11 “女”の戦い(チェイテ村滞在4日目)

 翌日、未明。午前2時頃。

 漆黒の夜空にはぽつんと月が輝いており、それ以外の明かりは、民家の窓からもれ出る火の明かりだけで、チェイテ村を淡く照らしていた。

 そんなとある民家にて。

 薪ストーブの薪がもうすぐで切れそうになり、独り夜遅くまで起きていた娘が薪を補充しようと、ニンニクをぶら下げていた玄関の扉を開け放った刹那、眼の前を深い霧がよぎっていった――。


 午前2時半頃。ヴァン・ヘルシングと伯爵が泊まる宿にて。

 ヴァン・ヘルシングは布団にしっかりと包まり、深い眠りに落ちていると、遠くからブラム、と伯爵の声が聞こえたような気がし、ゆっくりと目を開いた。

「……ヴラド……?」

 ヴァン・ヘルシングは寝起きの掠れ声で伯爵を呼んだ。

 視界がはっきりし、目の前で伯爵がヴァン・ヘルシングの顔をのぞき込んでいるのが見えた。

「ブラム、予期せぬことが起きたかもしれん……」

 伯爵は険しい表情で、静かに言った。

「……予期せぬ……?」

 ヴァン・ヘルシングがベッドから起き上がった直後、部屋の扉が勢いよく叩かれた。

「教授! 度々夜分に申し訳ございませんっ!」

 声の主は村長のゼマンのものだった。

 ヴァン・ヘルシングはすぐさま眼鏡を掛けて身支度を整えると、部屋にゼマンを招き入れた。

 ゼマンの他に中年の夫婦がおり、各々ランタンやニンニクの房を持っていたので、伯爵はゼマンたちに悟られないようにそっと部屋の隅に後ずさった。

 ゼマンたちは動揺した表情を浮かべており、夫婦の女性の方がヴァン・ヘルシングにガバリと迫ると、泣き叫んだのだ。

「ソフィアをっ、娘を助けてくださいっ!」

 その後ろから男性も慌てたようにヴァン・ヘルシングに何度も頭を下げてきた。

「娘を見つけてください! お願いします!」

 ヴァン・ヘルシングは状況を整理しようと、まず女性をベッドに座らせ落ち着かせると、ゼマンに説明を求めた。

「一体何が……?」

「旦那さんの方が、風の音で目を覚ましたようで、玄関に向かうと扉が開いており、家のどこを探しても娘さんが見当たらない、とのこです!」

 ゼマンの説明にヴァン・ヘルシングは目を見開き、ヒュッと息を飲んだ。

「……扉を開けっ放しにしてたのですか?」

 夫婦に問うと、夫婦は揃って首を横に強く振った。

「多分娘は、薪を取りに行こうとっ……」

 そう答えた男性は声を詰まらせ、涙を流した。

「村長」

 ヴァン・ヘルシングはゼマンに向き直った。

「はい!」

 ゼマンは姿勢をピシリと正す。

「前回と同じように、探しましょう。ただし今回は、住民たちにニンニクを忘れずに持たせてから捜索に当たるように伝えてください。あと、馬を一頭、手配をお願いします」

 ヴァン・ヘルシングはそう言いながら上着と外套を着込み、吸血鬼退治道具の入っている鞄を肩に掛けた。その傍らで伯爵も上着とマントをまとい、二振りの剣を持った。

「分かりました」

 ゼマンは力強く答えると、夫婦とともに急いで部屋を後にした。

「俺たちも行くぞ、ヴラド」

「了解した。しかし――」

 伯爵が、先に部屋を出ようとしていたヴァン・ヘルシングの背に問い掛けた。

「どうした?」

 ヴァン・ヘルシングが振り返った。

「何故、馬を手配させたのだね? 俺がいるというに」

「……もしかしたら――」

 ヴァン・ヘルシングは少々後ろめたそうに顔を背けた。

「別行動になるかもしれない。……そんな予感がするんだ」

 ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は、眉を潜めたのであった。


 宿を出るとそこには、ランタンを掲げたゼマンと立派な栗毛の馬が待ち構えていた。

「教授、この馬をお使いください。村で一番人馴れしてるのを用意しました」

 ゼマンは馬の手綱をヴァン・ヘルシングに差し出した。

「これはありがたい。お借りします」

 ヴァン・ヘルシングはそう答えると、馬の首を撫でた。栗毛の馬はとても大人しかった。

