4 円舞曲――ワルツ――
ベルガー公爵家発足200年を祝う舞踏会まで2週間を切った頃。
ヴァン・ヘルシングは講義を終えた夕刻、自身の研究室でベルガー公爵家のことやドイツのシュヴァルツヴァルト辺境の伝承について調べていた。無論伯爵はもう“起きて”おり、ソファーで医学書を興味深そうに読んでいた。
ふと、伯爵が立ち上がり、ヴァン・ヘルシングの元へ歩み寄ると、彼を見下ろしてきた。
「ところでヴァン・ヘルシング君――」
ヴァン・ヘルシングは少しだけ顔を上げ、伯爵を見上げた。
「何だ?」
「君は、ワルツは踊れるのかね?」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせたが、確かに今回赴く場所は貴族の社交の場。必ずと言って良いほどワルツは付き物だ。ヴァン・ヘルシングは顔を歪ませ、無言で首を横に振った。貴族でも何でもない、ごく一般の大学教授がそんな場に招待なんてされたことは一度もないし、ワルツの経験も何十年も前のこと。もう踊り方など忘れてしまっている。
やはり、といった様子で伯爵は机の脇の、棺の蓋を開けると、何やらガサゴソと漁る。ヴァン・ヘルシングは棺の中が気になり、上からのぞき込もうとすると、伯爵が自身の背で遮った。
「余のここでの、一つ目の“領地”だ。のぞくでないぞ?」
伯爵の少々鋭い声にヴァン・ヘルシングは一瞬肩をビクつかせた。
「す、すまん……」
伯爵が棺から取り出したのは蝋管式の蓄音機だった。一体棺のどこに収納する場所があるのだ? と思いつつ蓄音機をヴァン・ヘルシングは興味津々に眺めてきた。
……ジョン【原典の登場人物。ジョン・セワード。ヴァン・ヘルシング教授の教え子であり、医師。ルーシーの求婚者の一人】が使っていたのもこれだったな。
伯爵は蓄音機を机に置くと、ゼンマイをキリキリと巻いていった。すると、蓄音機にセットされている蝋管が回り始め、音を拡張するためのラッパ部分からピアノの音が流れ始めた。
ショパンのワルツ第14番ホ短調だった。
伯爵はヴァン・ヘルシングの方を向くと、突然丁寧にお辞儀をして、手を差し出してきたのだ。眉を潜めるヴァン・ヘルシング。
「この余が直々にワルツというものを教えてしんぜよう」
「は……?」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは眉間にシワを寄せた。ワルツは男女がペアで踊るものだ。なのに伯爵は、ご教授するためだが、男同士で踊ろうと言ってきたのだ。伯爵は口角を上げ、ヴァン・ヘルシングの思っていることに反論するように言った。
「いずれ、同性同士で踊るのが普通になる時が来るかもしれないな?」
伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは、目から鱗が落ちる感覚がした。
既成概念から外れたものを端から否定するのではなく、心を開いてみろ。それが全てではない、と思うことが理解への第一歩だ。そう言われているような気がしたのだ。ヴァン・ヘルシングが教え子であるジョン・セワードに説いた話だ。
ヴァン・ヘルシングは決心したのか、深呼吸をし、立ち上がった。伯爵の差し出した手に自身の手を乗せた。
「では、先ずは踊ってみよう」
伯爵はヴァン・ヘルシングの腰に手を添え、もう片手で彼の手を掴むと、流れる曲に合わせて踊り始めた。
「うわ! もう少しゆっくり頼む!」
伯爵にリードされ、ヴァン・ヘルシングはつまずきそうになった。彼の慌てっぷりを、伯爵は面白おかしく眺めながらヴァン・ヘルシングを“振り回した”。
伯爵とヴァン・ヘルシングの練習は夜まで続いたのであった――。
3時間ほどぶっ通しで練習し、ヴァン・ヘルシングは息を切らしながらソファーに項垂れた。その傍ら伯爵は、とくに変わりなくヴァン・ヘルシングの隣に姿勢良く座っている。
「では、“本題”に入ろう――」
伯爵はそう言うと立ち上がり、姿を変えた。現れたのは少女――カタリーナの姿だ。
「今度はわたしを“振り回せ”」
ヴァン・ヘルシングはゲッソリとした表情でカタリーナ姿の伯爵を見上げた。
「待ってくれっ……。まだ、息切れが……」
そう言うとソファーの肘掛けに倒れ込んだ。そんなヴァン・ヘルシングをカタリーナは身を乗り出し、彼の耳元で囁いた。
