8 吸血鬼の血の洗礼

 ヴァン・ヘルシングの部屋に入ると、伯爵はいつもの姿に戻り、すぐさま彼をベッドに寝かせた。

 仮面を剥ぎ取り、眼鏡を掛けさせる。

 ヴァン・ヘルシングは未だ朧気な表情だ。

 伯爵はベッド脇に腰を下ろすと、ヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込み、彼の頬をペチペチと軽く叩いた。

「術は解けている。もう起きれるはずだ」

 ヴァン・ヘルシングは数回瞬きすると、ゆっくりと上半身を起こし、大きなため息をついた。

「ああ……酷い目に遭った……」

「御老体には、な」

「まだ60代なんだが?」

 ヴァン・ヘルシングは眉間にシワを寄せ、伯爵を睨みつけた。

「そこまで言い返せるなら、もう大丈夫そうだね」

 そう言うと伯爵は立ち上がり、ヴァン・ヘルシングが持ってきた鞄を、まるで“汚いもの”でも持つかのように摘みあげると、おもむろにベッドの足元に置いた。

「ヘルシング君、ホスチアは持ってきているね?」

「もちろん……」

 伯爵の問いにヴァン・ヘルシングは不安そうに答えた。

「出してみなさい」

 伯爵に促され、恐る恐る鞄に手を入れ、漁り、ホスチアに触れた。瞬間、ヴァン・ヘルシングは悲鳴を上げ、手を鞄から引っ込めた。

 引っ込めた手を見ると、ホスチアに触れた指先が、火傷したように赤くただれていた。

「何てことだ……」

 ヴァン・ヘルシングは呆然と自身の指を眺めた。

「やはり“盛られた”か……」

 伯爵が彼の指を見下ろしながら呟いた。

「あのワイン……。ああ、神様……」

 ヴァン・ヘルシングは両手で顔を覆い、項垂れた。

「嘆いている暇があるのならば、この後どうするか、考えるべきだと思うがね?」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングははっ! と顔を上げた。

「確かにそうだ。嘆いている暇はない!」

 ヴァン・ヘルシングは勢いよく立ち上がると鞄をひっくり返し、中身をベッドの上にぶち撒けた。

 ベッドの上にトラウベ(木製の筒状の聴診器)やメス、剪刀、ホスチア、小さな金の十字架のネックレス、ニンニクの花、マッチなどが広げられた。それを目の当たりにした伯爵は眉を潜め、そろそろと後退った。

「よし、先ずは窓と扉をニンニクの花で“飾る”ぞ」

 ヴァン・ヘルシングはニンニクの花を鷲掴みにすると、窓に駆け寄り、葉の汁を窓枠に擦りつけたり、花や葉を窓枠に詰め込んだりした。扉にも同様にほどこす。その様子を伯爵は、神妙な面持ちで静かに眺めていた。

「どうだ? 伯爵。この部屋から“出られなさそう”かっ?」

 ヴァン・ヘルシングは興奮気味に伯爵に尋ねた。当の伯爵は、険しい表情を浮かべていた。

「ああ、触りたくもないね!」

「よしっ、上出来だ!」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の様子にお構いなくカーテンを閉めると、もう一つのカバンからは杭や木槌、いつも着用している三つ揃いやフロックコートを出し、ワインで汚れた燕尾服を脱ぎ始めた。

「それで伯爵、ホールで何か分かったことはあったか?」

 ヴァン・ヘルシングはスラックスを履き替え、シャツを着るとベストを羽織り、リボンタイを結びながら尋ねた。

「“同胞”は9人。その内の4人はいずれも例の貴族たち。膝に乗っていた茶髪のあの“小さいの”もそうだ。そして従者たちだが、君が話していた、フィリンゲンの村人の5人の死体が消えたと言っていたな? きっとその従者たちだ」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは唸った。

「やはり村人を仲間に“引き入れて”いたか……。出来れば早くこの案件の片をつけたい……」

「あの踊らされていた人間共の心配か?」

「当たり前だろうっ?」

 ヴァン・ヘルシングは燕尾服の胸ポケットから手鏡を取り出すと、少々雑に燕尾服を畳み、伯爵を見上げた。

「だが、今は夜だ。“化け物の時間”に行動を起こしても、何が出来るというのかね?」

 伯爵はそう言うと眉を潜め、ヴァン・ヘルシングを横目に見下ろした。

 ヴァン・ヘルシングは図星を突かれたようで、肩を落とした。

「それは分かっている……。だがこうしている間にも……」

 ヴァン・ヘルシングはため息をついた。

 自分も吸血鬼の血を盛られ、術に掛けられるし、実に惨めで情けない思いだった。

「先ずは休むと良い、ヘルシング君。この城のキッチンを借りてくる。絶対に部屋から出るな? 良いね?」

「キッチン?」

 ヴァン・ヘルシングは首を傾げた。

「腹は減っていないのかね?」

 伯爵が尋ねてきたその時。

 ぎゅるるぅ……。

 ヴァン・ヘルシングの腹の虫が鳴ってしまった。

「減ってる……」

 ヴァン・ヘルシングは自身の腹を擦り、呟いた。

「では、ニンニクの花を退けてほしい」

 伯爵は扉の前まで歩いていくと、ヴァン・ヘルシングに振り返った。

「あ、ああ……」

 ヴァン・ヘルシングは不安な面持ちで伯爵の隣に立つと、ニンニクの花や葉を外していった。瞬間、伯爵の姿が霧のように溶けて消えた。

 ヴァン・ヘルシングは呆然と伯爵が先ほどまで立っていた場所を眺めていた。

 伯爵は人間を“喰い物”にする吸血鬼である。はずなのに何故か、その姿が見えなくなったとたん急に不安が押し寄せてきた。もし、私一人で来ていたら……と思うと、体が震えた。

