3 オーステンデ・ウィーン・オリエント急行

 ヴァーンベーリ・アールミンからの手紙を受けて2日もしない内に伯爵は、土の入った長持ちを携えて帰ってきた。

 アムステルダムには丁度夕刻に入ることが出来、自分で長持ちを持ってアムステルダム市立大学に帰ってきたというわけだ。その頃にはヴァン・ヘルシングも自身の準備を整え終わっていた。

 チェイテ村の方には4日後にそちらに着くようにする、と返信した。

 

 2日後の昼、アムステルダム駅にて。

「先生、ドラキュラさん、気を付けて行ってきて下さい。そしてスロバキアでの吸血鬼の話を聞かせて下さい。姉も楽しみにしてます!」

 バースの熱のこもった表情にヴァン・ヘルシングは苦笑いを浮かべた。

「まだそうと決まったわけでは……。お姉さん――クララさんは元気かい? 最近会ってないな」

「元気ですよ。お二人の話をするともう――」

 突然バースは恥ずかしそうに口をつぐんだ。

 バースの心情を悟ったヴァン・ヘルシングは、分かったよ、と返した。

「では、ミス・クララのために土産話を持って帰るとしようか」

 伯爵が意気揚々と言った。

「是非ともお願いします!」

 バースに熱烈な見送りをされた二人はドイツのケルン駅へと出発した。

 切符を買う際、伯爵がまたもや一等車の座席を購入し、ヴァン・ヘルシングはゆったりとくつろぎつつ、車内で仮眠を取った。その隣で伯爵は、ジョン・ポリドリの『吸血鬼』を読んでいた。無論『吸血鬼』もヴァン・ヘルシングの研究室の本棚にあったものだ。

 多少の遅れはあったものの5時間ぐらいでケルン駅へと着き、二人はこの後乗車するオーステンデ・ウィーン・オリエント急行の切符を購入した。

 出発時刻まで、ケルン駅の近くのカフェで二人はのんびりと過ごした。


 夜。待ちに待った、ヴァン・ヘルシングにとっては2回目【原典第二十五章でオリエント急行に乗ってパリからブルガリアのヴァルナへと向かっている】、伯爵にとっては初めての豪華寝台列車、オリエント急行に乗車する時間となった。

 深い青を基調とした、気品あふれる車両がケルン駅のホームに続いており、先頭車両の蒸気機関車の煙突からは煙がもくもくと立ち昇り、堂々と待ち構えていた。

 伯爵の長持ちは貨物車両に積み、二人は意気揚々と列車に乗り込むと切符に記されてある車両の個室へと向かった。

 車内は豪華絢爛で、木を基調とした暖かで煌びやかな装飾が施されている。明かりはガス灯ではなく白熱電球だ。

 17年前に乗車した時はじっくりと車内を見る余裕もない状況だったので、ヴァン・ヘルシングは驚きを隠せず、我を忘れてまじまじと車内の豪華な装飾を眺めてしまったのは言うまでもない。

 客室に入ると豪華な個室となっており、奥に大きな窓とビロードのカーテン、その前にテーブルがあり、その上に白熱電球のランプが置かれている。そしてテーブルの右側にふかふかの上質な二人掛けのソファーのような座席がある。どれもこれも高価なものだと分かる。左側のクローゼットのような扉を開けると洗面台があり、お手洗いは各車両に1つずつ設置されている。

 ヴァン・ヘルシングは自然と表情をニヤけさせてしまった。

……また、こんな豪華列車に乗れるとは……。なんと、素晴らしい。オリエント急行。

 

