終章

 1912年4月某日。アムステルダム市内の某病院の病室にて。

 “エイブラハム・ヴァン・ヘルシング”はホーエンツォレルン城での吸血鬼騒動を話し終えると、少々眠たそうにまどろんだ表情を浮かべた。

 病室の窓の外では、太陽が西の方に傾き始めていた。

 アドリアンはそんなヴァン・ヘルシングの様子に慌てて立ち上がった。

「お疲れですよねっ、そろそろ帰ります」

「すまない。少し眠くなってしまった……」

 ヴァン・ヘルシングは『吸血鬼カーミラ』の本をサイドテーブルにゆっくりと置くと、ベッドに寄り掛かった。

 アドリアンは静かに立ち上がり、足音を立てずに退室しようとしたが、どうしても名残惜しくてヴァン・ヘルシングに振り向いた。

「“先生”は――」

 目を閉じ掛けていたヴァン・ヘルシングは、再び身体を起こすとアドリアンに顔を向けた。

「先生は、死は恐ろしいですか……?」

 アドリアンからの突拍子のない質問にヴァン・ヘルシングは口元を綻ばせた。

「恐ろしくはない。むしろ“待ち望んでいたほど”だ……。ただ……不安はある……」

 そう答えるとヴァン・ヘルシングは眉を潜め、不安そうに目を伏せた。するとアドリアンがヴァン・ヘルシングのベッド脇に膝を突き、微苦笑を浮かべてのぞき込んできた。

「きっと大丈夫です。“先生”なら迎えてくれますよ。今ならそう思えますでしょう? ……ドラキュラさん」

 ヴァン・ヘルシング――伯爵は目を見開くと、大粒の涙を静かに流した。

「流石エイブラハムの教え子だ……。叶わんな……」

 ヴァン・ヘルシングは眼鏡越しに両手で顔を覆ってはすすり泣いた。

「どうして分かったのかね……?」

 ヴァン・ヘルシングは顔を上げて涙声でアドリアンに問うと、彼は言いづらそうに目を泳がせた。だが正直に言った。

「……時々オランダ語の発音が、おかしかったのと……それと先生は、僕のことは“アドリアン君”と呼んでいたので……」

 アドリアンの返事にヴァン・ヘルシングは静かに自嘲した。

「フフッ……余は勉強不足だったな――」

「あの、もしよろしければっ……」

 今度はアドリアンが、ヴァン・ヘルシングに質問をした。自分なんかが聞いてもいいのだろうか、と思いつつアドリアンは後ろめたそうに尋ねた。

「チェイテ村でのことも教えて頂きたいのです。先生とドラキュラさんの最後の冒険談をっ……」

 するとヴァン・ヘルシングはパッと目を見開いたかと思えば、一変してニタリと口角を上げた。その笑みは正しく伯爵の笑い方だった。

「長くなるぞ? 時間は大丈夫かね?」

「もちろんです!」


 チェイテ村でのことを話し終え、アドリアンが帰り、ヴァン・ヘルシングは黄昏れていく病室の窓の外を、まるで何かを待っているかのように眺めていた。

 窓の外はいつの間にか薄明――トワイライト――の空を映し出していた。

 そんなヴァン・ヘルシングの手には髪留めが握られていた。

 薄明の時は刹那に終わり、空は藍色に染まり始めていた。

 ヴァン・ヘルシングは物悲しそうに手元の髪留めに視線を落とすと、一つ、ため息をついた。

……今日も、来てはくれぬのだな……。

 力なくベッドに寄り掛かると、静かに目を閉じた。


『起きないな……少し早すぎたか?』


 懐かしい親友の声が聞こえたような気がして、ヴァン・ヘルシング――ヴラドは“深い緑色の瞳”をゆっくりと開けた。

 薄暗い病室内に薄っすらと、光り輝く存在を見つけたヴラドは目を見開いた。

「エイブラハムッ……」

 ヴラドはガバッと身体を起こすと、光り輝く存在――ヴァン・ヘルシングを真っ直ぐ見上げた。そのヴァン・ヘルシングを上から下まで眺めれば、彼には脚が“無かった”。否、ないというわけではなく、半透明に、薄らとだけあった。