「あいつは……吸血鬼だぞ? 私、正気を取り戻せ。きっと吸血鬼の血の洗礼のせいだ……」

 ヴァン・ヘルシングは頭を抱えつつ、ベッド脇に歩み寄ると、ベッドの上を片付けた――十字架やホスチアはハンカチ越しに掴んで鞄にしまった。

 ベッドに腰掛け、項垂れていると扉がコンコンと鳴った。ビクリと肩を震わせる。

「ヴィルヘルム様? いらっしゃいますか?」

 先ほどの従者の声がした。

 一気に心臓が早鐘を打ち始める。

「扉を開けてくださいませんか? お水をお持ちしました」

 従者は、舞踏会の時とは違って猫を被ったような声だ。

 ヴァン・ヘルシングはニンニクの葉花を掴むと、急いで扉の隙間に詰め込んだ。

「……チッ」

 扉越しに舌打ちが聞こえたかと思うと、気配が消えた。

 ため息をもらしたヴァン・ヘルシングは、ドッと疲れを感じたのかベッドに倒れ込んだ。

 眼鏡をサイドテーブルに置き、枕に顔を埋めた。

……眠い。

 今にもまぶたを閉じようとしたその時、窓の方からカリカリと引っ掻くような音が聞こえた。

 一気に眠気がふっ飛び、ヴァン・ヘルシングは勢いよく起き上がった。

 急いで眼鏡を掛け、恐る恐る窓に近づき、そっとカーテンをめくると、ちらちらと降り始めた雪の中、一匹の黒い、大きなコウモリが足にバスケットを引っ掛けて飛んでいた。

 一瞬、どうやって追い払おうか? と考えたが、コウモリの足のバスケットの中身に目が行く。サンドイッチとポット、カップが入っていた。

……伯爵……?

 ヴァン・ヘルシングは少々ためらいがちにカーテンを開け、窓を少し開けた。

 コウモリが素早く入ってきた。

 ヴァン・ヘルシングはすぐさま窓とカーテンを閉め、ニンニクの花と葉を窓枠に詰め直した。

 室内に振り返ると、コウモリはベッドの上にとまっており、その横にバスケットが置かれていた。

 ヴァン・ヘルシングは恐る恐るコウモリに近づき、怪訝な表情でのぞき込んだ。

「……伯爵、だよな?」

 コウモリはただヴァン・ヘルシングを、真っ赤な目で見つめるだけで動こうともしないし、何も“言って”こなかった。

 ヴァン・ヘルシングは仕方なく、コウモリの横に静かに座ると、バスケットのサンドイッチやポット、カップを取り出す。

 ポットは温かく、カップに中身を注ぐと、紅茶のいい香りが漂ってきた。

 ヴァン・ヘルシングは静かに紅茶を啜り、サンドイッチを頬張った。

……うまい。

 サンドイッチを食べ終え、紅茶を飲んで一息ついたその時。

 ピチャ、ピチャ……。

 耳元で水音が聞こえ、首筋を舐められている感覚がした。

 瞬時に肩に目を向けると、なんと先ほどのコウモリが肩に留まり、首筋に鼻面を押し付けているではないか!

「うわっ!」

 ヴァン・ヘルシングは悲鳴を上げ、勢いよく立ち上がると、持っているカップでコウモリを追い払おうとした。

『酷いな、ヘルシング君』

 耳元で、いつもの伯爵の声がした。

「伯爵! おちょくるのは止めてくれ!」

 ヴァン・ヘルシングは深いため息をつき、コウモリを睨んだ。

『余も腹が減った……』

 コウモリはまるでねだるように、雪で少し湿った毛むくじゃらの額や頬をヴァン・ヘルシングの首筋に擦りつけた。

「分かった、分かった。くすぐったい……」

 ヴァン・ヘルシングは口元を歪めながら頬を少し染め、コウモリをなだめた。

……この“小動物”は伯爵だからな?

 ヴァン・ヘルシングは自身に言い聞かせるように心の中で連呼し、鞄を漁ると、針と管を取り出した。

 自身の左腕のワイシャツの袖を捲り上げ、器用に内肘に針を刺すと、繋がっていた管に血液が流れた。

「ほら、“夕食”だ。コップ一杯だからな?」

 ヴァン・ヘルシングは管の先を、未だに肩に留まっているコウモリに差し出した。

 てっきり伯爵は元の姿に戻って“吸血”すると思っていたのだが、一向にコウモリのままだった。

 コウモリは差し出された管の先を咥えると、舌でペロペロ舐めるように、時に噛みつきたい衝動があるのか、管に鋭く細かい歯を立てて血液を“食”した。

 そうこうしている内にヴァン・ヘルシングに再度、睡魔がやって来た。

 コウモリはうとうとし始めたヴァン・ヘルシングに気づくと、管を離し、黒く歪み始めて元の姿を現した。

「もう寝ろ、ヘルシング君。散策は昼間に行えば良い」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの体をベッドに横たえると、腕から針を静かに抜き、傷口をぺろりと舐め、ワイシャツの袖を元に戻した。

 ヴァン・ヘルシングからは規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 伯爵はベッドの足元の掛け布団をヴァン・ヘルシングに掛け、部屋の明かりを落とした。

 室内は薄暗くなり、サイドテーブルのランプの、淡いオレンジ色の明かりだけとなった。

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