2 棺
思わず家から駆け出してしまったが、背後から同じく駆けてくる足音がし、肩越しに見ると、何と、伯爵もついてきてるではないか!
「今、朝だぞ! 何故眠らん!?」
ヴァン・ヘルシングは前方に向き直りながら伯爵に叫んだ。すると伯爵が横についてきた。
「棺がない。もう“着いている頃”だろう」
ヴァン・ヘルシングは伯爵の言っている意味が理解出来なかった。
大学前に着くと、ヴァン・ヘルシングは玄関を潜るが、やはり伯爵は“招かれないと”建造物には入れないようだ。少々困った表情でこちらをじっと見つめている姿が滑稽に見えてしまった。
こんなところで“危険人物”を放置しても仕方がないと思ったヴァン・ヘルシングは渋々伯爵を大学内に招き入れた。
大学内に入った伯爵はご丁寧にシルクハットとコートを脱ぎ、脇に抱えた。ヴァン・ヘルシングは未だ息を切らしながら、自身の研究室へと向かう。その後を伯爵がついてくる。
途中すれ違う大学の職員たちが、ヴァン・ヘルシングの後ろをついてくる伯爵の姿を目の当たりにし、驚愕の表情を浮かべたり、悲鳴を上げたり、中には失神したりする者もいた。だがヴァン・ヘルシングをよく知る教授たちは、研究対象でも捕まえたのだろうか? と悟ったのであった。
「あ、ヴァン・ヘルシング先生! おはようございます!」
廊下の先からこちらに手を振ってくる若者が、駆けてやってきた。
「やあ、アドリアン君、おはよう」
アドリアン――アドリアン・バースという青年はこの大学の学生であり、ヴァン・ヘルシングの教え子の一人だ。
「ご依頼のお客様ですか? どうも、アドリアン・バースと申します」
アドリアンはにこやかに伯爵に右手を差し出してきた。伯爵はそんなアドリアンの手を力強く握った。とたん、アドリアンは肩をビクつかせたのだ。
……すごい圧だっ! 手が氷のように冷たいっ!
「ヘルシング君のところの学生かね? 余はワラキア――ルーマニアから参ったヴラディスラウス・ドラクリヤという。伯爵なり、ドラキュラと呼んでくれたまえ」
「ドラキュラ……!?」
伯爵の名前を聞いたアドリアンは顔を真っ青にさせた。
それもそのはず。
ヴァン・ヘルシングから7年前にあった、ルーマニアでの吸血鬼退治について個人的に話を聞いていたからだ。
「先生……何故吸血鬼が……?」
アドリアンは今にも泣き出しそうな表情でヴァン・ヘルシングを見つめた。未だアドリアンは伯爵に手を握られたままだ。
「伯爵、離せ」
「これは失礼した」
伯爵がパッと手を離したとたんアドリアンは素早くヴァン・ヘルシングの方に身を寄せた。
「安心なさい、アドリアン君。こいつは私が見張っているから」
ヴァン・ヘルシングは伯爵を親指で指すと、アドリアンをなだめるように言った。アドリアンは安堵のため息をついたところで、何かを思い出したように顔を上げた。
「あ、先生、大きなお荷物が届いていましたので、研究室に運んでおきました」
ヴァン・ヘルシングは首をかしげた。今のところ届く荷物はないはず……。
「大きな荷物?」
「はい、二つです。トランシルヴァニアから“ド・ヴィーユ伯爵”という方から……」
【原典で伯爵は、イギリスで“ド・ヴィーユ”という偽名を使っていた】
送り元の場所や差出人の名前を聞いたヴァン・ヘルシングは一瞬眉を潜めた。
「……そうか、ありがとう」
アドリアンは伯爵を一瞥し、そそくさと去っていった。
ヴァン・ヘルシングは伯爵を伴って自身の研究室の扉を開けた。
「っ!?」
