3 依頼

 翌日、朝。

 鳥のさえずりを聞いたヴァン・ヘルシングは、重いまぶたを上げた。

 辺りを見渡すと寝室だった。それも綺麗に掃除されている。きっと伯爵が一昨日に綺麗に整えてくれたのだろう。

 ヴァン・ヘルシングは寝室の外から漂ってくる美味しそうな匂いに重い体を起こし、リビングに向かった。

 リビングに入ると待ち構えていたのは料理を両手に、テーブルに運んできた伯爵だった。

「起きたか、ヴァン・ヘルシング君。食事が出来てる。顔を洗って食べると良い」

 テーブルに並ぶのはホカホカと湯気が立つ野菜のスープや焼き立てのパン、ローストチキンだった。チキンは食べやすいように綺麗に小分けされている。

 チキンは一体どこで焼いたのか? と疑問に思う中、ヴァン・ヘルシングは呆然と洗面所へ向かい顔を洗うとリビングに戻り、無言で席についた。

 眼の前で伯爵が皿に料理を取り分け、ヴァン・ヘルシングの前に用意してくる。ヴァン・ヘルシングは無言で、心ここにあらずと言った様子で食べ始めた。

「……うまい」

 ヴァン・ヘルシングの呟きに伯爵は、ご満悦そうに口角を上げた。

「君の血はどうも不健康な味がした。なのでこの余が、健康的な食事を提供してやろう」

 ヴァン・ヘルシングは痛いところを突かれたかのように苦い表情を浮かべた。オランダはイギリス同様、食文化があまり発展しておらず、“食べられれば、それで良い”国なのだ。無論オランダ人であるヴァン・ヘルシングもその一人である。


 昨日と同じ――時間は余裕だったが――ように二人で大学へ向かい、ヴァン・ヘルシングは講義へ、伯爵は研究室の棺で眠った。


 お昼時。

 伯爵が作ってくれたサンドイッチを片手に、ヴァン・ヘルシングが書類の続きを書いていると、研究室の扉がコンコンと音を立てた。

 ヴァン・ヘルシングはサンドイッチを急いで口に突っ込み、飲み込む――食道に詰まりそうになり、胸をドンドンと叩いた――。

「……ど、どうぞ」

「失礼します」

 扉を開けたのはアドリアンだった。

「先生、お客様がお見えです」

「アドリアン君、ありがとう」

 アドリアンは客人である、ヴァン・ヘルシングよりも見た目歳上な、老執事のような姿の男性を研究室内に通し、ヴァン・ヘルシングの机の前のソファーに座るよう促すと、研究室を後にした。

「失礼ですが、ヴァン・ヘルシング教授は貴族の出なのでございますか?」

 突然の男性の質問にヴァン・ヘルシングは目を見開いた。

「いいえ。私はただの、平民の教授ですよ」

 ヴァン・ヘルシングの返事に男性は目をパチクリさせ、話題を変えようと研究室内を見渡し始め、机の脇にある棺に注目した。

「そちらは……棺でございますか?」

「あっ、これは……研究材料です……」

 ヴァン・ヘルシングは苦し紛れの言い訳をすると、男性の向かいのソファーにそそくさと座った。

「本日はどのようなご要件でしょうか?」

 ヴァン・ヘルシングからの質問を待っていたかのように男性は話し始めた。

「わたくし、ドイツのハイデルベルク辺境伯、ヨハン・フォン・ヴィルヘルム様にお仕えするクラウスと申します」

 男性――クラウスの紹介にヴァン・ヘルシングは内心納得した。

……そうかこの方はドイツ人であったか。

 ドイツでは、貴族の名字の前にVanやVonが付くのだ。だからクラウスはヴァン・ヘルシング【van Helsing】を貴族の出と勘違いしたらしい。

 かの有名な音楽家ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンもウィーンに住まいを移した時、周りから貴族と間違えられていたようだ。

