7 舞踏会(ホーエンツォレルン城滞在1日目)

 ホーエンツォレルン城の建物内に入ると、広々とした煌びやかで荘厳なロビーが広がり、その天井には豪華なシャンデリアがぶら下がっている。

 左右に分かれる階段の右側を登っていくと、奥まで続く、薄暗い長い廊下が見える。どこまでも続く真紅のカーペットが目を引く。

 廊下を進むと右側には大きな窓が並び、左側には豪華な装飾の扉が続く。

 従者がとある扉の前で止まった。

「ヴィルヘルム様はこちらのお部屋をお使いください」

 従者は長持ちを床に置くと、扉を開けヴァン・ヘルシングを招き入れた。

 室内は明かりは灯されているものの薄暗い印象で、ふかふかの大きなベッドにサイドテーブル、その上には豪華なランプと小さな呼び鈴のベルがある。壁には暖炉と、その脇に薪と火鋏が置かれており、その上には二振りの剣と盾が飾られている。大きな窓には高価な生地のカーテンがあしらわれており、その手前には繊細な彫刻が施された丸テーブルが置かれている。

 窓の外は広大なシュヴァルツヴァルト(黒い森)を見下ろすことが出来、分厚い雲の隙間から時折満月が輝いて見えた。

「奥の部屋にはバスルームもございます」

 従者は奥の扉を開けた。洗面台と浴槽が見えた。ただ、鏡がなかった。

「御用の際はサイドテーブルの呼び鈴を鳴らしてください」

「鳴らすだけで良いのかね?」

 ヴァン・ヘルシングは少々不審そうに従者に尋ねた。従者はニコリと微笑んだ。

「はい。“聞いております”ので。後ほど舞踏会にご案内します。では」

 そう言うと従者はヴァン・ヘルシングの部屋を後にした。

 従者が出ていったのを確認したヴァン・ヘルシングは、ベッドに座り込むと大きなため息をついた。

……バレるなよ? 伯爵。

 今頃カタリーナは、先ほどの従者に部屋を案内されている頃だろう。

 

 少しして、部屋の扉がノックされた。

 ヴァン・ヘルシングは慎重に扉を開けた。現れたのはカタリーナ姿の伯爵だった。脇には土の入っている長持ちもある。どうやらカタリーナはもう、自分の部屋に戻る気はないようだ。

「入っても良いかね?」

 カタリーナがヴァン・ヘルシングに尋ねた。

「ああ、入れ」

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの部屋に入ると、ベッドの足元に長持ちを置き、振り向いた。ヴァン・ヘルシングは早速カタリーナに尋ねる。

「あの従者にバレてないな?」

「案ずるな。そんなヘマはせんよ」

 二人は揃ってベッドに座り込むと、ヴァン・ヘルシングは血相を変え、驚愕した表情でカタリーナを見た。

「あの従者は吸血っ――」

 突然カタリーナに口を手で塞がれ、ヴァン・ヘルシングは目を見張った。

「お父様? “Die Wände haben Ohren【独語:日本の諺で言う、壁に耳あり障子に目あり】.”ですわよ?」

 カタリーナがお淑やかな口調で言ってきたのでヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

 カタリーナは無言で窓をそっと指さした。ヴァン・ヘルシングはそちらに視線を向けると、顔をしかめた。

 窓の外にはコウモリが2匹飛んでおり、暗闇の中、真っ赤な目を光らせていたのだ。

 コウモリたちはヴァン・ヘルシングの視線に気づいたようで、そそくさと窓から離れていった。

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナに耳打ちする。

「ここ(ドイツ)でドイツ語を話すと、先方に筒抜けじゃないか?」

「確かにそうだね」

 カタリーナが珍しく賛同した。

「よし、英語でやり取りをしよう」

 ヴァン・ヘルシングの提案にカタリーナは眉を潜めた。

「何故英語なのかね?」

「私とお前で、共通で話せる言語だろう? まあ時々、お前の英語は“おかしくなる”がね――」

【原典でジョナサン・ハーカーは、『伯爵の英語は変わった訛りがあるが、見事な英語でこう言った』と日記に書いている。因みにヴァン・ヘルシングと伯爵は今までドイツ語でやり取りをしていた】