 列車がケルン駅を出て間もなく、客室の扉がノックされた。失礼します、と入ってきたのはスチュワードだ。

 スチュワードは礼儀正しくお辞儀をして、ヴァン・ヘルシングと伯爵に告げた。

「お食事の用意が出来ましたので、食堂車の方へどうぞ」

「ああ、ありがとう」

 ヴァン・ヘルシングが返すと、スチュワードは再度お辞儀をして客室を後にした。

「さて、俺はもう空腹だ。食堂車に行くとしよう……」

 ヴァン・ヘルシングはよっこらしょ、と立ち上がると、伯爵を見下ろした。

「ヴラドはどうするんだ?」

「もちろん、俺も行くぞ?」

 伯爵がすくっと立ち上がった。

「どんな料理が出るのか、興味があるのでね?」

「そ、そうか……」

 ヴァン・ヘルシングは室内の着類などが入ってるトランクや、鞄――いつもの鞄二つ。中身が吸血鬼退治の道具や手術道具なので、鍵は掛けてある――を座席の脇や上にまとめると、客室を後にした。このあとスチュワードがやって来て室内の座席をベッドメイキングしてくれることになっている。

 食堂車に入るとまるで高級レストランのような光景が広がっていた。

 足元には上質な絨毯が敷かれ、壁には、窓と窓の間に繊細な木の彫刻が施されており、天井には細やかな美しい模様が描かれて、中央にはキラキラと輝くシャンデリアがぶら下がっている。

 ヴァン・ヘルシングはまたもや呆然と、目の前の光景を眺めた。伯爵がヴァン・ヘルシングの目の前で手を振っても、彼は瞬き一つもしなかった。

「エイブラハム……?」

「……ああ! すまん」

 ようやく我に返ったヴァン・ヘルシングは近くの席に座った。その向かいに伯爵も座った。

 少しして運ばれてきたのはフランス料理だ。ヴァン・ヘルシングは自身の胃腸を心配したが――17年前とは体調が違うのだ――、伯爵の料理級に美味しかったので余裕で平らげた。伯爵は料理が運ばれてくる前に霧に化け、姿をくらました――ずっとそこにいたが――。

 食事を終えて客室に戻ると、座席は二段ベッドになっており、中央にはしごが設置されていた。一段目のベッドの上にヴァン・ヘルシングの鞄が置かれていた。

「ヴラド、上と下、どっちにする? 出来れば俺は下がいいんだが……」

「君がはしごから落っこちては大変だからね。上で良い」

「別に落っこちる気はないぞ……?」

 ヴァン・ヘルシングは鞄の横にゆっくりと腰掛けた。伯爵は、はしごを登るのが面倒だったのか、コウモリになると上のベッドに飛んでいった。

 ヴァン・ヘルシングは一息つくと上着を脱ぎ、横の鞄を漁ると注射針と管を取り出した。慣れた手付きで左のワイシャツの袖を捲り上げると、右手に注射針を構え、左の内肘の血管目掛けて刺した。注射針に繋がる管に血液が流れていった。

「ヴラド」

 ヴァン・ヘルシングは上のベッドにいる伯爵に呼び掛けた。するとコウモリがぴょこっと頭を突き出して、ヴァン・ヘルシングを見下ろした。

『何だね? エイブラハム――んん……』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの状況を把握したとたん、口をつぐんだ。

『エイブラハム、何をやっているのだね?』

 コウモリからの問いにヴァン・ヘルシングはキョトンとしたように首をかしげた。

「何って、お前のメシを――」

『ブラム――』

 コウモリはベッドから飛び立つと、ヴァン・ヘルシングの肩に留まった。

『体調を崩すようなことをされると、俺が困る……』

 コウモリはヴァン・ヘルシングの首筋に、毛むくじゃらの頬を擦りつけた。それがくすぐったくて、ヴァン・ヘルシングははにかみつつ、コウモリを心配そうに見つめた。

「だが、お前……。この先、昼間眠れないかもしれないぞ? そうなると、ヴラドにとっては“これ”が――。それにもう刺してしまったんだがな?」

 ヴァン・ヘルシングは含み笑いを浮かべると、注射針から延びる、血液が満たされた管の先を肩に留まっているコウモリに差し出した。

 コウモリ――伯爵は、最近妙に血液を寄越そうとしてくるヴァン・ヘルシングのことが気になったのだが、彼はただとぼけたり、微笑むだけで何も言ってこないでいた。

 耳元でコウモリのため息が聞こえ、コウモリは遠慮がちに管の先を咥え、ヴァン・ヘルシングの血液を食し始めた。

 ヴァン・ヘルシングは、以前は伯爵に吸血される場面を見るのは気味の悪いものを感じていたが、今ではそれにも慣れてしまい、彼はじっと、コウモリが血液を舐めているところを、まどろんだ様子で眺めていた。