 ヴァン・ヘルシングが馬にまたがろうと、鞍に手を伸ばしたところで、横から素早く伯爵が先にまたったのだ。

 ヴァン・ヘルシングはびっくりした様子で伯爵を見上げた。

「おい! 俺が乗ろうとしっ――」

「エイブラハム」

 伯爵がヴァン・ヘルシングに手を差し伸べた。

「行くぞ」

 伯爵の、君主のような佇まいにヴァン・ヘルシングは小さく息をつくと、伯爵の手を力強く握った。

「ああ、行こう」

 ヴァン・ヘルシングの力のこもった声に伯爵は、口角を上げたかと思えば、彼を勢いよく引っ張り上げた。

 体がふわりと浮かんだ感覚になり、ヴァン・ヘルシングは伯爵の前に着いた。

「俺、前か?」

 ヴァン・ヘルシングはきょとんとした様子で、肩越しに伯爵に振り向いた。

「君、背が低いから」

 相変わらず伯爵は、面白おかしそうにニタリと笑っていた。

「背が低くて悪かったな! 行くぞ!」

 ヴァン・ヘルシングはムスッとした表情を浮かべ、鞄を自分の腹に抱えた。

「了解した」

 伯爵はヴァン・ヘルシングの背後から手綱を取ると、駈歩(かけあし)の合図を出し、馬を走らせた。

 二人が向かったのはチェイテ村の北西の外れにある廃屋敷だ。

 馬を走らせ、しばらくして屋敷へと着いた。

 着いた頃には夜空に浮かんでいた月は、黒い雲に隠され、屋敷や周囲の森には霧が掛かり、より一層暗く、不気味に見えた。

 伯爵は屋敷の手前で馬を止めると先に降り、ヴァン・ヘルシングに手を差し出した。

 ヴァン・ヘルシングは決まり悪そうに伯爵の手を取った。まるで自分が王子様に――確かに伯爵は元王子だが――、馬から降りるのを手助けしてもらう姫にでもなってしまったのか? と今さらながら恥ずかしくなってしまった。

 馬から降りるとヴァン・ヘルシングは早速懐中電灯で屋敷を照らした。

「ソフィアさん! いらっしゃいますかっ!?」

 ヴァン・ヘルシングは廃屋敷に向かって叫んだ。だが返ってくる音は、風になびく木々の音だけだった。

「城の方か……?」

「否」

 ヴァン・ヘルシングの問いに伯爵は、静かに答えたかと思うと、スラリと二振りの剣を抜いたのだ。それに驚きを隠せなかったヴァン・ヘルシングだが、伯爵の目線の先に懐中電灯の明かりを向けるとすぐに理解した。

 懐中電灯の明かりの中、バートリ・エルジェーベトと思われる女が立っていたのだ。しかしながら、昨夜ヴァン・ヘルシングによってホスチアを顔に浴びてしまったというのに、その顔にはただれた痕は一切なく、初めて遭遇した時のように目は落ち窪み、肌は土色で、頬は痩せこけ、美しさの一欠片もない。そして霧が、エルジェーベトを覆うように漂っていた。

 ヴァン・ヘルシングは内心焦った。

……まさか、もう吸血された――。

「拐った娘はどこだっ!?」

 ヴァン・ヘルシングはエルジェーベトに向かって叫んだ。

 エルジェーベトは無表情のまま首をかしげると、昨夜のエルジェーベトと同一人物とは思えない、不気味なしゃがれた声で呟いた。

「ム、スメ――」

 その時、エルジェーベトの体がガクリと人形のように、前に垂れ下がったかと思えばスッと顔を上げたのだ。相変わらず不気味な顔色だったが目だけは爛々と輝かせていた。

「娘は、妾の城だ」

 エルジェーベトは先ほどとは違う、響き渡るような艷やかな声で答えてきた。

「今頃妾の下僕たちが娘を拷問器具に入れている頃だろうっ! あっはははっ!」

 エルジェーベトは声高々に嘲笑うと、のそりのそりと背後の森に向かおうとしたので伯爵が駆け出した。

「今度こそは逃さん!」

 エルジェーベトの背中を捉えた伯爵は剣を勢いよく突き出した。

 剣先は間違いなくエルジェーベトの左胸に刺さり、貫通したはずなのに当の本人は悲鳴一つあげず、首だけをぐるりと伯爵の方に回すと、不気味な笑みを浮かべたのだ。

「そんなので妾は滅びんぞぉ?」

 伯爵は眉を潜めると、突き刺した剣を引き抜き一旦退いた。

……外したのか? この余が?