研究室の扉を開けるや否や、ヴァン・ヘルシングは目を丸くした。
アドリアンが言っていた“大きな荷物”……。それは大きな長方形の木箱で、それが二つ、机の前にドスンと置かれてあったのだ。全くもって邪魔である。
二人は研究室に入ると、上着と帽子をポールハンガーに掛けた。
ヴァン・ヘルシングが木箱に触れようとすると、横から伯爵が進み出てきて、我先にと木箱を慣れた手付きで開封していった。ヴァン・ヘルシングは伯爵を睨んだ。
「お、おい! これは私宛――」
「確かに君宛、ではあるが、これは余の物だ」
木箱から出てきたのはなんと……棺だったのだ! もう一つの木箱も同様に棺だった。
「何故二つ……?」
ヴァン・ヘルシングは恐る恐る伯爵を見上げた。
「何を言う? 君の家用と、研究室用の二つだが?」
伯爵は、当たり前と言わんばかりに答えると、一つの棺の蓋を開け、その中に潜り込んだ。
「ではヘルシング君、また夕刻に」
そう言うと伯爵は自ら器用に棺の蓋を閉めてしまった。どうやら“眠った”ようだ。
「ここで眠るのかっ!?」
ヴァン・ヘルシングは伯爵が眠る棺に向かって叫んだが、うんともすんとも返ってこなかった。
「伯爵……?」
ヴァン・ヘルシングはそっと、静かに伯爵の眠る棺の蓋に手をかけ、開けた。
「……っ!!」
無論だが、棺には伯爵の“死体”が横たわっていた。
伯爵は真っ赤な目を見開きながら、ただ真正面を見ているだけだった。
ヴァン・ヘルシングは伯爵の顔の前で手を振ったり、真っ赤な唇をめくり上げ鋭く尖った犬歯を露出させたり、本当に死んでいるのか確認するため、首筋の頸動脈を探す。伯爵の首に巻いてあるスカーフを少し下にずらしてみれば、ジョナサン・ハーカーにナイフで切断された傷痕――もしくは生前での対オスマン帝国との戦いの果てに斬首された痕かもしれない――があるのが見えた。
正しく目の前にいる吸血鬼は、一度、否二度、本当に死んだのだ。それが何のせいなのか、こうしてまた目の前に、ヴァン・ヘルシングの前に現れたのだ。
ヴァン・ヘルシングは悪寒を感じ、伯爵のスカーフをすぐさま元に戻すと、静かに棺の蓋を閉めた。
研究室には吸血鬼を退治するための杭や木槌、大学内の食堂に行けばナイフもある。今ここで伯爵を退治することも可能だが……。
ヴァン・ヘルシングは首を静かに振った。
伯爵は自ら、彼の研究対象になっても良い、と言ったのだ。研究となるとヴァン・ヘルシングは、折角の、話の着く不死者を退治してしまうのは惜しく感じてしまった。
部屋の柱時計を見上げるともうすぐで講義の時間だった。
ヴァン・ヘルシングは紙に一言『触るな』と書くと、伯爵の眠る棺の上に置き、机の上の教科書や資料を手に研究室を後にした。
夕刻、日が沈んだ頃。
伯爵が棺から静かに出てきた。
室内を見渡せば、ヴァン・ヘルシングは机につき小さなオイルランプだけの明かりを頼りに何か書き記している様子だ。伯爵は物音立てずにヴァン・ヘルシングの脇までやってきた。
「Bună seara【ルーマニア:以下[羅]語で『こんばんは』の意】」
「……お、起きたのか」
ヴァン・ヘルシングは決まり悪そうに苦い表情を浮かべ伯爵を横目に見た。
「さて、ヘルシング君――」
伯爵は机の脇にしゃがみ込み、ヴァン・ヘルシングの顔をのぞき見た。オイルランプの明かりで浮き上がる伯爵の顔が、恐ろしく見えたヴァン・ヘルシングは目を泳がせた。伯爵の言いたいことはだいたい予想はついていた。
「余の“夕餉”はまだかね?」