「万が一の時は、頼りにしてるからな……」

 ヴァン・ヘルシングの言葉にコウモリは彼を見つめ、瞬きをした。

 

 深夜。客室内はテーブル上のランプの淡い光だけが点いていた。

 列車内には暖房はないため、ヴァン・ヘルシングは羽毛布団に包まりぐっすりと眠っていた。そんな彼をコウモリが静かに、枕元で見つめていた。


 翌日、朝。車窓の外はまだ薄暗く、遥か遠くに見える銀嶺のカルパチア山脈と、薄紫の東の空との間が白く輝き始めていた。

 伯爵は未だに眠っているヴァン・ヘルシングを見下ろすと、彼の赤みのある白髪の頭を優しく撫でた。

「……エイブラハム。朝だぞ……」

 ヴァン・ヘルシングの耳元で静かに言うと、彼がゆっくりとまぶたを上げ、深い青色の瞳を露わにした。

「Goedemorgen【蘭語:おはよう】, Vlad.」

 ヴァン・ヘルシングが寝起きの掠れ声で言った。

「Bună dimineata【羅語:おはよう】, Abraham. よく眠れたかね?」

 伯爵は安堵を含んだように微笑み静かにヴァン・ヘルシングに言うと、手を差し出し、彼をゆっくりと起き上がらせた。

「ありがとう」

 ヴァン・ヘルシングは寝ぼけ眼で伯爵を見上げた。

「もうすぐで朝食の時間だ、エイブラハム」

「……起きないとな……」

 ヴァン・ヘルシングはベッドから立ち上がると、ふらふらとした足取りで洗面台の扉を開け、身支度を整え始めた。伯爵はまだ温いベッドに腰掛けると、ヴァン・ヘルシングの身支度の様子を眺めていた。

 

 食堂車で朝食を済ませ、客室に戻ってくると、二段ベッドはソファー座席に戻されており、その脇にトランクが、上にはヴァン・ヘルシングの鞄二つが置かれていた。

 ヴァン・ヘルシングは鞄をテーブルの下に置くと、窓側の座席に座り、伯爵が隣りに座った。

 もうすぐでオーストリアのウィーンに着く。のどかな田園風景や深い森を抜けると、町中に入った。

 ヴァン・ヘルシングはそろそろ下車する準備を始めた。いつものフロックコート、その上に厚手の外套を羽織り、フェドーラ帽子を被った。伯爵も黒いフロックコートにビロードのマントを羽織ると、黒いシルクハットを被った。

 ほどなくしてウィーン中央駅に着くと、少々名残惜しいが二人はオリエント急行を下車し、貨物車から伯爵の長持ちを受け取る――台車に乗せて運んだ――。

 列車を乗り換え、目的の土地であるスロバキアを目指す。

 





※ジョン・ポリドリ氏の『吸血鬼』は1819年に短編小説として発表されたもの。レ・ファニュ氏の『吸血鬼カーミラ』よりも“先輩”なのです! 

 私は河出文庫の『ドラキュラ ドラキュラ』で拝読しました。もしかしたら絶版かもしれません。中古でしか見かけないので……。


 ヴァン・ヘルシング教授は、原典第二十五章にて、ジョナサンたちと一緒にオリエント急行に乗ってパリを出発している。きっとゴダルミング卿とクインシーというお金持ちの二人がいたから乗れたのかも……。

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