16 夜が明ける
茶色い狼を追っていけばいつの間にか城を出ており、シュヴァルツヴァルトの真っ暗な獣道を走っていた。森の中は未だに雪が積もっており、仄かに地面が光っているように見える。
ヴァン・ヘルシングと伯爵――今は馬であるが――の数メートル先に茶色の狼が、積雪などお構いなく走っていた。馬も同様だが。
……あの吸血鬼、一体どこへ向かってる?
ヴァン・ヘルシングは暗い森の中、目を凝らして前方を走る狼を見つめた。すると前方を走る狼が周囲を見渡し、遠吠えを上げた。辺りから他の狼の遠吠えが聞こえ始め、こちらへ近づいて来るのが分かった。ヴァン・ヘルシングは眉を潜め、ゆっくりと、馬のたてがみを離し、腰の剣に手を伸ばそうとした。
『案ずるな、エイブラハム』
伯爵の声にヴァン・ヘルシングはすぐさまたてがみを掴み直した。
『狼など、俺の相手にもならん』
そして茶色の狼の遠吠えに応えて灰色の狼数頭が木々の間から出てきた。狼たちはヴァン・ヘルシングと馬の周りを走りながら迫ってきた。
「ヴラドッ!」
『聞けっ!』
馬は真っ赤な目をギラリと光らせ、まるで周りの狼たちに命令するように“言い放った”。とたんヴァン・ヘルシングと馬に群がっていた狼たちが一変して怯えた様子で一目散に逃げていったのだ。未だに前方を走る茶色の狼が驚愕した様子で、逃げていった狼たちを振り返りざまに見渡した。
『この役立たずがっ!』
茶色い狼はさらに速度を上げていった。
『逃さんぞ』
馬も狼に続き、速度を上げていった。
『振り落とされるなよ? エイブラハム』
「ああ!」
ヴァン・ヘルシングは馬の首にしっかりとしがみ付いた。
馬が狼の横についた。それを目の当たりにした狼は一瞬怯み、馬を見上げたかと思えば直角に曲がり、さらに鬱蒼とする森の奥へと入っていった。馬もそれに続く。
馬は引き離されることなく狼の横にピッタリとついた。
『余を撒けるとでも思ったか? “俺の馬の方が速いぞ”』
狼は恐怖におののき耳をへたりと垂らしながら、嫌だ! “死にたくない”よっ! お父さんっ! と叫ぶ。狼の悲痛な叫びにヴァン・ヘルシングは口元を歪ませた。
……まるで俺たちの方が“Den Erlkönig【ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ作『魔王』】”のようだっ! だがっ……!
ヴァン・ヘルシングは歯を食いしばり、激しく揺れる馬の上で必死にバランスを取りながら剣をゆっくりと引き抜くと、目下を走る狼の背に狙いを定めた。
……狙うは心臓だ! 失敗は許されない!
ヴァン・ヘルシングは瞬時に両手で剣の柄を掴み、狼の背中目掛けてまっすぐ下ろした。剣先が狼の背中に食い込み、そのまま自身の体重を掛けて刺した。
「ギャウッ!」
狼が獣の悲鳴を上げた。
ヴァン・ヘルシングは自分の体が前のめりになるままに、さらに狼に剣を押し込み、剣が狼の体を貫通した。狼がその場に倒れ込み、ヴァン・ヘルシングは馬から落っこちた。
『ブラムッ!』
馬はすぐさま身をひるがえすと伯爵の姿に戻り、ヴァン・ヘルシングの元に駆け寄った。ヴァン・ヘルシングは辛そうな表情を浮かべながら、雪の積もる地面からゆっくりと起き上がり、狼を見つめた。狼はもう狼の姿ではなく、茶髪の少女の姿だった。少女はぴくりともせず、その左胸からは痛々しく剣が突き出ており、血がどくどくと流れ、辺りの雪を赤く染めていった。
ヴァン・ヘルシングは乱れた呼吸を整え、大きなため息をつき、疲れ果てた様子でよろよろと少女の元に歩み寄った。その隣に伯爵も続く。
ヴァン・ヘルシングが少女に突き刺さる剣を抜こうと手を伸ばしたところで横から伯爵が遮った。
「エイブラハム、座ってろ」
ヴァン・ヘルシングは疲労に満ちた顔で伯爵を見上げ、申し訳無さそうに無言で雪の上に座り込んだ。
伯爵はヴァン・ヘルシングの代わりに剣を引き抜くと、そのまま少女の首目掛けて振り下ろした。首が落ち、少女の体は塵となって消えていった。それを見届けたヴァン・ヘルシングはゆっくりと目を閉じると、どさりと雪の上に倒れてしまった。
「ブラム!」
――ブラム……。
――エイブラハム……。
伯爵の声が聞こえ、ヴァン・ヘルシングはゆっくりと目を開いた。
もふもふとした感触にヴァン・ヘルシングは思わず頬擦りをした。
「……気持ち良い……」
そんなヴァン・ヘルシングの身体には伯爵のマントが掛けられてあった。そのおかげか寒さはない。
間近に視線を感じ、そちらに視線を送ると、こちらに振り向く黒い犬の鼻面が見えた。
「うわっ!」
ヴァン・ヘルシングは急いで起き上がった。彼が枕にしていたのは黒い犬の腹だったのだ。ヴァン・ヘルシングは脱力した様子ですまん、と犬に詫た。
『構わない。そろそろ夜が明けるのでね、起こさせてもらった次第だ』
犬の言葉にヴァン・ヘルシングは頭上を見上げた。黒い木々の間から薄明――トワイライト――の空が見えた。もうすぐで夜明けだということを告げていた。
ヴァン・ヘルシングは白み始めた空を見上げながら静かに言った。
「ヴラド、すまん。行きたいところがある……」
『良いだろう』
黒い犬は姿を変え、馬の姿となった。ヴァン・ヘルシングはマントを肩に掛け、血濡れの剣を拾い、ためらうことなく馬の背に乗った。馬はヴァン・ヘルシングが乗ったのを確認すると、少し早い足取りで森の中を歩いていった。
とくにヴァン・ヘルシングは馬に行き先を告げなかったが、馬は、彼がどこへ行きたいのか把握しているようで、迷うことなく進んでいく。
辺りは相変わらず木しか生えていないが、馬が立ち止まった。
「ここか?」
ヴァン・ヘルシングが馬に尋ねた。
『ああ、そうだ』
馬は姿勢を低くし、ヴァン・ヘルシングに降りるよう促した。馬から降りたヴァン・ヘルシングの足元には、ぽっかりと楕円形に土の地面が剥き出しになっていて、雑草が一本も生えていない箇所があった。
ヴァン・ヘルシングは哀れむような眼差しでその場所を見つめた。
……こんな森の奥に、孤独に葬られていたのか。あの公爵も酷いことを……。
ヴァン・ヘルシングは剣をむき出しの地面に突き刺した。せめてもの彼女への墓標だった。そして両手を組む。
「どうか安らかに。神の元へ行けますように……」
お祈りを終えたヴァン・ヘルシングは再度馬に乗り、日が昇らない内に急いでホーエンツォレルン城へと戻った。
※原典“第一章、ジョナサン・ハーカーの日記”より抜粋、馭者(に扮する伯爵)の言葉。
“――my horses are swift.”
『――俺の馬の方が速いぞ』
原典“第四章、ジョナサン・ハーカーの日記”より、伯爵の言葉。
“Hark!”
『聞け!』
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