やはり、といった様子でヴァン・ヘルシングはため息をついた。
約束は約束なので、仕方なくヴァン・ヘルシングは足元の鞄を持ち上げ、机の上に置くと、中身を漁り始めた。
「言っておくが、“ヘルシング”じゃなくて“ヴァン・ヘルシング”が名字だ。間違えるな」
ヴァン・ヘルシングは腹いせのつもりで言ったが、伯爵は気にしている様子もなくこちらを怪訝そうに見つめている。
伯爵は最初眉を潜めていたが、鞄から出てきたものに目を輝かせた。
ヴァン・ヘルシングは鞄から注射針や管を取り出し、準備を整えると、自身の左腕のワイシャツの袖を捲り上げた。60代の身ではあるが、意外にもしっかりとした肉付きであった。
「君の血か」
伯爵は今か、今かと目をギラギラさせている。
ヴァン・ヘルシングは左手を握ると、右手で注射針を構え、自身の左腕の内肘の血管を目掛けて刺した。すると注射針に繋がる管に血液が流れ込んできた。
「……コップ一杯分だからな」
ヴァン・ヘルシングがそう呟くと伯爵は管の先を摘み上げた。
「では遠慮なく」
伯爵はストローで飲み物を吸うようにヴァン・ヘルシングの血液を管で吸い、飲んでいった。その間ヴァン・ヘルシングは、気味の悪さに目を背けていた。それと同時に眠気が彼に襲いかかってきた。
伯爵の“夕餉”が終わる頃には、ヴァン・ヘルシングはぐったりと机に突っ伏していた。
「顔色が悪いぞ? ヘルシング――失礼、ヴァン・ヘルシング君」
伯爵はニタリと笑みを浮かべながらヴァン・ヘルシングに言った。だがヴァン・ヘルシングは、うんともすんとも返さなかった。
「おや、こんなところで寝てしまうのかね? もう寒いというのに……。帰るぞ、教授殿」
伯爵はポールハンガーから自身の上着や帽子を取り、身に付けるとヴァン・ヘルシングの帽子と上着も取り、帽子は棺に入れ、上着はヴァン・ヘルシングの背中に掛けた。
伯爵はぐったりしているヴァン・ヘルシングを抱えるとそのまま帽子の入っている棺に寝かせてしまったのだ。そして静かに蓋を閉めた。ヴァン・ヘルシングの横たわる棺を、一瞥し、伯爵は研究室を後にした。
大学の玄関を出ると、あらかじめ呼び寄せておいた馬車が待っていた。
馬車を操る馭者は伯爵の姿を見たとたん震え上がった。
「えっと……ドラキュラ伯爵、でしょうか……?」
「いかにも。運んでほしいものがある。ついてきなさい」
馭者は恐る恐る伯爵の後を追い、大学内に入ると、そのままヴァン・ヘルシングの研究室に通され、棺を一つ運ぶよう言われたのであった。
無論大きな棺を一人で運ぶのは無理な話で――中にはヴァン・ヘルシングが横たわっている――伯爵と馭者が棺の頭側と足側を持ち上げ、馬車へと運んでいった。
馬車はヴァン・ヘルシングの家まで向かい、再度伯爵と馭者で家の中に棺を運び入れた。
馭者は不気味に思いながら仕事を終えるとそそくさと立ち去ってしまった。
伯爵は部屋のカーテンを閉め、リビングに置かれた棺の蓋を静かに開けた。棺の中ではヴァン・ヘルシングが気持ちよさそうに寝息を立てていた。
本当はヴァン・ヘルシングを起こして夕飯を振る舞うつもりだったが、どうやら最近ちゃんと眠れていなかったと伺える。昨夜はやけ酒で寝たようなものだ。
伯爵は仕方なく、ヴァン・ヘルシングを寝室に運ぼうと彼の体を抱きかかえ、寝室に向かい、静かにベッドに寝かせた。
「Noapte bună【羅語:おやすみなさい】」
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