「……そんな弱々しいところを見せられると、その首に“口付け”たくなってしまう……」
ヴァン・ヘルシングはとっさに手で首を覆い、カタリーナを睨みつけた。
「毎晩ちゃんと血はやってるだろう?」
「そうだね。だが今夜はまだだ――」
カタリーナの言葉にヴァン・ヘルシングはさらに疲れたような表情を浮かべた。
「だが……今夜は良しとしよう」
カタリーナが静かに言った。
「え?」
ヴァン・ヘルシングはゆっくりと起き上がり、目をパチクリさせた。
「そろそろ血液以外にも食せるものがあるのか、試してみたくなってきた」
カタリーナ姿の伯爵は考える素振りを見せた。
「なら……我がオランダが誇るヴァン・ホーテンのココアはどうだ?」
【1828年頃にオランダのヴァン・ホーテンがココアを発明した。その後1847年頃にイギリスのジョセフ・フライが、当時までチョコレートは、スプーンが倒れないほどのドロドロの飲み物だったが、食べるチョコレートを生み出した】
ヴァン・ヘルシングはよろよろと立ち上がると、壁際の戸棚から『ヴァン・ホーテン』と書かれた缶や、理科の実験で使うアルコールランプ、五徳、マッチ、カップ、ガラスポットを取り出し、机の上に広げた。
「水を持ってくる」
ヴァン・ヘルシングはガラスポットを持って研究室を後にした。その間カタリーナは研究室内の本棚を眺めていた。
本棚には不死者に関する世界各地の伝承が綴られた書物が並んでおり、次に読む本を探していると、とある本に一瞬目を惹かれた。
『吸血鬼カーミラ』だ。
本作の中の吸血鬼はチョコレートを飲んでいたので、きっとヴァン・ヘルシングは、伯爵もチョコレート類を飲むことが出来るのでは? と考えたようだ。
ガラスポットに水を汲んでヴァン・ヘルシングが戻ってきた。ポットの他に砂糖や牛乳の入った瓶、トマトなども持っていた。
「待たせた。食堂と畑から頂いた」
ヴァン・ヘルシングはマッチを擦り、アルコールランプに火を灯すと、五徳を設置し、その上に水の入ったガラスポットを置いた。お湯を沸かす間にカップにココアパウダーと砂糖を入れ、待機する。その間、ヴァン・ヘルシングは未だカタリーナ姿の伯爵に向き直り、言った。
「君たち不死者は、この世に“留まる”ために他者の命そのものである血液を奪うと思うのだが……。ならば、同じく“生き物”から流れ出る牛乳や、野菜の汁はどうだろうか?」
ヴァン・ヘルシングは不死者に対してこう考えている。
――死後、地上に留まるには霊魂と生きた体が必要だ。だが吸血鬼はもう死んでいるので、霊魂を死体に留めるために、生命の通貨である血を欲する。
血を死体に取り込むことによって、霊魂を死体に繋ぎ止めておこうという算段だ。だから霊魂と体の結びつきがおぼろげな吸血鬼は、霊魂を映すという鏡には姿が映らないのだ。
カタリーナは、ヴァン・ヘルシングから差し出されたトマトを受け取った。
「なるほど。物は試しだ」
カタリーナはトマトに噛み付き、じゅるじゅると汁を啜った。そんなカタリーナをヴァン・ヘルシングは眉を潜め見つめた。美しい少女の外見だけに、トマトの汁を啜っている姿がどうも見苦しく見えたのだ。
カタリーナは次第に眉間にシワを寄せ、口を歪めた。その口角からだらりとトマトの汁が流れた。どうやら身体が受け付けなかったらしく、黒いドレスの袖で口元を拭おうとするカタリーナに、ヴァン・ヘルシングがとっさにベストの胸ポケットのハンカチを差し出した。
「駄目だったか?」
「悪しからず」
カタリーナはハンカチを受け取り、口元を拭った。
「帰ったら洗おう」
「よし、次はこれだ」
ヴァン・ヘルシングは牛乳の入った瓶をカタリーナに差し出した。カタリーナは瓶を受け取ると、牛乳を口に流し込んだ。初めての牛乳の味に一瞬目を見開くが、それだけではなく、体が牛乳を受け入れてくれなかった。またもや口角からダラダラと摂取したものがこぼれていく。それをカタリーナは、ヴァン・ヘルシングのハンカチで拭った。
「すまない。無駄にしてしまった」
「牛乳はイケると思ったんだがな……。チッ……」
ヴァン・ヘルシングは不満げに舌打ちをした。
「君は時々口が悪くなるが、それはお国柄なのかね?」
カタリーナからの問いにヴァン・ヘルシングは口をへの字に曲げた。
