11 昇格、そして落下(ホーエンツォレルン城滞在3日目)

 ココアの甘い匂いに、ヴァン・ヘルシングは目を覚ました。噛まれて吸血された首筋に触れると、ガーゼが当てられ、首には包帯が巻かれてあった。

 室内を見渡すと、カーテンが開けられており、既に外は明るかった。暖炉には火が点いており、ベッド脇のサイドテーブルの上には湯気を立てるココアが入ったカップと、彼の眼鏡が置かれていた。

 眼鏡を掛け、再度室内を見渡すと伯爵の姿はなく、サイドテーブルに置かれてあるココアを何のためらいもなくヴァン・ヘルシングは啜った。甘くて芳しいココアが、気怠い体に染みていく感じがした。ふと、ホスチアで火傷をした指先を見ると、赤くただれていた痕が綺麗になくなっていた。どうやら吸血鬼の血の洗礼の呪いは消えたようだ。ならば、とヴァン・ヘルシングは静かにベッドから立ち上がると、ホスチアの入った鞄を持ち、ベッドの上に置く。中身を漁り、ホスチアを取り出した。ホスチアには問題なく触れることが出来た。

 ヴァン・ヘルシングは首の包帯やガーゼを外し、手鏡を取り出すと、従者たちに噛まれて吸血された首筋を見つめた。首筋には噛まれた傷が、出血はもうなかったが、深々と残っていた。ヴァン・ヘルシングはベッドに深く座り込んだ。

……噛まれるとは……一生の不覚。

 頭を抱えて大きなため息をつくと、ふと7年前に伯爵の毒牙に掛かってしまったハーカー夫妻に対して、口走ってしまった言葉を思い出した。


“Do you forget,――that last night he banqueted heavily, and will sleep late?”

『忘れていないか?――奴は昨夜たらふくご馳走になったんだ。今日は遅くまで寝ていると思うがね?』

【原典第二十二章、ジョナサン・ハーカーの日記より】


 ヴァン・ヘルシングは項垂れた。当事者でなければ分からない苦痛もあるのだ。今は、当時のミナ・ハーカーと同じく自身も吸血鬼の“ご馳走になってしまった”身で、あんなことを“笑顔で”言われてしまったら自分でも泣くわ、と再度反省した。だが突然、ヴァン・ヘルシングは肩を震わせると、まるでヒステリーを起こしたみたいに笑い始めたのだ。

「ああ! “笑いの王”が来てしまったっ! はははっ!」

 次第にヴァン・ヘルシングは腹を抱えてはひぃひぃと息を荒らげ、ベッドをバシバシ叩いて大笑いし、ついには笑い泣きをしてしまう始末。

 以前、教え子であるジョン・セワードに『いつものヒステリーを起こした』と言われたが、ヴァン・ヘルシングは、自分の“これ”はヒステリーではなく、とてつもなく恐ろしい状況に陥った時にいつも出てしまう“笑いのツボ”だ、と言っていた。

 ヴァン・ヘルシングは眼鏡を外し、涙を手で拭うと、眼鏡を掛け直した。それでも笑いが容赦なく込み上げてくる。今のヴァン・ヘルシングに、“Here I am! here I am!” と、自由気ままにやって来て、叫んでくる“笑いの王【King Laugh】”を止める術はなかった。だからと言ってヴァン・ヘルシングは今、この状況を楽しんでいるわけではなく、むしろ恐ろしい状況に落とされ緊張と苦しみすら感じていた。だが、“笑いの王”が陽の光のようにやって来てくると、再び緊張を和らげ安心を与えてくれる。そして、何はともあれ各々の勤めに耐え、果たそうとさせてくれるのだ。

 その時、部屋の扉が開いた。入ってきたのは伯爵だった。その手には、いい匂いが立ち込める料理が乗った盆を持っている。伯爵はヴァン・ヘルシングの笑い泣く姿に目を丸くし、珍しく驚いた様子を浮かべていた。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵を捉えたとたん、すっと笑うのを止め、彼を警戒の目で睨んだ。

 “いつも”のヴァン・ヘルシングの様子に戻り、伯爵は安心したように口角を上げた。

「あんなに吸われたのに、よく目覚められたものだ」

 伯爵は湯気の立つ料理を窓際のテーブルの上に、静かに置いた。

「私の首から吸血したなっ?」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵に向かって怒鳴った。

「噛んではいないし、吸ってもいない。舐めただけだ。“消毒”だ――」

 伯爵は眉を潜め、大真面目な面持ちで言った。どこか気に食わない様子だ。

「余という吸血鬼がいるのにも関わらず、みすみすと他の奴らに“君を取られる”のは我慢ならん」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせた。

……私を、取られる?

