8 夜警(チェイテ村滞在3日目)
陽が完全に沈み、チェイテ村は民家の明かり以外の光はなく、静寂と夜の暗闇に包まれていた。
宿の近くの食事処で腹を満たしたヴァン・ヘルシングは懐中電灯片手に足元を照らし、肩にはコウモリを乗せ、宿への道を歩いていた。
「今夜はとくに冷える……」
ヴァン・ヘルシングはそう呟くと、はあ、と息をついた。彼の吐いた息は白くなって、雲が広がる空へと昇って消えていった。
『エイブラハム、降るぞ』
耳元でコウモリは言うと、空を見上げた。
「何が――」
ヴァン・ヘルシングが問おうとしたところで、フワフワと白いものが舞い落ちてきた。
「雪、か……」
ヴァン・ヘルシングはどんよりとした夜空を見上げた。
「積もるか?」
『積もらせようか?』
コウモリがからかうように言ってきたので、ヴァン・ヘルシングは眉間にシワを寄せた。
「やめてくれ。動きづらくなる」
『冗談だ』
宿へ戻ると、ヴァン・ヘルシングは寝支度を整えた。と言って仮眠のつもりなので、すぐ行動を起こせるようにワイシャツにスラックスの格好である。仮眠に入る前に、宿の人からお湯をもらい、ヴァン・ヘルシングと伯爵はココアをたしなんだ。
真夜中、午前0時を回った頃。
ヴァン・ヘルシングは寒さに、布団にこんもりとくるまって仮眠を取っていると、ブラム、と呼び掛けてくる声がした。ヴァン・ヘルシングが薄らと目を開けると、淡いオレンジの明かりの中、伯爵が自身のことをのぞき込んでいるのが朧げに見えた。
「……どう、した……?」
寝起きの掠れ声でヴァン・ヘルシングが尋ねると、伯爵が部屋の扉を指差した。
「誰か来る」
伯爵が答えたところで入口の扉が勢い良くノックされた。
「教授! 夜分にすみません!」
チェイテ村の村長、ゼマンの声だった。ヴァン・ヘルシングは急いで起き上がると身なりを整え、眼鏡を掛けると扉を開けてゼマンを出迎えた。
「村長、どうしまし――」
「大変なんですっ!」
ゼマンは深刻な表情を浮かべ、ヴァン・ヘルシングにすがった。ヴァン・ヘルシングはゼマンを落ち着かせようと、彼を椅子に座わるよう促そうとしたが、ゼマンはヴァン・ヘルシングの手を、力強く握ってきた。
「また村の娘がっ――」
ヴァン・ヘルシングと伯爵は目を見開いた。
「いなくなってしまったんですっ!」
「どこから?」
ヴァン・ヘルシングが問うと、ゼマンの後ろから一組の夫婦が切羽詰まった表情で押し掛けてきた。
「家です!」
女性が叫んだ。
「ヘレン――娘の部屋にこれが!」
男性が一枚の額縁を差し出してきた。それを目の当たりにしたヴァン・ヘルシングは驚愕し、伯爵は眉を潜めた。娘の父が出してきたのは、忘れもしない、例の屋敷の、肖像画の女性が描かれた絵画だったのである。
……屋敷の肖像画は全て燃やしたはずなのにっ!