 ベートーヴェンのルーツもヴァン・ヘルシング同様オランダであり、オランダでは名字の前にvanが付くのはごく普通のことである(ただしvanは名字に含まれる)。

「実は先日ヴィルヘルム様の屋敷に一通の招待状が届いたのです」

 クラウスは黒い上着のポケットから招待状を取り出すと、ヴァン・ヘルシングに差し出してきた。招待状を受け取ったヴァン・ヘルシングは封筒を隅々眺める。差出人には『フォン・ベルガー公爵』と記されてあった。

「中身を拝見しても?」

 ヴァン・ヘルシングの問いにクラウスはどうぞ、と答えた。ヴァン・ヘルシングは封筒の中身を取り出し、目の前に広げた。

 内容的には、どうやら舞踏会への招待のようだ。

「『当家の発足200年を祝って貴殿とそのご息女を招待いたします。フォン・ベルガー公爵』……。それで依頼とは?」

 ヴァン・ヘルシングは招待状をテーブルに置くと、身を乗り出した。

「実は――」

 

 クラウス曰く、ベルガー公爵家は数百年前より続く由緒正しい家柄らしい。

 最近、といっても数ヶ月前からベルガー公爵の領地、シュヴァルツヴァルトの村では子供たちが行方不明になる事件が多発していた。

 ヴァン・ヘルシングは驚愕した。

……最近その付近を通ったぞ。

 クラウスは探偵を雇い、調査させたところ、子供たちが行方不明になる前日の夕刻には必ずベルガー公爵が赴き、村の視察に来るのだとか。そして村人たちの間では、ベルガー公爵に対して“不老長寿”の噂が立っていた。村人たちの親子三世代にわたってベルガー公爵は同一人物だ、と言う者が少なくないとのことだった。

 そのことからクラウスは主人であるヴィルヘルム伯爵に招待を断るよう進言したのだが、相手はヴィルヘルム伯爵より位の上の、ベルガー公爵家だ。断るに断れず、来月に行われる200年を祝う舞踏会に行く、と返事を出してしまったのだ。

 それからもシュヴァルツヴァルトの村では子供が行方不明になる事件が続いている。

 うら若き愛娘がいるヴィルヘルム伯爵は考え直そうとしたが、返事はもう出してしまっていた。もうどうすることも出来なくなってしまったヴィルヘルム伯爵は、クラウスにどうにかするよう命じたというわけだった――。


 クラウスの話にヴァン・ヘルシングは考え込んだ。

……子供たちの行方不明事件。不老長寿。親子三世代が、公爵は同一人物だという……。ということは100歳はゆうに超えているかもしれない。100年以上を普通の人間が生きることは……。

