14 さらば
死の恐怖はなかった。むしろ、ようやく土に還れると思っていた。だが違ったのだ。
“また”悪魔に邪魔をされたのだ。
17年前、痛みに悶えながら胸に刺さる猟刀を抜き、切り落とされた首を拾い、ふと、“生前”のことを思い出した。
――余も、一人の人間だったのだ、と……。
――神を恨め。神に背け。そして敵味方関係なく、人間どもを食らい尽くせ!
悪魔はそう言い放った。
目の前には果てしない闇が広がっており、その中にオーギュスト・ロダンの『地獄の門』さながらの、禍々しい雰囲気と絶望感を漂わせた黒い門がそびえ立っていた。
――Lasciate ogne speranza, voi ch'intrate【伊語:入る者よ、全ての希望を捨て去れ】.
伯爵――ヴラドはダンテ・アリギエーリの『神曲』、地獄篇の一節を思い出し、静かに自嘲した。
……最期に天国のカタリーナに会いたかった。だがそれも、もう叶わぬのだな……。
深いため息をつくヴラドの目の前で地獄の門がゆっくりと開かれた。濃い霧が漂い、その中から頭に山羊のような角と、背中にコウモリの翼を生やした、大きな黒い異形の化け物が現れた。化け物は真っ赤な目を爛々と光らせ、毛むくじゃらの山羊のような、おぞましい口から硫黄のような悪臭を放ち、真っ直ぐヴラドを見下ろしていた。
『人間ニ絆サレタ吸血鬼ハ、モウ用済ミダ。ルシフェル様ニ記憶ヲ消サレ、マタ残虐ナ吸血鬼トナルガ良イッ!』
地響きのような轟音で化け物は言い放つと、鋭い爪を生やした黒い手を伸ばしてきた。
ヴラドは静かに“深い緑色の瞳”を閉じた。
……さらばだ。エイブラハム、カタリーナ……。
化け物に握り潰される覚悟だったのだが、一向にその時は来なかった。そっと目を開くと、なんと、ヴァン・ヘルシングが、火を灯したランタンを掲げ、目の前に立ちはだかっていたのだ!
「エイブラハム……?」
ヴラドは目を見開き、力が抜けたようにその場にへたりと座り込んだ。ヴァン・ヘルシングは化け物を睨み付け、ランタンの灯火を化け物にズイッと近づけた。ランタンの暖かな光に、化け物は顔を歪ませ、手で顔を覆った。
『マ、眩シイ……』
「もうこいつは、吸血鬼にはならんぞ! 去れっ!」
ヴァン・ヘルシングが力強く言い放つと、化け物は激しく咆哮した。それでもヴァン・ヘルシングは臆することなくランタンを掲げていた。
『“アブラハム”メ……』
「私はただの“エイブラハム”だ」
毅然とした態度で返したヴァン・ヘルシングはさらに一歩を踏み出し、ランタンを化け物に近づけた。化け物は狼狽えた様子を見せると後ずさり、ようやく諦めたのか、門の中へと戻って行った。地獄の門は閉じられ、煙のように姿を消してしまった。
「エイブラハム……」
ヴラドが静かに呼び掛けるとヴァン・ヘルシングが振り向いてきた。
「間に合って良かった。ヴラド」
ヴァン・ヘルシングはヴラドの元に歩み寄るとひざまずいた。するとすかさずヴラドが、ヴァン・ヘルシングを強く抱き寄せた。
「生きていたのか。良かっ――」
「すまんが、――」
ヴァン・ヘルシングはヴラドの言葉を遮ると、彼の腕を優しく離した。
「“生きる”のは、今度はお前だ」
ヴァン・ヘルシングの言葉にヴラドは瞬きをした。
「ブラム……? 何を――」
「17年前にお前と対峙して、ジョナサン君たちと出会ってより一層、俺は孤独を感じていた――」
ヴァン・ヘルシングはヴラドの両手を力強く握ると、顔を綻ばせた。
「だがヴラド、お前が来てからは孤独を感じる暇すらなかった……。楽しかったよ……」
まるで永遠の別れの言葉のようで、ヴラドは不安げにヴァン・ヘルシングを見つめた。
「……ヴラド、我が親友よ……。お前を心から愛してる……」
静かにそう言ったヴァン・ヘルシングは、ヴラドの額に口付けをすると、スッと立ち上がった。
「エイブラハム!?」
ヴラドはとっさに手を伸ばしたが、ヴァン・ヘルシングの腕を掴むことは出来なかった。そんなヴァン・ヘルシングの背後には黄金色に光り輝く、天へ続く階段があった。
「しばしの別れだ。さらばだ、ヴラド」
ヴァン・ヘルシングは振り返ると、光の中へと踏み出していった――。
「エイブラハムッ!」
伯爵はハッ! と目を覚まし、勢いよく起き上がった。先ほどまで夢を見ていたような気がしたのだが、その内容が断片的で、ただ、ヴァン・ヘルシングが金色の光の中へと行ってしまった場面しか覚えていなかった。
……エイブラハム……?