ヴァン・ヘルシングは顔をしかめつつ、すぐに上着を着込むとゼマンに言った。
「先ず、村の皆さんで、村中の捜索を。私と助手で廃屋敷を当たってみましょう」
「分かりました」
ゼマンは力強くうなずいた。
ヴァン・ヘルシングは上着の胸ポケットから懐中時計を出し、時刻を確認した。
「午前2時にこの宿に集合しましょう。何か分かりましたら、その時に報告を。行くぞ、ヴラド」
「了解した」
ヴァン・ヘルシングは外套を羽織り、帽子を被ると吸血鬼退治の道具が入った鞄を手に持った。伯爵はシルクハットを被り、マントをまとうと、チェイテ城から拝借した剣を二振り手に持った。
「では、レンブラントの『夜警』のように行くか」
【17世紀オランダの画家、レンブラント・ファン・レイン作『フランス・バニング・コック隊長とウィレム・ファン・ライテンブルフ副隊長の市民隊』は18世紀以降『De Nachtwacht(夜警)』の通称で呼ばれているが、最近になって、実は昼間だったことが判明した】
ヴァン・ヘルシングはそう言うと、伯爵とともに宿を後にした。宿を出ると未だに雪が、ちらほらと降っていた。早速村の住人たちがランタン片手に、消えた娘の名前を叫んでいた。ヴァン・ヘルシングも懐中電灯を点け、足元を照らす。そんな彼に伯爵が尋ねてきた。
「君、歩いて行くつもりかね?」
伯爵の問いにヴァン・ヘルシングは少々困った様子を見せた。
「まさか。馬車を拾いたいところだが……。こんな時間だから――」
『乗るかね?』
伯爵はいつの間にか姿を変え、細身の立派な、真っ黒な馬の姿になっていた。伯爵扮する黒い馬は、鼻っ面をヴァン・ヘルシングの首元に押し付け、急かしてきた。
「分かった、分かった。お言葉に甘えるよ」
ヴァン・ヘルシングが馬の鼻筋を撫でると、馬は身を屈めた。ヴァン・ヘルシングは鞄を肩に掛け、馬のたてがみを掴むと、ゆっくりと馬の背にまたがった。
「あまりスピードを出されると、俺の腰が――」
『君も“爺さん”になったものだね』
馬がふふっ、と“笑った”。
「頼むから、“婆さん”みたたいなこと言わないでくれ……」
ヴァン・ヘルシングは嘆いた様子で大きなため息をついた。
『婆さん、ね……。なってあげようか?』
馬がからかうように言ってきた。
「ダメだ、ダメだ!」
ヴァン・ヘルシングは全力で拒否したかと思えば、恥ずかしそうにボソリと呟いた。
「俺はお前の……綺麗な黒髪の女姿が、その……気に入ってるんだ……」
馬は黙ってヴァン・ヘルシングの言葉を聞き届けると、静かに、そう……と返した。
『照れてしまうな……。この、人誑しめ……』
馬の言葉にヴァン・ヘルシングはムスッと表情を歪めると、そのたてがみをグイグイ引っ張ってやった。
「人誑しで悪かったな! 俺は正直に言っただけだっ!」
『ああ、痛い痛い』
馬はわざとらしい口調で返した。
「ほら行くぞ! 全くもう!」
ヴァン・ヘルシングは照れ隠しなのか、威勢のいい声で言うと懐中電灯の明かりを、屋敷へ続く道へと向けた。
懐中電灯の照らし出す明かりの中で、細やかな雪の粒が影を作っては消えていった。
『では、行くとしよう』
馬は軽やかな足取りで歩き出した。
鬱蒼とする森の、砂利道を進んでいくと、木々の向こうから狼たちの遠吠えが聞こえた。ヴァン・ヘルシングはそっと馬を見下した。馬はヴァン・ヘルシングの視線に気づいたらしく、案ずるな、と言ってきた。
『こちらに掛かってくるようなら、命令でもして従えてやるさ』
「そ、そうか……。それは心強いな」
ヴァン・ヘルシングは微苦笑を浮かべながら馬の首をポンポンと叩いた。
屋敷に着く頃には、雪は本降りとなっていた。もう地面は白くなっている。
屋敷前に着くと、ヴァン・ヘルシングは懐中電灯で屋敷の窓を照らした。
「ヘレンさんっ! いらっしゃるなら返事をしてく――むぐっ!」
突然伯爵に、背後から冷たい手で口を塞がれ、尚且つ懐中電灯を奪われてしまった。ヴァン・ヘルシングは肩越しに伯爵を睨んだ。
……何するっ――あ……。
伯爵はある場所をじっと見つめていた。ヴァン・ヘルシングもそちらに視線を向けると、降り続く暗い雪の中、何か大きなものを抱えている人影が見えたのだ。ヴァン・ヘルシングは目を凝らした。
