10 黒い犬

 ヴァン・ヘルシングの部屋にて。

 日が沈み、長持ちの蓋が開くと、カタリーナ姿の伯爵がゆっくりと出てきた。

 カタリーナは室内を見渡した。

 室内は明かり一つ点いておらず、薄暗かった――伯爵には関係ないが――。そしてヴァン・ヘルシングの姿がない。

「ヴァン・ヘルシング君?」

 すぐさま部屋の扉を開け放つと、なんと部屋の前の廊下に、ヴァン・ヘルシングの帽子や鞄、バスケット、伯爵のマントが落ちていたのだ。カタリーナは眉間にシワを寄せると、犬の姿になり、彼の匂いを追った。


――あのじじい、しま、しよ……。

――かまわ、……娘、うを……。

 聞こえてくる複数人の話し声や、顔に当たる地面――土――の嫌な臭いや感触、冷たさにヴァン・ヘルシングはゆっくりと目を覚ました。

 地面から起き上がり、頭を上げた瞬間後頭部に激痛が走り、思わず手で押さえようとした。が、両手には枷が着けられており、自由に動かせなかった。

 枷の鎖を手繰り寄せてみれば、鎖は背後の、石造りの壁に繋がっていた。

 辺りを見渡すと、明かり一つない真っ暗な場所で、空気がジメジメとし、肌寒く、土の匂いや何かの生臭い臭いが漂っていた。

 次第に目が慣れ始め、ここが牢獄だということが分かった。

「ここは……」

「起きたか。このじじい……」

 眼の前に霧のように例の従者が現れた。従者は怒りに満ちた表情を浮かべていた。

「よくも棺に細工をしてくれたなぁ?」

「君は……フィリンゲンの村の者か……?」

 ヴァン・ヘルシングが恐る恐る聞くと、従者は顔を歪めつつ答えた。

「そうだ。俺は生まれ変わったんだ! 公爵様のおかげで!」

 従者は声高らかに言うと、ヴァン・ヘルシングにじりじりと歩み寄っていった。ヴァン・ヘルシングは壁の方に後退ろうとしたところで、背後から何者かに羽交い締めにされてしまった。

「な、何をするっ――」

 今度は横から手が伸びてきて、ヴァン・ヘルシングの口を分厚い手が覆ってきた。視線を動かせば、いつの間にかヴァン・ヘルシングの周りには5人の従者たちが集まっており、暗闇の中、真っ赤な目を光らせていた。

 ヴァン・ヘルシングの心臓が早鐘を打ち始めた。

……殺されるっ!


 犬姿の伯爵は、ふと足を止めた。ヴァン・ヘルシングの匂いがする先の廊下を見上げれば、そこには、舞踏会にいた二人の女貴族が立っており、ヒソヒソと会話をしながらこちらを見ていた。

「あの薄汚い犬、どこから入ってきたのかしら?」

「ニンニクが外されていたから、あの男の娘をあの方に差し出そうと思ったのに、部屋にいなかったわ?」

「今頃あの男も、私たちの“仲間入り”ね?」

 二人の女貴族がケラケラと嘲笑った。

 犬は目を見開くと、グルル……と唸り、女貴族二人に駆け出した。女貴族たちは余裕ありげに身構えた。

「犬のくせに生意気な――」

 刹那、女貴族二人の首がゴロリと床に転がった。

 一体何が起こったのか?

 女貴族二人は目だけを動かし、黒い犬の姿を探した。だが、立っていたのは、二振りの剣を持った、黒いマントをまとった長身の男――伯爵――の後ろ姿だった。

 女貴族二人は口から血を流しつつ目を見張った。

……“同胞”っ?

 伯爵は振り返ると、冷酷な眼差しで女貴族二人を見下ろした。

「“あの男”とは……一体誰のことかね……?」

 伯爵の鋭い口調に女貴族二人は震え上がると、急いで首から下の体を這わせ、自身の首を拾おうとした。それを伯爵が一歩、一歩床を打ち鳴らすように追い、二振りの剣をスラリと振り上げると、女貴族二人の背に向かって突き刺した。女貴族二人は断末魔を上げたかと思うと、塵となって消えていった。

 伯爵は再び犬の姿になると、先を急いだ。


 ヴァン・ヘルシングは叫ぼうにも口を開くことが出来ず、唸ることしか出来なかった。

 従者がヴァン・ヘルシングの目と鼻の先に立った。従者は真っ赤な目を光らせ、口を大きく開けると鋭い犬歯を露わにさせた。従者は舌なめずりをして言った。

「本当は娘の方が良かったが、じいさんでも良いか。血が吸えるんだからなっ!」

 従者はヴァン・ヘルシングのリボンタイやシャツの襟部分を掴み、乱暴に引き千切ると、その首筋に薄汚い唇を当て、牙を立てた。ブスリと首筋に痛みが走り、耳元でじゅるじゅると血液を啜る音が、嫌でも耳に入ってくる。

 ヴァン・ヘルシングは顔を歪ませ、体をジタバタさせた。

「んんっ!」

……やめろっ、やめろっ!

