13 約束

 ただれた顔の女――ユーリはジリジリと、地面にうずくまっているヴァン・ヘルシングに近づいていった。

 ヴァン・ヘルシングは全身の痛みに歯を食いしばり松明を拾うと、ゆっくりと立ち上がって火をユーリの方へと掲げた。

「それ以上近づくなっ!」

 ユーリは一瞬顔を歪め、足を止めたものの、ニヤリと口角をあげた。唇の間から鋭い犬歯が露わになった。


――お前はあたしのものだ!


 頭の中に、容赦なく響き渡るユーリの声にヴァン・ヘルシングは恐怖と絶望を覚えた。

……駄目だ。抗えないっ……。

 ヴァン・ヘルシングは深く積り始めた雪に両膝を突くと、身体が勝手に松明を手放してしまったのだ。

 深雪に松明の火が消され、ヴァン・ヘルシングを守るものは今や何もなくなってしまった。

 ユーリは勝ち誇ったようにヴァン・ヘルシングを嗤笑し、再び彼の元へと歩み寄っていった。

 ヴァン・ヘルシングは呆然とユーリを見つめることと、戦慄に体を震わすことしか出来なかった。

 ユーリはヴァン・ヘルシングの目の前に迫ってくると、その横に落ちている焼け跡のついた杭をおもむろに拾い上げ一瞥し、満悦の笑みを浮かべた。ヴァン・ヘルシングにはそれが恐ろしく見えた。

 この吸血鬼が一体何を企んでいるのか――。

 考えたくもなかったが、ユーリによって身動きを封じられたヴァン・ヘルシングはただ、悟ることしか出来なかった。

……ヴラド……すまないっ……。

 喉をガッチリと掴まれると、左胸に杭の先端が押し付けられた。ビクリと身体が震えた。そして、グサリと左胸に痛みが走った。

「ああっ!」

 ヴァン・ヘルシングは息苦しさと痛みに身悶えし、必死に杭を押さえようとしたがユーリは容赦なく、無理やり杭を押し込んでくる。ヴァン・ヘルシングにはその杭から逃れる術はなかった。

「ああっ!……いっ!」

 自身の胸を突く杭が、ズルズルと食い込んでいく様を目の当たりにしてしまったヴァン・ヘルシングは息を荒らげながら、苦し紛れに口ごもった。

「ヴ、ラドッ……」

 ヴァン・ヘルシングの苦悶に満ちた顔にユーリは恍惚の表情を浮かべると、残酷にも鐘のように響き渡るような美しく甘い声で、彼の耳元で囁いた。

「あの吸血鬼は来ないわよ? 今頃あたしの罠に引っ掛かっているところだろうさねぇ?」

「……えっ……」

 ヴァン・ヘルシングは目を見開いたかと思えば、悲痛に涙を流した。

 絶望がヴァン・ヘルシングを襲い、彼はだらりと手を下ろした。そんなヴァン・ヘルシングの様子にユーリは狡猾な笑みを浮かべると、誘うように続けた。

「死にたくないだろう? あたしならお前を吸血鬼にしてやれる。ホントは下僕が欲しいだけだったんだけどねぇ? お前は特別に吸血鬼にしてやろう――」

 そう言うとユーリはヴァン・ヘルシングの首筋へと、口角の上がった禍々しい唇をゆっくりと近づけていった。

……死にたくない……? アイツは我慢したというのにっ……!

「なのにお前がっ……吸って良いはずが無いだろうっ!!」

 ヴァン・ヘルシングは最期の力を振り絞り腰から剣を引き抜くと、ユーリの心臓目掛けて剣先を突き刺した。

「きゃぁぁああっ!!」

 耳元でユーリの、空気を切り裂くような、鼓膜を破られんばかりの断末魔が否応なしに響き渡った。ユーリの血痕がヴァン・ヘルシングの上着や、辺りの深雪に鮮やかに飛び散った。

 ヴァン・ヘルシングは、自分にもたれ掛かるように動かなくなったユーリの身体を押しのけると、自身もその場に崩れるように倒れた。

 激しく降っていた雪は穏やかになり、細雪が舞い落ちるだけとなっていた。

 生ける屍たちを燃やしていた黄緑色の炎も消え去り、屍たちの姿もなかった。

 辺りは耳鳴りがするほどの静寂が漂うばかりだった。

 ヴァン・ヘルシングは浅い呼吸で何とか、不規則になった息を整えようと努めたが身体を貫通する杭がそれを邪魔した。

 傷口からは血がどくどくと流れ、辺りの雪を真っ赤に染め上げていった。身体には力が入らず、気が遠くなりそうだった。

 雪のせいなのか、それとも多量出血のせいなのか今までにない寒さがヴァン・ヘルシングに襲いかかってきた。それなのに貫かれた胸は燃えるように痛い。

 寒さと激痛に身体を小刻みに震わせ、この痛みは何時まで続くのだろうか、とか細い嘆息をもらす。それは白い煙となり、澄み切った夜空へと昇って消えていった。


 チェイテ城へと向かう途中、伯爵――黒い馬はヴァン・ヘルシングが乗っていた馬とすれ違った。その馬には、ヴァン・ヘルシングの外套を羽織った娘が独りまたがり、全速力で村の方へと向かっていった。

……エイブラハムはっ……?