「失礼な! “正直者”と言ってほしいね!」
そうこうしている内にガラスポットのお湯が沸いた。
ヴァン・ヘルシングは手際よくココアを作り、カタリーナに差し出した。
「さて、カカオは滋養強壮、疲労回復に良いとされている。飲んでみろ」
カタリーナは差し出されたカップを受け取った。
カップからは湯気がホカホカと立ち上っている。カタリーナがフーフーすることなく飲もうとしたので、ヴァン・ヘルシングは慌ててカタリーナの手を掴むと、代わりにフーフーと湯気を吹いた。
「熱いぞ?」
「そうか」
カタリーナはココアをゆっくりと啜り、カップの中身をじっと見つめた。
「甘いな」
「今の時代のココアやチョコは甘いのさ」
「そうか。嫌いではない。いける」
そう呟いたカタリーナはココアを飲み干した。
今の伯爵の姿が少女の姿なので、どうも、上品にカップを持つカタリーナの姿にヴァン・ヘルシングは、魅入られてしまった。
……私は一体……。こいつは男だっ、男っ! それも吸血鬼だ!
ヴァン・ヘルシングは勢いよく頭を振った。
「今日の練習は終わりだろう? いつもの姿に戻ってくれないか? 調子が狂う……」
ヴァン・ヘルシングは困り果てたような表情を見せた。
「それは残念だ」
カタリーナは目を細めると、黒く歪み始め、いつもの長身の伯爵の姿となった。
「君にはこちらの方が落ち着くのかね?」
伯爵は微かな笑みを浮かべ、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。
「そういうことではない……。帰るぞ。足は痛いし、腹が減ってる」
「了解した。今夜はグラタールにしよう」
「グラタール?」
ヴァン・ヘルシングは上着を羽織りながら首をかしげた。
「君たちの言葉で言う、ハンバーグみたいなものだ」
伯爵も、上着を羽織りながら答えた。
「ということは肉料理だな! 楽しみだ」
ヴァン・ヘルシングはいそいそした様子で両手を擦り合わせた。
「腕によりをかけよう」
二人は研究室を後にした。
後日大学内では、ヴァン・ヘルシングは夜な夜な美しい少女と“密会”してる、という噂が立ったのは言うまでもない。
※ブラム・ストーカー氏は当初、『吸血鬼ドラキュラ』の執筆を断念しようとしたらしいのですが、レ・ファニュ氏の『吸血鬼カーミラ』を読んで『吸血鬼ドラキュラ』を書こうと決断したらしいです。
ありがとう、レ・ファニュ。ありがとう、カーミラ。
あと、原文版原典での“吸血行為”は“kiss”とあり、翻訳本でも“口付け”と訳されていました。
原典“第十四章、ジョン・セワードの日記”より、ヴァン・ヘルシング教授の言葉の抜粋。
“He meant that we shall have an open mind, and not let a little bit of truth check the rush of a big truth, like a small rock does a railway truck. We get the small truth first. Good! We keep him, and we value him; but all the same we must not let him think himself all the truth in the universe.”
『彼(とあるアメリカ人、クインシー・モリスのことではない)が私たちに言いたいのは心を開け、ということだ。そして列車の行く手を阻む小石のように、小さな真実(科学)で、押し寄せてくる大きな真実(摩訶不思議な出来事、科学では説明不可能なもの)を足止めさせてはならない、と。我々にはその小さな真実がある。良いだろう! ごもっともだし、大切にしよう。しかし、その考えこそが万物の中の真実の全てと思ってはならない』
“Now that you are willing to understand, you have taken the first step to understand.”
『今君(ジョン)は積極的に理解しようとしている。それが理解への第一歩だ』
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