 ヴァン・ヘルシングはふと、伯爵が眠る棺を一瞥した。

……まさか。

 ヴァン・ヘルシングはクラウスに向き直る。

「是非ともヴァン・ヘルシング教授に、ヴィルヘルム様の代わりに舞踏会に出席して頂きたいのです」

 クラウスは期待のこもった目つきでヴァン・ヘルシングを見つめた。

……伯爵様の身代わり、というわけか。

「そうですか……。しかしながら――」

 ヴァン・ヘルシングは怪訝な面持ちでクラウスを見た。

「何故、そのような依頼を私に、と……?」

 クラウスは身を乗り出すと、声を潜めて言った。

「実は、ヴァン・ヘルシング教授の前に、“ハンガリーの学者”の方を訪ねたのですが、この件はヴァン・ヘルシング教授の方が得意だ、と伺いました」

 “ハンガリーの学者”と聞いたとたん、ヴァン・ヘルシングは瞬きをした。

……なるほど。

「分かりました。そういえば、ヴィルヘルム伯爵のご息女も招待されているのですよね? ご息――」

「教授の方で“用意”して頂きたい。エリーゼお嬢様を危険な目には遭わせられません」

 クラウスはヴァン・ヘルシングが言い終える前に即答した。クラウスの返事にヴァン・ヘルシングは内心頭を抱える。

……こっちで“用意”か……。

「失礼ですが、ご息女のご年齢は?」

「齢16でございます」

 ヴァン・ヘルシングは更に頭を抱えた。

……16歳の乙女の知り合いなど、いないぞ……。


 クラウスは依頼料として大量の金貨の入った袋と招待状を置いていった。

 ヴァン・ヘルシングはそんな袋と招待状を眼の前に、困った表情でソファーにぐったりとしていた。

「ああ、どうしようか。16歳の乙女を探さねば……。しかし、危険な目に遭う可能性も……。アドリアン君に女装してもらうか……? 否、駄目だ、危険だ。ああ、神様……」


 夕刻、本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングは自身の研究室で机に向かい、書き物をしていた。時折タイプライターで打たれた書類に目を通し、再度万年筆を走らせる。

「……16歳の乙女……」

 ヴァン・ヘルシングはそんなことを無心で呟いていると、ふと、机の向かいに気配を感じ、とっさに顔を上げた。

「おっ……あ……」

 ヴァン・ヘルシングは目を丸くした。

 眼の前に立っていたのは、艷やかな長い黒髪の、肌が異様に青白く、瞳と唇が真っ赤な美しい少女だった。

 美少女は身にまとっている黒い、高価なドレスの裾を優雅に持ち、会釈してきた。

「どうも、ヴァン・ヘルシング教授。わたしはカタリーナ・シーゲルと申します」

 グラスハープの音色のように甘く、美しい、しかしどこか威厳のあるカタリーナ・シーゲルと名乗った少女の声にヴァン・ヘルシングはドキリとし、はにかむように頭を掻いた。

「は、はい……。申し訳ない、お嬢さん。お嬢さんは私のことをご存知みたいだが、私はお嬢さんのことを――」

「ふふふふっ……」

 突然少女――カタリーナが肩を震わせて笑った。その声は先ほどのような美しい声ではなく、男の、それも伯爵の声だったのだ! ヴァン・ヘルシングは自身の耳を疑い、机の脇の、伯爵が眠っているであろう棺を、急いで見下ろした。

「なっ!」

 棺の蓋は開かれており、中身は空っぽだったのだ。

 ヴァン・ヘルシングがすぐさまカタリーナに向き直ると、彼女の姿が黒く歪んでいった。影のような黒い塊は大きくなり、闇から現れたのは伯爵だった。

「先ほどから『16歳の乙女』と言っていたな? どうだ? 余の“可愛らしい姿”は」

 伯爵はニタリと口角を上げ、ズイッと顔をヴァン・ヘルシングに突き出し、嘲笑うかのように見下ろしてきた。

 ヴァン・ヘルシングは項垂れた様子で、椅子の背もたれにズシリと寄りかかると無造作に眼鏡を外し、手で顔を覆った。

……恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 伯爵は机に置かれてある金貨の入った袋や招待状を一瞥した。

