14 過去の愛憎(ホーエンツォレルン城滞在4日目)

 礼拝堂内に出ると、正面の扉の外は薄明――トワイライト――の空だった。もうすぐで昼が終わることを告げていた。

 ようやく地上の空気に触れ、ヴァン・ヘルシングは目を覚ました。

「エイブラハム、具合はどうかね?」

 頭上から伯爵の声がして、ヴァン・ヘルシングは朧げに彼を見上げた。

「少し、良くなった……」

「それは何より」

「もう大丈夫だ。自分で歩ける……」

 伯爵は少し心配気味にヴァン・ヘルシングをゆっくりと降ろした。ヴァン・ヘルシングはそそくさと身なりを整えると、扉の外を見つめた。

「もうすぐで夜か……。急ごう」

「そうだね」

 二人は礼拝堂を後にした。

 陽が完全に沈む前に、二人は大広間にいる子供たちの様子を見に行った。大広間に戻ると、案の定、子供たちは床に倒れ、ぐっすりと眠っていた。その表情は安らかな面持ちだった。ヴァン・ヘルシングは一人一人、子供たちの具合や、吸血鬼化していないかを確認し、安堵しながら床に座り込んだ。子供たちは全員、“まだ”無事だったのだ。

 伯爵は今台所で、ヴァン・ヘルシングのためにココアや軽食を作っている。ヴァン・ヘルシングは伯爵が戻ってくるまでの間に残りの吸血鬼――ベルガー公爵の膝に乗っていた茶髪の幼い少女――に対抗するべく、鞄から残りのニンニクの花や葉、ホスチアを取り出し、ぐっすりと眠っている子供たちを囲うように置いていった。そこへ。

「待たせたな、エイブラハム」

 伯爵がワゴンを押して大量のサンドイッチや大量のカップ、大きなポットを持ってきた。大広間にココアのいい香りが漂ってきた。

「ああ、腹が減った……」

 ヴァン・ヘルシングはよろよろと立ち上がると伯爵の元に歩み寄り、ワゴンからサンドイッチを一つ取って頬張った。その隣で伯爵がカップにココアを注ぎ、ヴァン・ヘルシングに差し出した。

「君のご所望のだ」

「ありがとう」

 ヴァン・ヘルシングはココアの入ったカップを受け取ると、ゆっくりと飲み込んでいった。

「やはり、貧血の時はココアだな!」

 ヴァン・ヘルシングは満足した様子でカップのココアを飲み干した。

「よし、もう陽は沈んだ。備えるぞ、ヴラ――」

「その前に」

 突然伯爵がヴァン・ヘルシングを遮った。

「何だ?」

「俺もココアが飲みたい……」

 昼間眠っていなかったためか、伯爵は少々疲れ気味に言ってきた。

「も、もちろん!」

 ヴァン・ヘルシングは慌ててワゴンからカップとポットを取ると、カップにココアを注ぎ伯爵に差し出した。伯爵はココアを受け取ると、クイッと飲み干してしまった。

「ふむ。“生き返った”とはこういうことか……」

 伯爵は興味深そうに、飲み干したカップを眺めた。ヴァン・ヘルシングは伯爵の言葉に一瞬、間の抜けた表情を浮かべたが、ワルツを強制的に踊らされ、伯爵から水をもらった時のことを思い出した。

「ああ! その“生き返る”だ。“生き返る”だろう?」

「確かにそうだね」

「残りの吸血鬼の“後片付け”をしたら、“主食”やるから。もう少し待ってくれないか?」

 ヴァン・ヘルシングは申し訳無さそうに言うと、伯爵の空になったカップに再びココアを注いだ。伯爵は口元をゆるめ、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「それはありがたい」

 ヴァン・ヘルシングはサンドイッチやココアの乗ったワゴンを子供たちのためにホスチアやニンニクの葉花の輪の中に置き、大広間の窓や扉をニンニクの葉や花で“飾り付け”た。その傍ら伯爵は剣の準備をした。

 

 空が暗くなり、西の空には金星と少し欠けてきた月が輝いていた。もう辺りは薄暗い。

 ヴァン・ヘルシングは鞄から持参したオイルランタンを出すと、マッチで火を灯し、掲げる。もう片手には台所から拝借したナイフを持つ。伯爵は部屋から持ってきた二振りの剣を携え、二人は大広間の扉の前に立ち塞がった。

 