 これは夢なのか現実なのか、ヴラドにはもうどうでも良かった。

「すまない。君には20年と言ったのに、2年しか持たなかった……」

 ヴラドは申し訳無さそうにヴァン・ヘルシングに詫びると、らしくもなく肩を落とした。ヴラドの様子にヴァン・ヘルシングは苦笑いを見せた。

『まあ、もういい年だったからな……。もう思い残すことはないか?』

「ないも何も……ずっと君を待っていた。地獄なりどこなり、連れて行ってくれ」

『地獄? そんなところで良いのか?』

 ヴァン・ヘルシングは目をパチクリさせ、ヴラドを見下ろした。

「えっ――」

 ヴラドは困惑した様子でヴァン・ヘルシングを見つめた。

『二人で煉獄山でも登らないか?』

 ヴァン・ヘルシングからの申し出にヴラドは不安げな表情を浮かべた。

「だが――」

『お忘れかな?』

 ヴァン・ヘルシングはヴラドの言葉を遮ると続けた。

『俺は文学博士でもあるんだ。俺とてダンテの『神曲』ぐらい読んだことはある。文学博士として興味はあったからな』

 そう言うとヴァン・ヘルシングは挑戦的な笑みを浮かべ、右手を差し出してきた。

『カタリーナさんに会った。確かに、僭越ながら俺と同じ、綺麗な青い目だな。すまんな、お前にとっての“永遠の淑女”が来れなくて』

「カタリーナが俺にとっての“ベアトリーチェ”なら、君はさながらの“ウェルギリウス”かね?」

 ヴラドはニタリと口角を上げつつヴァン・ヘルシングの手を取った。

「しかし君は――」

 ヴラドが言い掛けたところで、再度、ヴァン・ヘルシングは首を横に振ると遮った。

『皆まで言うな。分かってる。お前に付き合ってやるよ。親友だからな?』

「そうか……。それは心強い……」

 ヴラドは苦笑いを浮かべたかと思えば静かにベッドに寄り掛かり、次第に目を閉じていった。

『よし、行くぞ!』

 ヴァン・ヘルシングの掛け声とともにヴラドはベッドから力強く立ち上がった。

『了解した』

 二人は意気揚々と光の中へと消えていった。


 翌日、朝。

 病院から電報を受け取ったアドリアンは急いでヴァン・ヘルシングの入院する病室へと向かった。病室に着くと担当の医師や看護師が待ち構えていた。

「バースさん、申し訳ございませんが……ご臨終です」

 医師の言葉にアドリアンは力強くうなづくと、声を詰まらせながら返した。

「分かりましたっ……」


 後日、アムステルダム市内の墓所にて。

 ヴァン・ヘルシングの葬儀には大学関係者たちや、バース姉弟。イギリスからはセワード、ハーカー夫妻とその息子、そしてゴダルミング卿が参列しに来ていた。

 アドリアン・バースの姉、クララ・バースは、自身の左の人差し指にはめていた銀製のフェデリングを外すと、ヴァン・ヘルシングの棺の中にそっと入れた。

「“お二人”が天国で会えますように……」

 クララの言葉を聞いたハーカー夫妻たちはてっきりヴァン・ヘルシングの妻のことだと思っていたが、クララの言葉の裏側を知るのはアドリアンのみだった。

「大丈夫だよ、クララ。もしかしたらもう会ってるかも」

「そうね」

 バース姉弟は、ハーカー夫妻たちの後ろの方で涙ぐみながらも笑顔を浮かべていた。

 





付記


 エイブラハムとヴラドの目の前にはダンテの『神曲』の挿絵さながらの雲の上、天上の世界が広がっていた。そこに待ち構えていたのは、金髪をおさげにした深い青色の瞳の女性だった。ヴラドは彼女を見るなり駆け出し、二人は熱い抱擁を交わした。その様子をエイブラハムと、その妻が微笑ましそうに眺めていたのであった。


第二部 Finis.






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