4 ハンガリー王冠領スロバキア、チェイテ村へ(チィエテ村滞在1日目)
オーストリアのウィーン中央駅から列車を乗り換え、ハンガリー王冠領スロバキアのブラチスラヴァ駅を目指す。
1時間ほど列車に揺られ、スロバキアのブラチスラヴァ駅に着いた。
列車を降りると貨物車から伯爵の長持ちを受け取り、ブラチスラヴァ駅を出た。どんよりとした寒空の下、駅前で一台の辻馬車を止め、チェイテ村へと向かう。伯爵の長持ちは馬車の屋根の上に乗せている。
駅を離れていくと、辺りはのどかな農村地帯が広がり、時折、収穫を終えたぶどう畑や小さな教会が見えた。
チェイテ村内部に入っていくとオレンジ色の瓦屋根に白い壁の民家や教会の建物が目立ち始めた。
町の中心部にある集会場に着くと、建物の前に少々ふくよかな茶髪の男性と、その後ろに数人の男性たちが立っていた。
ヴァン・ヘルシングと伯爵は馬車を降りた。
男たちはヴァン・ヘルシングと伯爵の姿を捉えたとたん姿勢を正し、おずおずと歩み寄ってきた。
「Sind Sie Dr. van Helsing?」
茶髪の男性がハンガリー語訛りのドイツ語で尋ねてきた。
「あ、ハンガリー語で構いません。オランダから参りました、ヴァン・ヘルシングと申します」
ヴァン・ヘルシングは帽子を脱ぎ、ハンガリー語で茶髪の男性に言うと、相手は少々安堵した様子で胸を撫で下ろした。
【20世紀初頭は、スロバキアはまだハンガリー領だったため公用語はハンガリー語だった。外国語としてスロバキア語、ドイツ語を学校で習っていた】
「ありがとうございます。よくお越しくださいました、ヴァン・ヘルシング教授。私はチェイテ村の村長、ゼマンと申します」
ゼマンは礼儀正しくお辞儀をすると、ヴァン・ヘルシングと握手を交わした。そしてヴァン・ヘルシングの隣に立つ伯爵を見上げた。
「そちらの方は……?」
ゼマンに問われ、伯爵も帽子を脱いだ。
伯爵の赤い瞳や、唇からのぞく尖った二本の犬歯を目の当たりにしたゼマンは目を見張った。
「余は彼の助手で、ヴラディスラウス・ドラクリヤという」
伯爵はハンガリー語で挨拶をすると、右手をゼマンに差し出した。
「……教授の助手さんでしたか」
伯爵とゼマンが握手を交わすと、ゼマンは伯爵の手の冷たさと握力に肩をびくつかせたのであった。
ゼマンたちに、村の中心にある教会の近くの宿に案内され――伯爵はヴァン・ヘルシングに“お入り”、と言ってもらった――、一息つくと、ヴァン・ヘルシングは身支度を整えた。伯爵は長持ちの中でしばし休憩とした。
伯爵には日没前には戻る、と告げたヴァン・ヘルシングは早速、娘たちが行方をくらませる前に訪れていたという、貴族の屋敷に馬車で向かった。屋敷はチェイテ村の北西の外れにあり、すぐ後ろには暗い森が広がっている。屋敷前の錆びた大きな門にはいくえにもツタが這い、南京錠で施錠されていた。
ヴァン・ヘルシングはゼマンから予め受け取っていた鍵で門の南京錠を外し、小さく息を整えると恐る恐る敷地内に入っていった。敷地内は無造作に生えた、枯れた雑草が背高く地面を覆い、古めかしい屋敷にもツタが這い、窓ガラスは割れ、不気味な雰囲気を醸し出している。
その時ふと、黒く生い茂る森の向こう、小高い丘の上の古城に目が行った。
……あれが17世紀、バートリ・エルジェーベトが幽閉されていたという、チェイテ城か……。
チェイテ城の方も気になるが、先ずは目の前の屋敷だ、とヴァン・ヘルシングは改めて、屋敷の玄関の、大きな観音開きの扉を開け放った。屋敷内は、まだ昼間だというのに夕方のように薄暗く、辺りは埃やカビの臭いが漂い、ヴァン・ヘルシングは思わず手で口元を覆った。
……息が詰まりそうだ。
臭いのせいか肺が苦しくなった。
玄関の扉を潜ると目に入ったのは広々とした玄関ホールだ。足元の深紅の絨毯は所々裂け、床が剥き出しになり、天井には硝子細工のシャンデリアが、埃や蜘蛛の巣を被ってぶら下がっている。壁紙は無残に色褪せ、端の方から大きく捲れ、だらりと垂れ下がっていた。
玄関ホールの両側に2階へと上がる階段があるのだが、その壁には額縁がところ狭しと飾られていた。ヴァン・ヘルシングは物音を立てずに慎重な足取りで、階段を上りつつ額縁の絵を眺めた。絵画はどれも違う人たちの手で描かれたものに見えるが、描かれている場所や人物――茶髪に、深紅の中世期のドレスを身にまとった貴族の女性――だけは全て同一の場所、人物だということが分かる。描かれた時間も夜のようで、女性の背後に描かれている窓の外は夜だった。どの肖像画の女性も官能的な目つきで、不思議な雰囲気を醸し出していた。
まるで、こちらをじっと見ているようで――。
ヴァン・ヘルシングは呆然と長い時間、一枚の肖像画に魅入っていた。
……なんと美しい女性なのだろう……。
――キスして。
「えっ……?」
一瞬、誰か、女性の声が聞こえたような気がしたのだ。その時、開けっ放しにしていた玄関の扉がバタンッ! と勢い良く閉まる音がした。ヴァン・ヘルシングは音に飛び上がったかと思えば、辛そうに顔を歪ませ胸を押さえた。
「うぅっ……はあ……」
呼吸を整え、ゆっくりと玄関の方に振り向き、状況を確認すると大きく息をついた。
「風か……」
その時、目に入ったのが、割れた窓の向こうの夕日の色だった。
「まだ、昼間のはず――」
そう言いつつ上着のポケットから銀製の懐中時計――月日が経ち、黒ずんできてはいるが、健在だ――を出して現在の時刻を確認すると驚愕に目を見張った。
「えっ……? もう午後の3時だとっ? 日没まであと1時間しかないではないかっ! だがっ……」
ヴァン・ヘルシングは自身が今体感した不可思議な出来事について、屋敷内をキョロキョロと見渡しながら考えた。
「私がここに来たのはまだ正午前だったはず。私は……あの絵にずっと……」
ヴァン・ヘルシングは再度、魅入ってしまった肖像画を見つめた。どうしてか、ヴァン・ヘルシングはその肖像画に両手を伸ばしていた。
ずっと見ていたい。“彼女”を見つめている間だけは“日々の苦痛”から解放される。そんな感情が湧き出てしまっていたのだ。
ヴァン・ヘルシングは無意識に肖像画を外し、脇に抱えると、何事もなかったかのように屋敷を後にしてしまった。
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