 血液を吸われ、次第に意識が遠退いていく。

……こんな形で最期を迎えるとは……。

 このまま死ねば、間違いなくヴァン・ヘルシングは吸血鬼の仲間入りを果たしてしまう。

 ヴァン・ヘルシングは力なくその場に膝を突いた。従者たちはヴァン・ヘルシングを石造りの床に乱暴に寝かせると、代わる代わるに吸血し始めた。

 抵抗出来ず、今にもまぶたを閉じようとするヴァン・ヘルシングの頭上から突如として一頭の大きな、黒い犬が闇から躍り出てきて、ヴァン・ヘルシングに群がる従者たちを蹴散らした。

『よくも余の“もの”を穢したな! 許さんぞ、貴様ら!』

 犬は目の前で伯爵の姿に戻ると、二振りの剣を構えた。従者たちは伯爵の百戦錬磨の佇まいに動揺した表情を浮かべた。

 伯爵は真っ赤な目をかっ開き、鋭い犬歯を剥き出しにすると、従者たちに向かって剣を振りかざした。


 薄れゆく意識の中、ヴァン・ヘルシングは、伯爵が吸血鬼共の胸を剣で突いては、その首をはねるところを朧気に見ていた。

 そんな伯爵を目の当たりにしつつ、ふと思う。

……ああ、もしあのような者が悪魔ではなく神の使いであったとしたなら、私たちのこの世界で善のために、どのような力を発揮してくれたのだろうか……。

【原典第二十四章、ミナ・ハーカーの日記、ヴァン・ヘルシングの言葉より】

 従者たち5人の死体が地面に横たわり、その中に伯爵が立っていた。

 従者たちは最近吸血鬼にされたので、死体は塵にならず、そのままだった。

 伯爵は血まみれの剣を地面に放り投げると、ヴァン・ヘルシングの方に振り返った。ヴァン・ヘルシングは寒さに体を震わせ、今にも眠ってしまいそうな表情で伯爵を見上げていた。その首筋からは血液が流れ出ている。

 伯爵はヴァン・ヘルシングに繋がれている手枷の鎖を素手で引き千切り、手枷を外すと、顔色悪く、震えてぐったりとしているヴァン・ヘルシングを横抱きにし、彼とともに霧のように消えた。

 部屋に戻ると伯爵は、ヴァン・ヘルシングをベッドに寝かせ、急いで暖炉に火を焚べ、室内を暖めた。

 伯爵はヴァン・ヘルシンが横たわるベッド脇へ歩み寄る。ヴァン・ヘルシングの首筋からは未だに血液が流れ出ており、シャツの襟を染めていた。伯爵はヴァン・ヘルシングの首筋を眺めては、ゴクリと喉を鳴らすと、彼の上に静かに覆い被さった。ヴァン・ヘルシングは虚ろながらも目を見開く。

 伯爵はヴァン・ヘルシングの頭をゆっくりともたげると、従者たちに付けられた、血が滴る傷痕に唇を近づけ――。

……結局、お前は……。

 ヴァン・ヘルシングは裏切られたような気分になった。

 所詮この男は吸血鬼なのだ。そんな吸血鬼に心を開こうとしていた自分が、何と愚かで、浅ましく、甚だしいか痛感させられた。

 ヴァン・ヘルシングは今度こそ死を覚悟し、まぶたを閉じると、意識を手放した。






※原典の“第二十四章、ミナ・ハーカーの日記”から抜粋させていただきました、ヴァン・ヘルシング教授の言葉。


“Oh! if such an one was to come from God, and not the Devil , what a force for good might he not be in this old world of ours.”


『……ああ、もしあのような者が悪魔ではなく神の使いであったとしたなら、私たちのこの世界で善のためにどのような力を発揮してくれたのだろうか』

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