17 愛してる

 ホーエンツォレルン城に戻る頃には陽が顔を出しており、ヴァン・ヘルシングと伯爵は徒歩で城へと向かった。

 城門前に着くと、なんと、例の――夜の森の狼に恐れおののきヴァン・ヘルシングと伯爵を置き去りにしていった――馭者が後ろめたそうな顔で馬車を止めて待っていたのだ。

「あ! 旦那さまっ! ご無事だったんですね! 突然霧が晴れたんで来た次第ですよ!……あれ? お嬢さんは?」

 馭者の問いにヴァン・ヘルシングは無言で親指を、隣りにいる伯爵に指した。馭者はまさかぁ! と笑ったが、ヴァン・ヘルシングは、ホーエンツォレルン城に向かう途中に置いてけぼりにされたこともあったので、馭者をジトっとした目で睨んだ。馭者は、ヴァン・ヘルシングは本気だ、ということを悟り、恐縮しつつ、静かにすみませんでした、と謝った。

 馭者には他の馬車も呼んでこい、と伝え、一旦フィリンゲンの村に戻らせた。

 城内に入ると、ベルガー公爵たちに呼ばれた貴族たちや、フィリンゲンの村から拐われた子供たちが城の一階ロビーに集まっていた。茶髪の少女の吸血鬼に襲われたご婦人もどうやら無事のようだ。

 ロビーに集まった人たちは誰も彼も疲れ果てた様子で、青白い顔でげっそりとしていた。

 ヴァン・ヘルシングは隣に立つ伯爵をそっと横目に見上げた。

「これは……――」

……どちらが吸血鬼なのか分からんな。

「またキッチンを拝借してくる」

 伯爵はそう言い残すと足早に人だかりを縫って進み、行ってしまった。

 

 数時間して、伯爵が大きなワゴンにたくさんのサンドイッチと紅茶やココアを乗せて戻ってきた。

 伯爵はロビーに集う人たちにサンドイッチや飲み物を振る舞っていた。

 そんな伯爵の様子をヴァン・ヘルシングが隅の長椅子に座り眺めていると、伯爵が気づいたらしく、サンドイッチとココアの入ったカップを持って歩み寄ってきた。

「エイブラハムも食べると良い」

「ありがとう」

 ヴァン・ヘルシングはサンドイッチとココアを受け取ると、静かに食べ始めた。その隣に伯爵がゆっくりと座った。

 ヴァン・ヘルシングはそっと伯爵を見た。伯爵は椅子に深く座り込み、少々眠たげな様子でロビーに集う人たちを眺めていた。

「ヴラドも疲れてるよな。部屋に戻ったら血を――」

「エイブラハム――」

 伯爵に遮られ、ヴァン・ヘルシングは伯爵に向き直った。

「“カタリーナ・シーゲル”は俺の恋人だった……」

 突然の伯爵の話にヴァン・ヘルシングは、頬張ったサンドイッチをゴクリと飲み込んだ。

「商人の娘、といったか……?」

「そうだ。俺がオスマン帝国の人質として解放されて間もない頃にブラショフで出会った」

 伯爵は追憶に耽るように、少々はにかんだ表情を浮かべた。

「彼女は我が軍の物資を雪の中、一人で懸命にソリで運んでいた。その健気さと可愛らしさに一目惚れしてしまったのだ。彼女に振り向いてほしくて、足繁く彼女の元を訪れた。突然現れた俺に対して臆することなく、求婚者が何人かいたみたいだが、彼女は俺を選んでくれた。彼女との間に子供も出来た」

 伯爵は再び燃え上がった胸の高鳴りを鎮めるように、胸元に静かに手を置いた。

 ヴァン・ヘルシングは伯爵のそんな恋話を聞けるとは思いもせず、驚きつつも黙って聞いていた。いつの間にかサンドイッチとココアは平らげていた。

 伯爵は続ける。

「カタリーナはおさげにした美しい金の髪に――」

 伯爵はおもむろにヴァン・ヘルシングを見つめた。

「君の瞳のように――」

 伯爵はいつの間にかヴァン・ヘルシングに手を伸ばし、彼の頬に添えると、その額にひんやりとした唇を静かに落とした。

 ヴァン・ヘルシングはびっくりした様子で青い瞳を丸くし、目を泳がせていた。そんなヴァン・ヘルシングの様子に伯爵は笑みをこぼしつつ、すまない、と呟いた。

「君の瞳を見ていると、カタリーナを思い出す……。とても美しい瞳だ。“ほら、何故俺が君に惚れているのか分かってくれたかね?”」

 伯爵はヴァン・ヘルシングのことを、熱のこもった赤い瞳で見つめた。

 ヴァン・ヘルシングは顔を真っ赤にさせ、戸惑った様子で両手を突き出し、話題を変えようとしどろもどろした。

「あっ、愛する人なら俺にもいたさ! 病気で妻も息子も亡くしてしまったがね……」

 ヴァン・ヘルシングはため息をつくと、今度は自分が静かに話し始めた。

「ノエルは結核だった……。若くして逝ってしまった。それにアンは心を病んで抜け殻のようになって衰弱してしまい……。ノエルが生きていたら……どんなに幸せだったか……。きっとアンも、あんなことには……。俺のことを息子と勘違いしたのか、ノエルと呼んできた。本当に可哀想だった……。もう見るに耐えなかった……。医者である俺がいたのに……。情けない話だよ……」

 ヴァン・ヘルシングは自嘲するように言うと、今にも泣きそうな声で続けた。

「俺は医者でありながら家族の病を治してやれなかった……。俺は百戦錬磨のお前とは違い、非力さ……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを慰めるように静かに彼の背に手を置いた。