 ヴァン・ヘルシングの言葉にカタリーナは目を見開き、打って変わって眉間にシワを寄せた。

「ハーカーめ……。やはりあれは“お世辞”だったか……」

「おい! お前がジョナサン君のことを責めれる立場ではないだろう!?」

 ヴァン・ヘルシングの叱咤にカタリーナは、後ろめたそうに、苦虫を噛んだような表情を浮かべた。

 そして、重要なことに関しては英語でやり取りすることになった――。

 カタリーナは静かに立ち上がると、カーテンを閉め、ヴァン・ヘルシングに振り向いた。

「さて、そろそろ先ほどの従者が来る頃だろう」

「ああ……。夕食か……?」

 ヴァン・ヘルシングはどこか難しい表情を浮かべ、ため息をつき、頭を押さえた。

……メシよりも先ず偵察を――。

「違う」

 カタリーナの言葉にヴァン・ヘルシングは眉を潜め、カタリーナを見上げた。すると、目の前に屈み込んでいたカタリーナと視線が合った。

「舞踏会だ」

「舞踏か――」

 ヴァン・ヘルシングが言い掛けた時。

 コンコン、と扉が鳴った。

「失礼します」

 先ほどの従者が部屋に入ってきた。

「エリーゼ様もこちらでしたか」

 従者の様子からすると、先にカタリーナの部屋の方を尋ねたようだった。

「舞踏会の準備が出来ておりますので、ご案内いたします」

「お父様、行きましょう」

 カタリーナはお淑やかにヴァン・ヘルシングの腕を取ると、すり寄った。

 ヴァン・ヘルシングは眉を潜めつつ、燕尾服の胸ポケットに手を置き、うなずいた。

 二人は従者について行き、部屋を後にした。

 薄暗い廊下を進み、さらに城の奥へと進む。

 広い所へ出ると、従者が豪華な彫刻を施した観音開きの扉を開け放った。

 目に飛び込んだのはロビーとは比べられないほどの豪華で煌びやかな装飾のシャンデリアや内装、豪勢な食事の数々、そして演奏される少々不気味な曲調のワルツに合わせて踊り狂う、仮面を付けた男女たち。その光景を眺めている従者たちや、ホールの奥でどかりと座っている3人の貴族たち。

 ヴァン・ヘルシングは仮面に違和感を覚えた。

……仮面舞踏会、とは聞いていなかったが?

 こういう社交界の場での身のこなし方を知らないヴァン・ヘルシングは伯爵に促されつつ、ホール内に踏み入り、ホール奥の豪華で大きな椅子に座る、長い白髪の若い男性貴族――ベルガー公爵――の元まで歩んでいく。

 ベルガー公爵は3つ並ぶ椅子の真ん中に、足を組んで座っており、その膝には虚ろな表情を浮かべる茶色の髪の幼い少女を乗せ、その流れるような茶髪を撫でていた。

 両側の椅子には豪華なドレスに身を包んだ若い女性が、それぞれついている。

 ヴァン・ヘルシングはカタリーナに腕を引かれ、ベルガー公爵の前でお辞儀をした。カタリーナは恭しくドレスの裾を少し上げた。

「この度はお招き頂き、誠に感謝します。ハイゼンベルクから参りました、ヨハン・フォン・ヴィルヘルムと、我が娘エリーゼでございます」

 ベルガー公爵は真っ赤な目でヴァン・ヘルシングとカタリーナを一瞥すると、再度カタリーナに視線を向け、横柄な態度で言った。

「これはこれは、よく参られた。美しい娘だ。後ほど我と一曲どうだ?」

 ヴァン・ヘルシングはそっとカタリーナを見た。

「滅相もないことでございますわ? 公爵様。ごきげんよう」

 カタリーナは今までにないほどの笑みを浮かべると、ヴァン・ヘルシングの腕を引っ張り、ベルガー公爵の前から退散した。

 そのままカタリーナに腕を引かれ、踊り狂う人たちの間を縫って中へと入っていく。

 ヴァン・ヘルシングは周りの人たちの様子にただならぬ不安を感じ始めた。

……何故皆、こんな必死に踊ってるんだ?