周囲を見渡すと、伯爵が眠っていたのはチェイテ城の城門前だった。自分は我が親友に心臓を捧げ、本当の眠りについたはずなのに、何故……? と次第に心臓が早鐘を打ち始める。その時、ふわりと風が吹き、積もっていた細雪が舞った。それに凍えるような寒さを覚えた伯爵は、自身のマントを拾い上げると、自分の身体を包み込むように巻いた。何故か何時もよりマントが大きく感じられた。
……エイブラハム……? どこに行ったのだ……?
マントの裾を引きずりながら、ヴァン・ヘルシングを探して真夜中の深雪の中を歩き始めた。次第に雪が、再び降り始めてきたが、先ほどの白魔ではなく、優しい粉雪だった。月の光が雪で照り返って、辺りは薄らと明るく、足跡一つない雪肌に伯爵の“影”を落とした。
何故か体中が痛くて、重だるい。そして寒い――。
いつの間にか右手に何かを握り締めており、そっと手を開くと、以前ヴァン・ヘルシングが伯爵に贈った髪留めがあった。それを見下ろしては、ヴァン・ヘルシングは一体どこへ行ってしまったのか? とため息をつく。そのため息は白い煙となり、夜空へと昇っていった。
自身の吐息が白いことを不審に思った伯爵は、大きく呼吸をした。深呼吸をすれば冷たい空気が肺に流れ込み、その刺激で咳をし、胸に痛みが走る。そしてまた、吐く息が白い。
……余の息が白いだと? 馬鹿な……。
それでも伯爵は、ヴァン・ヘルシング探しを止めなかった。自分の身体の異状に構うことなく、しんしんと雪が降る中を歩き続けた。積もる雪に足元を取られ、つまづきそうになる。革靴に雪が入り込み、スラックスに雪が染み込み、刺さるように冷たい。
いつもより暗闇の中を見るのに苦労した。吸血鬼である自分に、暗闇など関係ないはずなのに。
「……ブラム……エイブラハム……」
とうとう自分の耳がイカれてしまったのか、発する声がいつもと違うように聞こえた。おまけにいつも見る景色とは違い、大分低い位置に目線があるように感じた。目を擦ろうと、手を目に当てると何か固いものに触れた。恐る恐る外すと、なんとそれはヴァン・ヘルシングの眼鏡だったのだ。
……何故余がエイブラハムの眼鏡を――。
不安が恐怖に変わり始め、伯爵は急いで村へと戻った。霧にでもコウモリにでも、犬にでも変身して急ごうと思ったが、姿を変えることが出来なかった。
数時間掛けて、ようやくチェイテ村につく頃には東の空は白み始め、無言で夜明けが来ることを告げていた。
ヴァン・ヘルシングとともに泊まっていた宿に着くと村長のゼマンやお付きの男たち、娘がいなくなった中年の夫婦が待ち構えていた。
伯爵の姿を見るなりゼマンたちは感激した様子で駆け寄ってきた。
「“ヴァン・ヘルシング教授”! 無事だったんですね!」
伯爵はすぐさま周りを見渡したが、ヴァン・ヘルシングの姿はどこにもない。伯爵は慌ててゼマンに尋ねた。
「エイブラハムッ、ヴァン・ヘルシング教授はどこに――」
「何を仰ってるのですか?」
ゼマンが不思議そうに首をかしげ、その斜め後ろで、お付きの男性の一人が伯爵に言った。
「教授は“あなた”ではありませんか」
お付きの男性の言葉に伯爵は体中の血の気が引いたような気がして、一瞬よろけそうになった。すぐさま男性に腕を掴まれ支えられた。
「大丈夫ですかっ?」
「教授はお疲れだ。すぐに部屋へ!」
ゼマンがお付きの男性二人に指示を出すと、男性二人が伯爵を両側から支えながら宿の中へと連れて行った。部屋に通され、そのままベッドに寝かされた。
伯爵は気を失うようにそのまま眠りについてしまった。
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