「ああ、エイブラハム……。俺は生前戦いに身を投じ、戦死したが、俺とてただ自分の国や愛する人の居場所を守りたかっただけだ……」

 ヴァン・ヘルシングは涙を溜めた瞳で伯爵を見上げた。

 そう伯爵は、15世紀に、十数万人というオスマン帝国軍をたった一万人のワラキア公国軍で追い返し――そのためにオスマン帝国軍兵士の串刺という残忍な物を、侵攻してきたオスマン帝国軍に見せつけ、戦意を削ぎ落とした――、自国を守ったのだ。

 そのことは当時のヨーロッパではもちきりで、イスラム教の国からキリスト教圏の国土を守った、と彼は英雄視すらされていたのだ。だが、ワラキア公国の隣国で、同じくキリスト教であるハンガリー王国が黙っていなかった。

 ハンガリー王国は、オスマン帝国に勝利をあげた当時のワラキア公――ヴラド三世の力を恐れたのか、ありもしない残虐な暴君の噂を作り上げ、彼を幽閉してしまったのだ。

 残虐な暴君の話は一気にヨーロッパ中に広まり、いつしか彼は今日まで残る聖書画での反キリストの“顔”として描かれてしまっている。

 ハンガリー王国に幽閉された後、釈放の条件として当時のハンガリー王のいとこと人生2回目の結婚をし、とうとうカタリーナ・シーゲルとの結婚も再会も叶わず、その後のオスマン帝国との戦いで戦死し、首を取られ、塩漬けにされると、オスマン帝国内で晒し首となったのだ。

「もうこの世界に、生前の俺を知る者はいない……」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の歩んできた人生に胸が締め付けられる思いだった。

……この者は俺以上に苦しみ、周りに人生を振り回され、最愛の人とも結ばれることもなく生涯の幕を閉じたのだ……。

「お前――否、貴公は俺の思っている以上に辛い人生を歩んできたんだな……」

 ヴァン・ヘルシングはそっと両腕を広げてみせた。伯爵は一瞬目を見開いたかと思えば、ヴァン・ヘルシングの肩にぽすんと額を乗せ、さめざめと泣いた。

「……死ぬ前に、カタリーナに会いたかった……」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の背に手を置き、優しく撫でてやった。

「よしよし、よしよし……。頑張ったな」

 ヴァン・ヘルシングは、伯爵は一国の君主ではあったが、一人の女性を愛する、ただの男でもあったのだと悟り、自分だけでも彼の理解者になることを決意した。

……ワラキア公国の君主で多忙だったヴラドにとって、カタリーナさんは心の拠り所だったに違いない。






※ヴァン・ヘルシング教授の妻と息子の名前については、ブラム・ストーカー氏の実際の妻子からお借りしました。

 妻→フローレンス・アン・レモン・バルカム(旧姓)

 息子→アーヴィング・ノエル・ソーンリー・ストーカー


原典“第十三章、ジョン・セワード医師の日記”より、抜粋させていただきましたヴァン・ヘルシング教授の言葉。


“My heart bleed for that poor boy–that dear boy, so of the ago of mine own boy had I been so blessed that he live, and with his hair and eyes the same.

There, you know now why I love him so.”

『あの可哀想な青年(アーサー・ホルムウッド)――親愛なる青年のことを思うと心から血がにじみ出そうだ。それで私の息子が生きていたら、彼と同じ年頃で、それは幸せだった。そして髪も瞳も同じ色をしていただろう。ほら、何故私が彼を愛しているのか分かってくれたか?』


“Then this so sweet maid is a polyandrist, and me, with my poor wife dead to me, but alive by Church's law, though no wits, all gone–even I, who am faithful husband to this now-no-wife, am bigamist.”

『あの可愛らしいお嬢さんは一妻多夫婚になってしまう。私もその内の一人だ。私の可哀想な妻は、私にとって既に“亡くなってしまっている”が、正気じゃなくなってしまったとは言え教会法では生者の扱いとなっている。たとえ私は、彼女の中からすっかり“存在を消し去られてしまっても”、“今やいない妻”の誠実な夫だ。そうなると私も重婚者になってしまう』


 補足として、どうしてヴァン・ヘルシングがこのようなことを言うことになったのか、“可愛らしいお嬢さん”であるルーシー・ウェステンラに対して婚約者であるアーサー・ホルムウッドが彼女に輸血をしたことによって、ルーシーと結ばれたようだ、と言っていた。だがその後、ルーシーはジョン・セワードやヴァン・ヘルシング、クインシー・モリスからも輸血を受けているので、そうなると既婚者であるヴァン・ヘルシングは重婚者になってしまうという理屈である。


 ヴァン・ヘルシングの息子に関しては彼の言葉通り、死因は不明だが既に亡くなっている。妻に関しては原典時点ではまだ生きていたみたいで、息子を亡くしたことによって心を病んでしまったそうです。

 ヴァン・ヘルシングの息子に関しては彼の言葉通り、死因は不明だが既に亡くなっている。妻に関しては原典時点ではまだ生きていたみたいで、息子を亡くしたことによって心を病んでしまったそう。

 上記の台詞の後にヴァン・ヘルシングはジョンに、君が私の今の心をのぞき込めたらきっと私を憐れむと思うよ、と言ってました。

 妻が心を病んでしまい、夫である自分のことすら分からなくなってしまったのは、エイブラハムにとってどんなに辛くて切なくて、孤独だったでしょう。それでもその妻を可哀想と思い、自分はその夫だ、と言うヴァン・ヘルシングは、私的には慈愛に満ちた人だと思いました。


 妻子の死因については本作の二次創作の設定です。




 




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