15 決意
再び目が覚めると、カーテン越しから陽の光が差しており、室内を照らしていた。
伯爵は重だるい身体を起こし、ボウッとする頭を軽く振った。そしてすぐに深夜のことを思い出し、胸を嫌にどぎまぎさせながらベッドから勢いよく立ち上がった。室内を見渡すが、やはりヴァン・ヘルシングの姿はなかった。
……エイブラハムを探さなくては――。
部屋の廊下の、姿見の前を通り掛かった時だった。ふと、姿見の方を向くと、今一番会いたい人物が、その中に立っていたのだ。
「エイブラハムッ……!」
伯爵は姿見に縋り付いた。
「エイブラハムッ! 今までどこにっ――」
伯爵は突然押し黙ると、姿見に映るヴァン・ヘルシングをまじまじと見つめた。姿見の中のヴァン・ヘルシングの目は、伯爵の燃え盛る炎のような真っ赤な目の色をしていたのだ。ヴァン・ヘルシングの瞳の色に動揺を隠せなかった伯爵は絶望に後退りし、背後の壁にぶつかると、その場にズルズルと座り込んでしまった。鏡の中のヴァン・ヘルシングも同じように座り込んだ。その顔はとても青白かった。
「こんな瞳……エイブラハムではないっ!」
そう叫ぶと両手で顔を覆い、伯爵は肩を震わせてはさめざめと涙を流した。
「このようなつもりではなかったのだっ! エイブラハム……許してくれ……」
伯爵はようやく、“生き返った”のはヴァン・ヘルシングではなく自分だと理解したのだった。
あれからどうすることも出来ず、伯爵は憂鬱な気分と重だるい――ヴァン・ヘルシングの身体を引きずり、村の中心の集会場へ出掛けようとした。宿を出ようとすると冷たい風が身に染みて、出るのを躊躇してしまいそうなほどだった。以前ならそんなことなど無かったものの――。
ヴァン・ヘルシングの外套の他に、自身のマントも羽織り、伯爵は宿を後にした。外はもう昼間で眩しかった。日差しが、地面に積もる雪に反射して、チェイテ村は一層明るく見えた。
積もった雪のせいか、若しくは気分が優れないせいだろうか足取りは重く、長い時間を掛けて集会場へと辿り着いた。集会場の扉を力なく叩くと、ゼマンのお付きの男性の一人が出迎えてきた。
「ヴァン・ヘルシング教授! 具合の方はどうですか?」
男性からの問いに伯爵は苦い表情を浮かべては、何も答えることは出来なかった。
「……村長殿は……?」
「います。どうぞ」
お付きの男性に案内され、伯爵はとぼとぼと集会場の中へと入っていった。ゼマンのいる部屋に通されると、机に着いていたゼマンが伯爵の姿を捉えるなり勢いよく立ち上がって駆け寄ってきた。
「ヴァン・ヘルシング教授! お怪我などはございませんかっ!? 夜中は心配しておりました。拐われた娘は無事に帰ってまいりました。教授のおかげです! ……そういえば、助手の方は――」
伯爵は右手を掲げると、ゼマンの話を遮った。
「……“奴”はもう、いない。逝ってしまったのだ……」
伯爵の言葉にゼマンは目を見開き、ため息をもらした。
「それはお気の毒に……」
「すまないが、ヴァーンべーリ・アールミンにはそちらから手紙を出してほしい。チェイテ村の怪奇を終わらせた、とね。それと……“余”はもう、吸血鬼には関わらない」
伯爵は静かに言い終えると、ゆっくりときびすを返し、ゼマンの元から去っていった。ゼマンはとっさに伯爵を引き留めようとしたが、身近な人を失った彼に何と声を掛ければ良いのか分からず、ただ、悲しみに打ちひしがれた背中を無言で見送ることしか出来なかった。
宿に戻った伯爵は帰る準備をすると、失意の果てにオランダへと帰国していった。