 周りの人たちは仮面を付けているのでその表情は伺えないが、疲弊しきっているような息遣いが耳に入ってくる。

 ヴァン・ヘルシングは燕尾服の胸ポケットに手を掛けようとしたところでカタリーナが足を止め、振り返った。

「さあ、踊りましょう? お父様」

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの両手を取ると、片方を自身の腰に、もう片方を掴み、くるりと回り始めた。

 ヴァン・ヘルシングは仕方なく、カタリーナにリードされるままワルツを踊り始めた。

 カタリーナを見下ろせば、どうも今の状況を楽しんでいるようで、含んだような笑みで見つめ返された。

「……ヘルシング君――」

 カタリーナに耳元で、潜めた声で呼ばれた。

「何だ?」

「Don't eat and drink anything served here. Okay?」

 カタリーナが念を押すように言ってきたので、ヴァン・ヘルシングは少々驚きつつうなずいて見せた。

「O-of course.」


 ワルツは何時まで経っても終わらず、ヴァン・ヘルシングも周りの人たちのように息を切らし始めた。

「そろそろ休もう」

 カタリーナが手を解くと、ヴァン・ヘルシングを引っ張り、ホール隅の椅子へと連れて行った。

 カタリーナが止めなければ、そのままハンス・クリスチャン・アンデルセンの『赤い靴』の娘のように踊り続けなければいけなかっただろう。

 椅子に腰を下ろしたヴァン・ヘルシングは深いため息をついた。

「何と長いワルツだ……。喉がカラカラだ……」

「飲み物を持ってこよう」

 カタリーナがヴァン・ヘルシングの元を離れた時、丁度従者が赤ワインの入ったグラスを持ってきた。

「ヴィルヘルム様、どうぞ」

「……」

 ヴァン・ヘルシングは苦い顔で差し出されたワイングラスを見つめた。

 先ほどカタリーナには、ここの物を飲み食いするな、と言われたのでヴァン・ヘルシングはいらない、と言ったが、それでも従者は、喉が渇いているのでしょう? と煽ってくる。それでもヴァン・ヘルシングは首を横に振ると、従者はものすごい剣幕でグラスを掴み、ヴァン・ヘルシングの胸ぐらを乱暴に鷲掴みにした。

「なっ! 何をするっ!?」

 ヴァン・ヘルシングが、離せっ! と叫んでいるのに周りの人たちはワルツを止めようとしない。

 従者の手から逃れようとヴァン・ヘルシングはもがくが、その腕力には叶わず、口に赤ワインを無理やり注がれてしまった。

「止めっ――ごほっ!」

 赤ワインが口からもれ、燕尾服を汚していく。

……伯爵っ! 早く戻ってきてくれ!


 カタリーナは持参した革袋の水筒をドレスの下に隠しつつヴァン・ヘルシングの元に戻ってきた。

 ヴァン・ヘルシングは床に座り込んでおり、呆然と空を仰いでいた。そんな彼の有様にカタリーナは驚愕した表情を浮かべ、駆け寄った。

「ヘル……お父様? どうされたのです?」

 ヴァン・ヘルシングは虚ろな表情でカタリーナを見上げた。

「すまん………。ワインを飲まされた」

 ヴァン・ヘルシングは申し訳無さそうにカタリーナに詫た。

「ならば仕方あるまい。飲むかね?」

 カタリーナはドレスの裾から水筒を出すと蓋を開け、ヴァン・ヘルシングに差し出した。ヴァン・ヘルシングは水筒を受け取り、ごくごくと水を飲み込むと喉を潤した。

「ああ……“生き返った”……」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にカタリーナは首をかしげた。