 あれから数時間が経った。

 伯爵は剣を床に突き立て、柄に手を添え真っすぐ立っており、ヴァン・ヘルシングはその傍らランタンのオイルの補充をしていた。

 もう辺りは暗く、ランタン一つの明かりでは大広間前のロビー全てを見渡すことは出来なかった。

 ヴァン・ヘルシングは上着の胸ポケットから銀製の懐中時計を出し、ランタンの明かりの中にかざした。時刻はいつの間にか午前2時だった。

 少し嫌な予感がした。

……午前2時。ヴラドによるとその時間帯に、吸血鬼の血を飲まされていた私は部屋を出ようとしていたらしい……。

 ヴァン・ヘルシングは懐中時計をしまうと深呼吸をし、気を引き締めた。その時、伯爵が二振りの剣を構え、正面を見つめたのだ。ヴァン・ヘルシングはすぐさまランタンを掲げ、眼の前を照らした。すると、暗闇の中に一人の、茶髪の少女が、物凄い剣幕で立っていたのだ。怒りに歪んだ唇からは鋭い牙が見えていた。

「よくもあたしの邪魔をっ……」

 少女が鋭い口調で言った。

 ヴァン・ヘルシングは固唾を飲んだ。

「君は……ベルガー公爵に吸血鬼にされたのか?」

 ヴァン・ヘルシングが静かに問うと、茶髪の少女は片方の眉を釣り上げた。

「は? 違うわ! あたしがあいつを吸血鬼にしてやったのよっ! はは!」

 少女は狡猾な笑みを浮かべ、続けた。

「200年前、あたしはフィリンゲンの村に住むただの少女だった……。なのに、ベルガーの奴に見初められ、あたしは慣れない貴族とやらの世界に入ったっ……!」

 ヴァン・ヘルシングは、少女が興奮気味になっていくことに不安を募らせていった。

 少女は悲痛な面持ちでうつむき、言う。

「それから頑張ったのよ!? なのに周りの奴らは農民のくせに、ってあたしを虐めてきた。ベルガーも何もなかったかのようにっ……。だからっ――」

 少女は勢いよく顔を上げると、真っ赤な目をギラつかせた。

「死んでやったわっ!」

 少女は声高らかに言い放った。

 ヴァン・ヘルシングはこの吸血鬼の少女に対してどのように対処すれば良いのか、思考を張り巡らせた。

……朝を待つか……。だが、この吸血鬼の“寝床”はまだ見つけれていないっ!

 その時だった――。

 ヴァン・ヘルシングの隣から伯爵が、剣を構えることなく、静かに進み出たのだ。伯爵の背中をヴァン・ヘルシングが見つめた。

「ベルガーに代わって、余が“謝ろう”……」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは目を見開いた。

 少女は顔をしかめ、伯爵を見た。

「余はとある国の君主だった。だが余は、商人の娘に……恋をしてしまったのだ……」

 伯爵が静かに、まるで追憶に耽るように話し始めた。

「だが、君主がいち商人の娘に構うのだ。周りは容赦しなかった。挙句の果てに、国同士の約束事に折れ、彼女を置き去りにして、余は別の女と結婚した。彼女には申し訳ないことをしたと思っている」

 伯爵の言葉に少女は顔を歪め、今にも泣き出しそうだった。それほどに、ベルガー公爵に見初められたことが嬉しかったのだろう。そして伯爵も、その商人の娘を深く愛していたに違いない。ヴァン・ヘルシングはそう悟った。

「……恨むのは、疲れただろう……?」

 伯爵は少女に“永遠の眠り”を勧めてきた。とたん、少女の表情は打って変わって片方の口角をニヤリと上げた。

「“最期”ぐらい、ちゃんと埋葬してくれると思ったのにねぇ?」

 刹那、少女が物凄い早さで駆け出し、ヴァン・ヘルシングと伯爵の間を縫って大広間に入ろうとしたのだ。とっさにヴァン・ヘルシングが小さな金の十字架を突き出した。一瞬少女の動きが止まり、そこへ伯爵がやるせなさそうな面持ちで剣を振るった。だが、剣先が当たるや否や、少女は姿を黒い霧に変え、姿をくらましてしまった。ヴァン・ヘルシングは急いで辺りを見渡した。

「どこに行ったっ?」

「ブラム! 後ろだっ!」

 伯爵がヴァン・ヘルシングに向かって叫び、手を伸ばした。だが、遅かった――。ヴァン・ヘルシングが振り返ると、背後には黒い霧の中に赤い光が二つ、浮かんでいるのが見えた。それは憎悪に燃えた目だった。少女の目を捉えたとたん、ヴァン・ヘルシングは脱力したように床に両膝を突き、黒い霧の中に浮かぶ少女を、ただ見上げることしか出来なかった。

