・ヘルシングはスコップを肩に担いだ。

「続きと行こう」

 ヴァン・ヘルシングは除雪を再開させた。

 数時間を掛けて一人で敷地内の除雪をし、3つの墓標と、土から剥き出しになっている5つの棺を見つけることが出来た。

……8つだと? だが、伯爵は9人と……。

 ヴァン・ヘルシングは困惑する中、ふと空を見上げると、いつの間にか空は夕焼けのオレンジ色に染まっていた。ヴァン・ヘルシングは目を見張った。

「いつの間に! 早く戻らなければっ! しかし……」

 ヴァン・ヘルシングは悔しそうに墓や棺を眺め、鞄を漁ると8本の野薔薇の枝を取り出し、それぞれ墓や棺の上に置いていった。

【原典では、吸血鬼は、自身が眠っている棺の上に野薔薇の枝を置かれると、棺から出られなくなってしまう】

 部屋に戻りつつ、鞄からニンニクの花や葉を用意し、吸血鬼たちの餌食にされているであろう、舞踏会に招待された人たちの部屋の扉にニンニクの葉花を詰め込んだり、汁を擦りつけたりした。

……窓の方は出来ないから、気休めぐらいだな……。 

 もうすぐで伯爵が待っているであろう部屋に着く、その時だった――。

 ガツンッ!

 突然、後頭部に衝撃と強烈な痛みが押し寄せ、ヴァン・ヘルシングは気を失い、床に倒れ込んでしまった。

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