 ヴァン・ヘルシングが呆然とする中伯爵は、彼の元に歩み寄ると、静かに彼の手を取ってゆっくりと立ち上がらせた。伯爵はヴァン・ヘルシングの手を引き、窓際のテーブルに導いていくと、彼を静かに椅子に座らせる。

 伯爵はフン、とそっぽを向いた。

「……余にとっても“一生の不覚”だったのだ……――」

 呟くように言ったかと思えば、伯爵は打って変わって口角を上げると、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「それに、良く言うであろう? “An army marches on its stomach【日本の諺で言う、腹が減っては戦は出来ぬ】”.と」

「結局お前もかいっ!……」

 と言いつつ、伯爵の様子にヴァン・ヘルシングは、はにかむように口元をほころばせると目を細めた。

……とんでもないヤツに“ツバを付けられた”な……。本当に私は愚かで、浅ましく、甚だしい……。以前の伯爵はともかく、今の伯爵を、私は信用していなかった……。

 ヴァン・ヘルシングは改めて伯爵を見つめた。

「あのままでは私は、吸血鬼の仲間入りをしていた。ありがとう、伯――」

「“ヴラド”で良い」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは青色の瞳を見開いた。それに伯爵の真っ赤な瞳が一瞬煌めく。

「そうか……。なら私――否、俺も、“エイブラハム”で良い。それにお前は、もう“研究対象”ではなく“俺の助手”だ。……なっていただけるだろうか……?」

 ヴァン・ヘルシングは不安そうに伯爵に苦笑いを向けた。伯爵は一瞬目を見開いたかと思うと、不敵な笑みを浮かべた。

「ほう、余は――俺は、研究対象から助手に“昇格”か。それは光栄だ。今後ともよろしく頼むぞ、エイブラハムよ」

 伯爵は右手をヴァン・ヘルシングに差し出した。その手をヴァン・ヘルシングはためらうことなく握った。

「ああ。こちらこそ、ヴラド。それで何だが……従者――フィリンゲンの村の5人は……?」

 ヴァン・ヘルシングは恐る恐る伯爵に尋ねた。その5人に襲われたとは言え、彼らも吸血鬼の毒牙に掛かった被害者なのだ。ヴァン・ヘルシングは、出来れば彼らの遺体をちゃんと葬ってやりたいと考えていた。

「案ずるな、エイブラハムよ。彼らの遺体は夜の間に元の墓地に埋葬してきた」

 伯爵の返事にヴァン・ヘルシングは安堵のため息をつこうとした。が、伯爵が続ける。

「君に噛み付いた奴の顔を、“誰か分からない”くらいにグチャグチャにして――」

 ヴァン・ヘルシングは目を見張った。

……おいおいおいっ! 損壊させたのかっ!?

「――やりたかった……」

 伯爵は最後に、悔しそうに小さくため息をついた。ヴァン・ヘルシングはようやく胸を撫で下ろした。


 ヴァン・ヘルシングの朝食を終えて。

 ヴァン・ヘルシングはベッドの上で鞄を漁ると、長いロープ数本と真っ白な布に包まれたいくつかのホスチアを出した。

 ヴァン・ヘルシングは一体これから何をするのか? 伯爵が背後から眺めていると、ヴァン・ヘルシングはロープの端と端を固結びで繋ぎ、一本のとても長いロープを作り上げた。そして今度はホスチアを布の上でこれでもか、というくらい粉々に砕き“大量生産”していく。その様子に伯爵は目を丸くし、気味の悪いものでも見てしまったかのように顔を歪め、後退りした。

「君……時々“頭のネジが外れている”、と言われないかね……?」

 先ほどのヒステリーのこともあり、伯爵が恐る恐る尋ねてきた。

【原典でヴァン・ヘルシングは、教え子であるジョン・セワードやルーシーの婚約者アーサー・ホルムウッド(ゴダルミング卿)、ルーシーの求婚者の一人クインシー・モリスたちに、神聖なものを持ち出してくるなんて正気じゃない、と思われた】