「“死んでいない”だろう?」

「比喩だ……。だが、燕尾服が台無しだ……」

 ヴァン・ヘルシングは惜しそうに自身の燕尾服を眺めた。

「部屋に戻るかね?」

 カタリーナが手を差し出しヴァン・ヘルシングを立ち上がらせた。

「出来れば戻り――」

「エリーゼ様」

 二人の背後から先ほどの従者の声がした。

 ヴァン・ヘルシングは肩を震わせ振り返り、カタリーナは従者を睨みつけた。

「何だね?」

 カタリーナの口調が元に戻ってしまっている。否、それ以上に鋭い口調だ。

「ワインをどうぞ」

 従者はそんなカタリーナにお構いなく赤ワインの入ったグラスを差し出してきた。そのもう片方の手には銀の盆を持っており、その上には仮面が二つ乗っている。

 カタリーナは何のためらいもなくグラスを受け取ると、少しだけワインを口に含んだ。それを見ていたヴァン・ヘルシングは目を見開いた。

「わたしはこれで結構ですわ?」

 カタリーナは薄ら笑みを浮かべると、グラスを従者に返した。

「“十分です”」

 従者はそう言うと、ニヤリと笑った。

「さあお二方、こちらをお付けくださいな」

 従者は押し付けるように仮面をヴァン・ヘルシングとカタリーナに手渡してきた。

「さあ、“疲れ果てるまで、踊れ”」

 従者が命令するように言った。次の瞬間、ヴァン・ヘルシングは凍りついた表情を浮かべた。そして意図せず眼鏡を外し、そのまま手放し床に落とすと仮面を付け、踊り狂う人たちの輪に、覚束ない足取りで歩み始めた。

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの眼鏡を拾い、ふらふらと行ってしまった彼の後を追いつつ、肩越しに振り返ると、ギロリと従者を睨んだ。

……良くも“余のもの”を穢したな……。

 従者は尖った犬歯を露わにして嗤っていた。

 ヴァン・ヘルシングは勝手にワルツを踊る自身の体に、困惑と苛立ちを覚えた。

……催眠術を掛けられたのかっ?

 先ほどのワルツでもう脚はクタクタなのに、今度は強制的に踊らされ、初老の体は悲鳴をあげていた。

 一人で踊るヴァン・ヘルシングの眼の前に突然、霧のようにカタリーナが現れ、氷のように冷たい両手で彼の顔を挟んだ。

 カタリーナはヴァン・ヘルシングの顔を自身の方に向けさせると、真っ赤な目を見開いた。

――ヴァン・ヘルシング、余の目を見なさい。

 カタリーナはまるで、彼の頭の中に直接話しかけるように、囁いた。

 ヴァン・ヘルシングは視線をカタリーナに向け、その真っ赤な目を捉えた刹那、勝手にワルツを踊っていた体から力が抜け、膝ががくんと曲がり、床に座り込んでしまった。

「大丈夫かね?」

 耳元でカタリーナが囁くように尋ねてきた。

 返事をしようと口を動かすも、声が出せなかった。きっとカタリーナ――伯爵の催眠術のせいだろう。

 ヴァン・ヘルシングはとくに焦ることはなかった。逆に強制的なワルツから解放され安堵すらしていた。

 そこへ、先ほどの従者が周りの人たちを押し退け、困惑したような表情でやって来た。

「何故踊っていな――」

「あら、お父様ったら。酔ってしまったみたいですわね? わたし、お父様を部屋に連れ帰って着替えをしてきますわ?」

 カタリーナはわざとらしく微笑むと、ヴァン・ヘルシングの腰を抱え、踊る人たちの間を縫ってホールを後にした。

 そんな二人を従者は険しい表情で眺めていた。






※原典では、伯爵は自身の爪で自分の胸を引っ掻き、出血させると、ミナ・ハーカーの顔を自分の胸に押し付けて血を飲ませた。





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