……あれは――。
伯爵が懐中電灯で人影を照らした。
懐中電灯の明かりに照らし出されて見えたのは、若い女性を脇に抱えた、肖像画と同じ――茶髪に、深紅の中世期のドレスを身にまとった姿の――女だった。抱えられている娘は微動だにせず、だらりとしていた。
深紅のドレスの女がギロリとこちらを睨んできた。その肌は土色で、目は落ちくぼみ、頬は痩せこけ、動きはぎこちなく遅い感じがした。その周囲には白い霧が漂っていた。ヴァン・ヘルシングは固唾を飲んだ。
……あの女がバートリ・エルジェーベト伯爵夫人……? 肖像画とは随分印象が……。
今まで見てきた女吸血鬼は――伯爵の女姿も含め――どいつもこいつも官能的で魅惑的な者ばかりだったのに、深紅のドレスの女は“ただの死体”そのものにしか見えなかったのだ。
不審に思い見つめるヴァン・ヘルシングや懐中電灯で照らしてくる伯爵に構わず、深紅のドレスの女――エルジェーベトはゆっくりとした足取りで森の方に入っていこうとした。
「ヴラド!」
「逃しはせんよ」
伯爵は懐中電灯をヴァン・ヘルシングに返すと、スラリと二振りの剣を抜き、まるで豹のような素早い動きでエルジェーベトに接近していった。
「ヘレンさんに怪我させるなよ!」
ヴァン・ヘルシングは伯爵の背に向かって叫んだ。
「案ずるな!」
そう返した伯爵は、エルジェーベトの背後を捉え、剣を突き出した。
……仕留める。
剣先がエルジェーベトの背に深々と刺さった。だが、エルジェーベトはうんともすんとも言わない。それどころか血すら出なかった。それに違和感を感じた伯爵は素早く剣を引き抜き、エルジェーベトの背に蹴りを入れた。
エルジェーベトの身体は呆気なく前のめりに倒れ、娘を地面に落とした。エルジェーベトはまるで生き人形のようにぎこちなく地面を這っていった。伯爵はエルジェーベトに歩み寄っていくと剣を高く掲げ、まっすぐ落とした。刹那、一瞬目の前を、濃い霧が横切った。霧が消えた時には、エルジェーベトはすっかりいなくなってしまっていたのだ。伯爵の振り下ろした剣先はただ地面に刺さっていただけだった。
伯爵は残りの剣を構えたまま辺りを見渡したが、何かを悟り、剣を静かに下ろした。
「ヴラド!」
ヴァン・ヘルシングが息を切らしながら駆け寄ってきた。
「エルジェーベトはっ?」
「すまない。逃げられてしまったようだ……」
伯爵はどこか考え込んだ面持ちで静かに答えた。
「そうか……。どうやら何か納得いってない様子だな」
ヴァン・ヘルシングが問うと、伯爵は肩をすくめながら、まあね、と返した。
ヴァン・ヘルシングは地面に倒れている娘を抱き起こし、懐中電灯で首筋を照らした。
「吸血はされてないな。気絶しているだけのようだ。間に合ってよかった……」
ヴァン・ヘルシングは安堵した様子で大きなため息をついた。
「宿に戻ろう。やはり、“寝床”探しは昼間の方が安全だ」
伯爵はそう言うと姿を黒い馬に変えた。
「賛成だ。すまんが、ヘレンさんを乗せてくれないか?」
ヴァン・ヘルシングは娘の上体を起こしつつ、黒い馬を見上げた。
『良いだろう。君はどうするのかね?』
馬がヴァン・ヘルシングをのぞき込んできた。
「俺は歩けるさ。ゆっくりだがな」
『付き合うよ』
馬は姿勢を低くした。その背にヴァン・ヘルシングが娘の身体をうつ伏せに乗せると、馬は静かに立ち上がった。
『では、戻るとしよう』
宿へ戻った頃には雪はやんでおり、夜空には月や星が輝いて見えた。
ヴァン・ヘルシングと伯爵は、宿で既に待っていた夫婦に連れ帰った娘の確認をしてもらった。娘は間違いなく、姿を消してしまった娘だった。その後、ヴァン・ヘルシングによる診察で、娘は無事に目を覚ました。
深夜3時。
ヴァン・ヘルシングはヘトヘトの状態で再度ベッドに潜り込んだ。少しもしない内に静かに寝息を立ててしまった。そんな彼の様子を、伯爵は椅子に座りながら静かに眺めていた。
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