2 ヴァーンべーリ・アールミンからの手紙

 数日後の昼、ヴァン・ヘルシングの研究室にて。

 午前の講義を終えたヴァン・ヘルシングはゆったりとソファーに座り、伯爵特製のサンドイッチを頬張っていると、研究室の扉がコンコンと鳴った。ヴァン・ヘルシングは慌ててサンドイッチをバスケットに戻すと、どうぞ、と一言。

「失礼します」

 扉を開けたのは、ヴァン・ヘルシングの教え子の一人であるアドリアン・バースだった。

 アドリアンは今や医者の卵としてアムステルダム市立大学で働きつつ、市内の病院に赴いたりしている。

「やあ、アドリアン君」

 ヴァン・ヘルシングがアドリアンに振り向いた。アドリアンはヴァン・ヘルシングの眼の前に置かれてあるバスケットを見て慌てて頭を下げる。

「あ! すみません! 昼食中でしたか……」

「大丈夫さ。それより、どうしたんだい? お昼に。精が出るね」

 アドリアンは研究室に入室すると、そろそろとヴァン・ヘルシングの元に歩み寄っていった。

「ドラキュラさんから先生の助手の座を早く譲ってもらえるように、と思いまして」

 アドリアンは、机脇の伯爵が眠っている棺を眺めた。

「あ! こちら、先生宛だと思うのですが……僕、英語とドイツ語以外は読めなくて……」

 アドリアンは恥ずかしそうに言うと、手紙の差出人の名前を見つめた。

「“ふぁんばり・あぁみん”……?」

「アルミニウス君!?」

 ヴァン・ヘルシングはパッと驚いた表情を見せた。

「彼はハンガリー人でね、ブダペスト大学の東洋学者“ヴァーンベーリ・アールミン【Vámbéry Ármin】”というんだよ」

 アドリアンは、へぇ……と呟きつつ一通の手紙をヴァン・ヘルシングに差し出した。手紙を受け取ったヴァン・ヘルシングは早速封筒を開封し、手紙に目を通した。


『親愛なるエイブラハム・ヴァン・ヘルシングへ 

 久々に手紙を送るよ。

 10年以上前だったか? 君からドラキュラ伯爵の生前について教えてほしい、と言われたのは。

 月日が経つのは早いものだ。共にもうすぐで80歳だ。私はまだまだ東洋について研究をし、旅をしているよ。

 それで話が変わるんだが、私の元にスロバキアのチェイテ村から調査の依頼が来たのだがね、どうも内容的に君の方が適任だと感じたんだ。以前ドイツでも吸血鬼を退治したと聞いたからね。

 私は少々トルコに行く予定があってスロバキアには行けない。

 チェイテ村の依頼人には、エイブラハム君を行かせるよう話は済ましてある。私の代わりに行って、調査、出来れば怪奇を終わらせてほしいのだ。

 チェイテ村での依頼が終わったら手紙を送ってくれ。楽しみにしているよ。

ヴァーンベーリ・アールミン』


 ヴァーンベーリ・アールミンからの手紙の他には、調査依頼が来ているチェイテ村への地図や依頼内容の詳細が書かれた書類があった。

 それによると、数ヶ月前よりチェイテ村から若い娘が立て続けに行方不明になっているとのこと。そして、若い娘たちは決まって、行方不明になる前にとある屋敷に行っていたとのことだ。

 その屋敷というのがとある貴族の持ち物で、今は誰も寄りつかない廃墟となっている。

 その貴族というのもすでに、大昔に他界しており、その貴族というのがハンガリー王国の貴族、バートリ家だった。

 地元警察も捜査をしているのだが、証拠がいくら探しても見つからないのだ。それどころか捜査に携わった警察官の娘たちも行方をくらませてしまう始末。それにしびれを切らした行方不明者の家族が、伯爵夫人の仕業だ! 伯爵夫人に攫われたんだ! と思い込み、ヴァーンベーリ・アールミンに調査依頼をしたというわけだった。