「どこぞにお呼ばれでもしたのかね?」

 ヴァン・ヘルシングは無言で首を横に振ると、招待状を伯爵に差し出した。伯爵は招待状を受け取り、差出人の名前を確認した。

「ほう、ベルガー公爵から、と……。君宛ではないな?」

「ドイツのヴィルヘルム伯爵の執事から昼間、依頼があった。依頼内容はヴィルヘルム伯爵とそのご息女の身代わりとして出席してほしいとのことだ。執事の話によると――」

 ヴァン・ヘルシングの話を遮って伯爵が言った。

「ベルガー公爵領の村で行方不明が続いているのか?」

「そ、そうだ」

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせうなずいた。

「それでその執事は、公爵が怪しい、と。大事な愛娘をそんなところに連れて行きたくない、と」

 ヴァン・ヘルシングはさらにうなずいて見せた。

「では、ヴァン・ヘルシング教授。身代わりとして行くということだが、ヴィルヘルム伯爵は君が代わりに行くとして、娘はどうするのかね?」

 伯爵は横目にヴァン・ヘルシングを見下ろし、招待状を彼の目の前に置いた。

「当ては――」

 ヴァン・ヘルシングは机に両肘を突き、両手を組んだ。

「いない」

「ならば――」

 眼の前に立っていた伯爵の姿が歪み、先ほどのカタリーナの姿が現れた。

「この余、否、“わたし”を連れて行くと良い」

 カタリーナ――伯爵は先ほどの美しい声で言った。

 伯爵の、この姿と声色にヴァン・ヘルシングはへなへなと頭を押さえた。どうも伯爵のこの姿には調子が狂いそうになる。

「お前……楽しんでないか?」

「無論。その公爵がもし、余の“同胞”だとしたら、退治ということだ。闘争は好きだ。どのように相手を追い詰めていくか……考えただけで血が滾る」

 伯爵の今の姿と声音には似つかわしくない言動にヴァン・ヘルシングはため息をもらした。

「それでヴァン・ヘルシング君」

「何だ?」

「余の“夕餉”はまだかね?」

 ヴァン・ヘルシングははっ! と思い出したように眉を上げた。


 昨夜の如く血を吸われたヴァン・ヘルシングは机に突っ伏していた。そんなヴァン・ヘルシングを未だ少女姿の伯爵が見下ろす。

「ヴァン・ヘルシング君、君はちゃんと食事を摂るべきだ」

「……それなら連れ帰ってくれ。メシも作ってくれ……」

 ヴァン・ヘルシングは今にも消え入りそうな声で言った。

「了解した」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを軽々と抱きかかえ、肩に担いでしまった。

「ま、待てっ。その姿でこれをされるのはっ……」

 ヴァン・ヘルシングは一気に覚醒した様子で、声を荒らげた。

「では、歩けるのかね?」

「自分で歩く……」

 伯爵に降ろされ、ヴァン・ヘルシングは少々ふらつきながら研究室を出ようとした。出入り口の扉を開けようとした時、ヴァン・ヘルシングがよろけ、転びそうになった。とっさに背後から体を支えられた。

「全く、人間とはか弱いな」

 聞こえたのはカタリーナの声ではなく、いつもの伯爵の声だった。

 ヴァン・ヘルシングが今にも眠ってしまいそうな眼で振り返ると、いつもの伯爵の姿があった。

「少し待っておれ。帽子と上着を持ってこよう」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングはこくりとうなずいた。

 伯爵はポールハンガーから帽子と上着を取ると、ヴァン・ヘルシングに身に着けさせ、自身もシルクハットと上着を身につけると、ヴァン・ヘルシングの身体を支えながら大学を後にし、家へと帰宅した。

 家に着くと伯爵は、ヴァン・ヘルシングをテーブルにつかせ、自身は料理を作り始めた。

 少ししてテーブルで船を漕いでるヴァン・ヘルシングの前にエルテンスープとマッシュポテトが出てきた。

 伯爵はヴァン・ヘルシングの向かいに座り、彼が食べ始めるのを今か、今かと待ったが、ヴァン・ヘルシングは一向にスプーンを持とうとせず、座ったまま本当に寝てしまいそうだった。そんなヴァン・ヘルシングにため息をついた伯爵は、座っていた椅子を彼の方に近づけると、スプーンでスープをすくい、ヴァン・ヘルシングの口元に持っていった。

「飲みなさい」

 ヴァン・ヘルシングは一瞬目を見開いたかと思うと、また目をしょぼつかせて船を漕いでしまった。ただ口だけは開いていたので、伯爵は彼の口に、器用にスープを流し込んでいった。

「人間とは、か弱い……」

 だが、そんな脆弱な人間どもから血液をもらわなければ“この世にとどまることが出来ない”ことに、伯爵は可笑しな憤りと、やるせなさを感じた。

 スープだけでも、ヴァン・ヘルシングに飲ませた伯爵は、ベッドを整えると、彼を寝かせた。

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