 黒い馬はさらに速度を上げて駆けていった。

 城に近づくに連れ、砂利道には雪が深く積もっていた。そしてヴァン・ヘルシングの血の匂いも漂っていた。それが黒い馬に焦燥感を抱かせた。

 チェイテ城に着くと馬は姿を黒い犬に変え、ヴァン・ヘルシングの匂いを辿った。

 深く降り積もった雪を何のその、と埋もれることなく、雪煙を舞い上げながら駆けていった。

 雪に染まった城壁を潜り、新雪の草原を越え、城門前に着くと黒い犬は一瞬狼狽えた様子を見せた。

 城門前には二人の“人間”が血を流して倒れていた。一人は侍女のような恰好をしており、もう一人はヴァン・ヘルシングだった。

『エイブラハムッ!』

 犬はヴァン・ヘルシングの元に駆け寄ると伯爵の姿に戻り、ヴァン・ヘルシングを急いで抱き起こした。そんな彼の胸には痛々しく杭が刺さっており、背中まで貫通していたのだ。

 傷口からは温かな鮮血がダラダラと流れ出ており、伯爵のマントや上着を濡らしていった。

「ブラムッ……」

 伯爵は声を詰まらせながら、目を閉じているヴァン・ヘルシングに呼び掛けた。するとヴァン・ヘルシングがゆっくりと目を開き、朧気な眼差しで伯爵を見上げた。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵を捉えたとたん、一瞬だけ目を見開いたかと思えば安堵したような表情を浮かべた。

「ヴラド……無事だったんだな……」

 か細い声でそう言いながらヴァン・ヘルシングは、凍てついた手を震わせながら伯爵の頬に添えた。その上から伯爵が手を添えた。

 何故だろうか? 自身の手よりもヴァン・ヘルシングの手の方が冷たく感じられた。

「……ヴラド、すまんが……後は頼んだ……」

 ヴァン・ヘルシングは視線をユーリの方に向けた。

「分かっておる。だからもう喋るでない」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを安心させるように優しく返すと、彼を静かに雪原に寝かせた。自身のマントを外すと折りたたみ、ヴァン・ヘルシングの頭の下に敷いた。

 伯爵は死体同然となったユーリの元に歩み寄ると、その胸に突き刺さる剣を強引に抜き、何のためらいもなくその首を切り落とした。ユーリの身体は塵と化し、雪肌に鮮血と灰色の影を残していった。

 ユーリの死体を葬り去った伯爵は血に染まった剣を放り投げるとすぐさまヴァン・ヘルシングの元へ戻った。再度彼の身体を抱き起こし、マントを広げてその身体に掛けた。

 ヴァン・ヘルシングは今にも眠ってしまいそうな力のない表情で、伯爵の胸に頭を乗せた。

「ヴラド……」

「何だね……?」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの頭を優しく撫でた。

「約束……守れなかった。許してほしい……」

 弱々しい声でヴァン・ヘルシングはそう言うと、小さく息をつき、静かに永遠の眠りについた。

「エイブラハム……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの身体を強く抱き締めると、ゆっくりと雪の上に寝かせた。

「“You must live”...」

 そう呟いた伯爵はヴァン・ヘルシングの胸に突き刺さる杭をしっかり掴むと、慎重に彼の身体から引き抜いていった。

 ヴァン・ヘルシングの胸から杭が引き抜かれ、傷口からは大量の血液が流れ出た。

 伯爵は血に染まったヴァン・ヘルシングの上着やベスト、ワイシャツのボタンを外すと、彼の痛々しい胸を露わにした。そして腰の剣を引き抜くと、素手で真っ二つに短く折ってしまったのだ。

 鋭く折れた剣をヴァン・ヘルシングの胸にあてがうと、静かに彼の胸を開いていき、動かなくなってしまった心臓を取り出した。

……余は、君に生きていてほしいのだ。

 そう願いながら伯爵は、今度は自身の胸に剣を突き立てて開くと、どくどくと脈打つ自身の心臓を取り出した。

……こんな“死に損ない”のでも役に立てるのであれば……。

 伯爵は取り出した自身の心臓をヴァン・ヘルシングの胸の中に入れると、傷口を指で静かになぞった。開かれていた胸の傷が綺麗に塞がっていった。

……エイブラハム、さらばだ……。

 伯爵は眠るように目を閉じると、その場に倒れ込んだ――。






※吸血鬼もので、メレディス・アン・ピアス氏作『ダークエンジェル』という小説があり、精神科医カール・グスタフ・ユングの患者の夢の話からインスピレーションを受けてピアス氏が書いたそうです。

 ファンタジーではありますが、ご興味のある方は是非とも一読を……。

 因みに私の人生で二冊目の吸血鬼ものでした。

 一冊目は金の星社の『ドラキュラ』です。初めて読んだのは小学生の時でした。

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