 ヴァン・ヘルシングは鞄からガーゼ布に包まれたパン生地のような塊を出すと、それに“大量生産”したホスチアを混ぜ、こねながら伯爵に返した。

「よく言われる。だが私――俺は、間違えたことをしたとは思っていないぞ」

 ヴァン・ヘルシングは鞄からさらにパン生地の塊を出し、こねた生地に追加していった。ホスチアを“含んだ”大きなパン生地を紐状に伸ばしていき、それを巻いていくと鞄の中に入れていった。鞄の口を閉め、肩に掛けると、ロープも反対の肩に掛ける。

 ヴァン・ヘルシングは窓の外をのぞき見た。外は日差しが降り注ぎ、積もっている雪をキラキラと照らしていた。

「よし、天気は良好だ」

「エイブラハム、そんな物を携えて、どこへ行くのかね?」

 伯爵が背後の少し離れたところからヴァン・ヘルシングに尋ねてきた。

「少々、岩壁登攀に行ってくる」

【現在の形のロッククライミングは20世紀から】

 ヴァン・ヘルシングの返事に伯爵は首をかしげた。

「ヴラドは“休憩”しててくれ。正午には戻るようにする」

 ヴァン・ヘルシングはそう言い残すと、上着を持って部屋を後にした。

 ヴァン・ヘルシングの背を見送った伯爵は一度、土の入った長持ちの蓋を開けたが、一瞬考える素振りを見せると、そのまま閉めてしまった。伯爵は『吸血鬼カーミラ』の本を懐から取り出すと、ベッドに腰掛け、静かに続きを読み始めたのであった。


 ヴァン・ヘルシングは客室の真上の屋根裏を目指して階段を登っていた。5階分くらいを登り、ようやく屋根裏に着いた。屋根裏の中は古い絵画や本が放置され、長年の埃が蓄積しており、カビ臭く、空気が淀んでいた。天窓を開けると恐る恐る外に出た。外の空気はほどよく冷えて澄み切っており、ヴァン・ヘルシングは深呼吸をした。目下に深く雪が積もるシュヴァルツヴァルトが広がり、あまりの高さに少し足が震えたが、まるで自分が鳥のように飛んでいる感覚になった。

……いい眺めだ。

 だがここで油を売っている暇はない。

 ヴァン・ヘルシングはロープを準備すると、切妻(横から見て八の字型)の屋根から突き出ている煙突にロープをしっかりと結びつけ、強く引っ張ってみる。ロープは解けなかった。次にその反対の端を自身の腰に巻き付け、しっかりと固結びをした。

 即席の命綱の完成だ。

 ヴァン・ヘルシングはロープを握ると、外側に背を向け、深呼吸をした。

……ジョナサン君も、あいつの城から脱出する時、命綱なしであの城壁を降りていったんだ……。神よ、どうかお守りください。

【原典第三章ジョナサン・ハーカーの日記、六月三十日朝より、ジョナサン・ハーカーは伯爵の城から脱出するため、断崖絶壁の城壁を命綱なしで降りていった】

 決心したヴァン・ヘルシングは慎重に、且つ確実に、革靴のつま先を、城壁の側面の凹凸にひっ掛けると、ホーエンツォレルン城の屋根からゆっくりと降りていった。

 自身が寝泊まりしている客室の階の窓のところまで降りていくと、余ったロープを手に括り付けて――手が千切れそうだ!――、固定し、肩に掛けていた鞄から慎重に、紐状に形成した“ヴァン・ヘルシング特製ホスチア入りパン生地”を少しずつ出していくとひと先ず目の前の窓枠の隙間を、少しの隙間も出来ないように埋めていった。

 ようやく窓を“パン生地”で埋めたところで室内をのぞき見る。室内のベッドに、招かれた客であろう人が眠っていた。招待客の胸が寝息で静かに上下しており、ちゃんと生きていることが分かった。それに安堵と励ましをもらいつつ、ヴァン・ヘルシングは隣の窓にも“処置”を施していく。

 数時間掛けてヴァン・ヘルシングは吸血鬼の侵入を防ぐ“結界”を施す使命を達成し――手記にしてしまえば簡単に見えてはしまうだろうが、本当に苦労したのだ。だがこれで城に囚われた人たちはもう吸血鬼たちの毒牙に掛かることはない。客室の扉にはニンニクの葉花を、窓にはホスチアを“詰めた”のだから――、いざ、ホーエンツォレルン城の屋根の上へと戻ろうとした時だった。頭上からキラリと光るものが見えた気がして、とっさにヴァン・ヘルシングは顔を上げた。とたん彼は目を丸くし、ヒュッと息を飲んだ。

 なんと、城の屋根のところからベルガー公爵が、物凄い剣幕でヴァン・ヘルシングを見下ろしているではないか! その手にはナイフが握られていた。

 ヴァン・ヘルシングは焦った。

……しまったっ!