オランダのアムステルダムへ帰国すると、伯爵はしばらく家から出ることが出来なかった。ヴァン・ヘルシングへの申し訳ない思いや、自分をエイブラハム・ヴァン・ヘルシングだと信じて接してくれる大学の学生たちに顔向け出来ない恐怖が伯爵を蝕んでいた。時折アムステルダム市立大学からの者が来るが、当然会うことなど出来ず、玄関前ですぐに追い返し、やり過ごしていた。
本物の空腹を感じるようになったのに食欲はなく、身体はどんどんやつれ、細くなっていった。
以前まで棺で何の障りもなく眠っていたのに、今ではヴァン・ヘルシングのベッドでないと体中が痛くて、少しも眠れはしない。
ヴァン・ヘルシングの全てを奪ってしまったことに伯爵は、自身に嫌悪を感じていた。鏡を見るたびに真っ赤な瞳のヴァン・ヘルシングが映り、自分への嫌悪感が一層増してくる。とうとう伯爵は血迷ってしまったのか、キッチンへ駆け込むと包丁を鷲掴みに自身の首へとあてがった。だが、洗い場の上の鏡をふと、見てしまい、哀れな親友の姿に絶句してしまった。
……余は、何ということをっ……。
自身の手に握られた包丁を軽蔑の目で見ては投げ出し、その場にうずくまって嗚咽した。
「許して……許してっ……」
数日後。感情を失い始めていた伯爵はただ、ベッドの上で過ごす日々が続いていた。そんなある夜だった――。
『俺は、お前をやつれさせるためにこの身体を譲ったんじゃないぞ? 俺の“残り”をヴラド、お前にあげる。だから、真っ当に生き、俺の元に来い』
懐かしい親友の声を聞いたような気がして、伯爵は目覚めた。
カーテンの隙間から明るい光が差し込んでいた。もう朝だった。
目元が濡れているような感覚がし、手で拭ってみると、なんと手には血のように真っ赤な液体が着いていたのだ。伯爵は慌ててベッド脇のサイドテーブルから手鏡を取り出し、自身の目を見つめ、驚愕した。
「っ!? エイブラハム……」
手鏡の中のヴァン・ヘルシングの瞳は前と同じく深い青色の瞳をしていた。
伯爵は肩を震わせ、すすり泣いた。
「余は、もう“私”なのだな……。エイブラハム……」
そして伯爵はエイブラハム・ヴァン・ヘルシングとして、彼の意志を継いで行くことを決意した。
雪も大分溶け始め、暖かくなってきた頃、伯爵はヴァン・ヘルシングとして、アムステルダム市立大学医学科の教授として教鞭を執っていた。
アドリアン・バースはもちろん、他の教授や医学科の学部長から最近人が変わったようだと心配されたが、伯爵はヴァン・ヘルシングとして振る舞い続けた。ヴァン・ヘルシングの記憶の引き出しを手探りしながら――。
ヴァン・ヘルシングの仕事はとても多忙であった。学生たちへの講義はもちろん、依頼があれば現地へ赴き、時にアドリアンに助手を頼み、日々コツコツと、彼のやっていたことを伯爵はこなしていった。大変ではあるが、ヴァン・ヘルシングの代わりに自分がやっていると思うと本当に助手になったような気分で――ヴァン・ヘルシングからは助手公認だが――、彼を傍に感じることが出来てとても有意義な時間だった。だが、その時間も長くは続かなかったのだ。
あれから1年が経った1912年。寒さがまだ残る頃。伯爵はアムステルダム市立大学でいつも通り講義を行っていた。しかしその日は体調が優れなかった。
その日突然ではなく、徐々に、徐々に身体の衰えを感じ始めていたが、一昨日、昨日から、寒くもないのに手が勝手に小刻みに震え、脚に力が入らなくなった。教壇に立っていることが出来ず、その場に崩れるように膝を突いた。
「先生っ!」
「先生が倒れたぞ!」
講義を受けていた学生たちが駆け寄り、伯爵の身体を支え、教室から運び出していった。
その後のことは思い出せなかった。
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