 手紙を読み終えたヴァン・ヘルシングは眉間にシワを寄せ、深いため息をついた。

……チェイテ村……。バートリ家……。まさかバートリ・エルジェーベト伯爵夫人のことか? 信じたくはないが……。

 ヴァン・ヘルシングは少し嫌な予感を覚えた。


 夕刻、本日の講義を終えたヴァン・ヘルシングはスロバキアのチェイテ村に行くための準備をしていた。

 伯爵はいつものごとく、ソファーに座って、ココア片手に医学書を読んでいた。そんな伯爵をよそにヴァン・ヘルシングは鞄に手術道具や吸血鬼退治に必要なものばかりを詰めていた。その表情は浮かない顔だ。伯爵は医学書をテーブルに置くとすっと立ち上がり、ヴァン・ヘルシングの元へ静かに歩み寄った。

「エイブラハム――」

 伯爵の呼びかけにヴァン・ヘルシングは肩をびくつかせ、動揺した様子で振り返った。

「ど、どうした? ヴラド」

 ヴァン・ヘルシングはヴァーンベーリ・アールミンからの手紙を伯爵に見られないように自身の身体で隠した。無論伯爵がそれを見逃すはずもなく、ヴァン・ヘルシングを頭上から見下ろし手を伸ばすと、さっと手紙を取ってしまった。

「あ! こらっ!」

 ヴァン・ヘルシングは手紙を取り返そうと慌てて伯爵の方を向いたが、伯爵は手紙を持つ手を高く上げながら差出人の名前を眺めていた。

「ヴァーンべーリ・アールミン……」

 伯爵が何かを悟ったように呟いた。

「返してくれ!」

 ヴァン・ヘルシングは背伸びをして伯爵の手から手紙を取り返そうと試みるが、どうしても手が――指先すら届かなかった。時折ヴァン・ヘルシングが苦い表情を浮かべつつ自身の胸に手を置こうとし、気がついたようにとっさに手を戻す動作をする。そんなヴァン・ヘルシングをよそに伯爵は面白おかしく言った。

「Calm down, 'my child'.」

 伯爵の言葉にヴァン・ヘルシングは、ため息をつきながら不機嫌そうに伯爵を見上げた。

「だから俺はもう“そのように呼ばれる歳”じゃない……」

 伯爵はヴァン・ヘルシングを見下ろし口角を上げたかと思えば、彼の頭にポンポンと手を置いた。

「君とだったらオスマン帝国にだって行くぞ?」

 ヴァン・ヘルシングは伯爵の言葉に素っ頓狂な顔を浮かべた。

「だが――」

 ヴァン・ヘルシングが言いかけたところで伯爵が遮った。

「4世紀以上も前の話だ。ハンガリー王国だろうがオスマン帝国だろうが、もうどうでも良い。今俺は、君の助手だからね」

 伯爵は頼もしい表情で言うと、さて、と呟き姿をコウモリに変えた。手紙がふわりとヴァン・ヘルシングの頭の上に着地した。

『少々不在にする』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの肩に留まった。

「“土”か?」

 ヴァン・ヘルシングは自身の頭の上の手紙を取りながら尋ねると、コウモリはうなずいた。

『前にシュヴァルツヴァルトに置いていった長持ちを持ってくる』

「シュヴァルツヴァルトならスロバキアに行く途中で寄れば――」

『エイブラハム』

 コウモリが静かにヴァン・ヘルシングの言葉を遮った。

『ケルンに着いたら、そのままウィーンまで直行だが?』

「直行? 何だ? ケルンから急行にでも乗るのか?」

『ただの急行ではないぞ?』 

 コウモリはもったいぶったように間を置く。ヴァン・ヘルシングは小さくため息をつき、潔くコウモリが言うのを待った。コウモリがふふっ、と“笑った”。

『オリエント急行だ』

 コウモリの話にヴァン・ヘルシングは驚愕の表情を見せた。

「オリエント急行だってっ!?」






※アガサ・クリスティ氏の『オリエント急行殺人事件』でお馴染みの、オリエント急行は1883年、ベルギーの実業家ジョルジュ・ナゲルマケールスが設立。

 始発地や経由地によって様々な名称がある。

 例えば、始発ベルギーのオーステンデから終点オーストリアのウィーンまでの区間を『オーステンデ・ウィーン・オリエント急行』と呼ぶ(ウィーンからは通常のオリエント急行と併結され、トルコのコンスタンティノープルまで行く)。

 オーステンデ・ウィーン・オリエント急行は1900年から運行開始。

 オリエント急行は主に王族や貴族、外交官、裕福な商人・旅行者がヨーロッパの東西を行き来するのに使っていた。要するにヴァン・ヘルシング教授には到底手の出せる代物ではない。






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