 急いで地上に降りなければ! とヴァン・ヘルシングは手に括り付けているロープを解こうと躍起になった。再度頭上からキラリと光るものが見えた。急いで見上げると、ベルガー公爵がこれ見よがしにナイフを振って見せ、屋根の向こうへと引っ込んでしまった。ヴァン・ヘルシングは地上に降りようと急いだ。が、ガクンッとロープが少し下がり、その衝撃でヴァン・ヘルシングの爪先が城壁から離れてしまった。完全に宙吊り状態となってしまったのだ。それでもヴァン・ヘルシングは諦めずに手に括り付けているロープを少しずつ、急いで伸ばす。

……命がある限り、私は諦めんぞっ!

 そして――。

 重力が一気に掛かったように、身体が落下した。ロープが切り離されてしまったのだ!

 とっさのことで悲鳴が出せず、ヴァン・ヘルシングはただ、空を見上げることしか出来なかった――。

……今度こそ死ぬっ! 最悪、城の周りの城壁にぶつかって気を失い、当たりどころが悪ければ即死。そのまま森の中に真っ逆さまっ……。

 ヴァン・ヘルシングは落下しながら、必死に目をぎゅっとつぶり、両手を祈るように合わせた。

……神様っ! どうかお救いくださいっ!!

 刹那。

 ガシッと背中から体を包み込まれ、落下が止まった。

 ヴァン・ヘルシングは震えながら、恐る恐る、肩越しに背後に目をやった。






※エイブラハム・ヴァン・ヘルシング教授はオランダ人なので、“Abraham van Helsing”の発音は“アブラハム・ファン・ヘルシング”となるはずなんですが、まあ、ブラム・ストーカー氏はアイルランド人なので! 英語なので!

 因みに私は英語読みの方が好き……。

 因みに、ヴラディスラウス・ドラクリヤの綴りは“Wladislaus Drakulya”で、これはヴラド三世の本名ではなく、署名する際に用いていたラテン語でのペンネームみたいなものであり、本名は“Vlad”です。


 原典“第十三章、ジョン・セワード医師の日記、九月二十二日”より抜粋させていただきました、ジョン・セワードの日記とヴァン・ヘルシング教授の言葉。


He gave way to a regular fit of hysterics.

He has denied to me since that it was hysterics, and insisted that it was only his sense of humour asserting itself under very terrible conditions.

『教授はいつものヒステリーを起こした。

 教授は私に、自分の“これ”はヒステリーではなく、とてつもなく恐ろしい状況に陥った時にいつも出てしまう“笑いのツボ”だ、と言っていた』


“He is a King, and he come when and how he like. He ask no person; choose no time of suitability. He say, 'I am here.'”

『彼(笑い)は王だ。そして彼は自分の好きな時に好きなようにやって来るのだ。人の話は聞かないし、時を選ばずに“私はここにいるぞ”、と言ってくる』


“King Laugh he come to me and shout and bellow in my ear, 'Here I am! here I am!'”

『笑いの王は私の元にやって来ると耳元で大声で叫ぶのだ。“私はここだ! 私はここだ!”と』


“But King Laugh he come like the sunshine, and he ease off the strain again; and we bear to go on with our labour, what it may be.”

『だが、“笑いの王”が陽の光のようにやって来てくると、再び緊張を和らげ安心を与えてくれる。そして、何はともあれ各々の勤めに耐え、果たそうとさせてくれるのだ』


 ヴァン・ヘルシング教授の“ヒステリー”ですが、私的にはヒステリーではなく、失笑恐怖症みたいなものでは? と考えております。


 あと、二人の会話のやり取りはドイツ語が主流ですが、二人の一人称が“俺”になった時点でドイツ語での二人称は“Sie”から“Du”になりました! 分かる人には分かる……。

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