 黒い霧の中から、青白い両手が伸びてきて、ヴァン・ヘルシングの首にあてがわれる。その手の刺すような冷たさにヴァン・ヘルシングは体を震わせ、どうすることも出来なかった。

……絞め殺されるっ……。

 苦しみを覚悟したその時、ヴァン・ヘルシングの頭上、後方から勢いよく剣が放たれ、黒い霧に浮かぶ赤い二つの光の間に突き刺さった。

「きゃぁぁああっ!」

 少女の、耳をつんざくような叫び声がロビー中に響き渡った。

 氷のように冷たい手と、少女の催眠術から解放されたヴァン・ヘルシングはすぐさま床に転がり込み、黒い霧から距離を取ると、ランタンを掲げた。その隣に伯爵がもう一振りの剣を構えて素早く駆け寄った。

「大丈夫かね? エイブラハム」

「あ、ああ……」

 ヴァン・ヘルシングは自身の首を擦りながら答えた。

 二人は黒い霧に浮かぶ赤い二つの光を見つめた。伯爵の放った剣は未だに黒い霧の塊に“突き刺さって”おり、少女の苦痛の声が聞こえる。

『許さないっ、許さないっ! 貴族なんて許さないっ! 貴族皆、吸い殺してやるっ!』

 そう叫んだ黒い霧は、自身に刺さった剣を引き抜き、床に叩きつけるように落とすと、風のように消えてしまった。それをヴァン・ヘルシングは慌てて追いかけようとしたが、伯爵が彼の手を掴み制した。

「我々の間を縫ってまで大広間に入ろうとした。相当血に飢えているはずだ。必ず吸血しようとするだろう」

 伯爵ののんきな様子にヴァン・ヘルシングは眉を潜めた。

「だから早く追いかけ――」

「奴は“貴族皆”と言った。ということは、舞踏会に呼ばれた者たちを襲おうとしてるに違いない。ということは、だ――」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは閃いたように目を瞬きさせた。

「俺の部屋で、“待ち伏せ”だな?」

「そういうことだ」

 二人は駆け出した。






※アナスタシア・マリア・ホルシャンスカ【Anastasia Maria Holszanska】はポーランド王族の王女で、ヴラド三世の最初の妻であり、ヴラド三世にとってアナスタシアは母方のいとこである。

 1462年、ワラキア公国に迫っていたオスマン帝国軍に捕まるよりは死ぬ方がマシ、夫のヴラド三世は負ける、と思ったのか、アナスタシアは生まれたばかりのミフネア一世を残してポエナリ城から身を投げたという。若しくはヴラド三世には商人の娘、カタリーナ・シーゲル【Katharina Siegel】という金髪をおさげにした青い目の愛人がいて、その彼女に嫉妬して身投げした、とも……。

 

 ヴラド三世は最初のワラキア公在位の後、2ヶ月で前ワラキア公に公位を奪われ1448年、母の兄弟ボグダン二世が治めるモルダヴィア公国へ亡命する。しかし1451年、亡命先だったモルダヴィア公国のボグダン二世が暗殺されると、いとこのシュテファン三世とともにトランシルヴァニア公国のフニャディ・ヤーノシュのところに亡命した。アナスタシアとは1448年以降に結婚したと思われる。

 トランシルヴァニア公国に亡命した数年後の1455年12月(クリスマスイブかクリスマスのどちらか)にヴラド三世はカタリーナ・シーゲルに一目惚れして、猛アタックの末に恋人同士になった。当時ヴラド三世は24歳で、カタリーナは17歳だった。


 因みにヴラド三世はハンガリーに幽閉されている際、暇つぶしに編み物をして、アナスタシアとの子であるミフネア一世を育てていた。幽閉中、ヴラド三世はカタリーナとの間に子どもを授かっているので、多分ではあるが、カタリーナも一緒について行ったのでは? と思っている。そのハンガリーでの幽閉生活の最中に当時のハンガリー王マーチャーシュ一世のいとこ、ジャスティーナ(若しくはイローナ)・シラージと、人生2回目の結婚をする(釈放させてもらえる条件がそれだったので仕方なく)。

 原典では、伯爵の城にいた3人の女吸血鬼で、一番特別そうな扱いを受けていたのが“青い目に、金髪の女吸血鬼”だった。カタリーナ・シーゲルという名前は出てこなかったが……。



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