「ヴラド、一体――うっ……」

 伯爵の元に駆け寄ってきたヴァン・ヘルシングはエルジェーベトの様子を目の当たりにし、顔を引きつらせた。

 エルジェーベトは未だに背中を二人に向けた状態でヴァン・ヘルシングを見るや否や、表情は変わらぬものの、怒りに満ちたような鋭い口調で言い放った。

「よくも妾の美しい顔をっ……! お前は絶対に許さんぞ! あの娘をなぶり殺してやる!」

 再びエルジェーベトが森に向かおうとしたので、伯爵が素早くエルジェーベトの前に立ちはだかった。

「二度でも滅びないというのであれば、貴様が塵になるまで滅多刺しにしてやろう」

 伯爵は再度剣を構えるとエルジェーベトに斬り掛かった。

 エルジェーベトは伯爵の攻撃を避けるどころか、全て受け、その身体は見るも無惨に切り傷や穴だらけだ。それでも出血一つない。

 一体どういうことだ? と伯爵と、離れて見守っていたヴァン・ヘルシングは思った。

 伯爵の剣を喰らっても全く塵になる様子もないエルジェーベトは無表情のまま、余裕ありげに二人を目の前に突っ立っていた。

 ヴァン・ヘルシングは内心焦燥感に駆られていた。

……こうしている間にも、ソフィアさんが、あの屍たちにっ……!

「ヴラド!」

 ヴァン・ヘルシングに呼ばれ、伯爵はエルジェーベトから目を離さずに後ずさり、ヴァン・ヘルシングの元に着いた。

「何だね? エイブラハム」

「俺は先に城に行く」

 ヴァン・ヘルシングの言葉に伯爵は一瞬目を見開くが、やるせなさそうに息をついた。

……やはり、それ以外に策はない、か……。

 伯爵は横目にヴァン・ヘルシングを見下ろした。

「“You must not die.” Okay? My friend Abraham.」

 ヴァン・ヘルシングは、以前ミナ・ハーカーに力強く言った言葉を伯爵に言われて一瞬呆然としてしまったが、挑戦的な笑みを伯爵に向け、答えた。

「Of course! My friend Vlad. You too.」

「Of course. Take it.」

 そう答えると伯爵は、一振りの剣をヴァン・ヘルシングに差し出した。

「You take care of the rest!」

「Okay」

 剣を受け取ったヴァン・ヘルシングは馬の方へと駆けていった。それを見送った伯爵は、エルジェーベトを鋭く見据えた。

「貴様は絶対に許さん。余のものを、よくも穢しおって……」

「何をほざくか、ヴラディスラウス・ドラクリヤよ。“一世紀も前”の遺物よ! あの青い目も、真っ赤な髪も、今やもう妾の物だ!」

 エルジェーベトは無表情のまま声だけを張り上げ、嘲笑うかのように言い放った。

 伯爵はギラリと目を爛々と光らせ、象牙のように白い鋭い牙を剥いた。

「……貴様、バートリ・エルジェーベトではないな? その姿も――」

 伯爵は一呼吸置くと、異様に落ち着き払った口調で尋ねた。するとエルジェーベトは嫌味のこもった調子で返してきた。

「ほう。やはり気づかれていたか。だが……村の者どもは伯爵夫人としか思っていないようだねぇ?」

「ふん。余にとって、貴様がエルジェーベトであろうとなかろうと、どうでも良いことよ――」

 伯爵は鼻で笑うように返すと姿を歪ませた。現れたのは、いつもの黒いドレスではなく、シャツにコルセット、ズボンにブーツ。腰にはベルトを巻き、剣を差していた。黒々とした美しい髪は高く結い上げ、さながらの男装のカタリーナの姿だった。

 伯爵――カタリーナは剣を抜くと、エルジェーベトにその刃を向けた。

「But――“that man belongs to me.”」

 毅然とした態度で言い放つと、カタリーナは剣を構え、エルジェーベトに向かって駆け出した。


――どこまでも広がるような海の青い瞳。黄金色の美しいおさげの愛しい君へ。

 今余は、国のためでなく、君と同じ、青い瞳の彼のために剣を振るっている。

 決して君のことを捨てたのではなく、彼のお陰で君のことを思い出すことが出来た。だから今だけは、彼のことを、愛してることを許してほしい――。




 


※原典の“第三章、ジョナサン・ハーカーの日記”より、ドラキュラ伯爵の言葉。

“This man belongs to me!”

『この男(ジョナサン・ハーカー)は余のものだ!』


 原典“第二十二章、ジョナサン・ハーカーの日記”より、ヴァン・ヘルシング教授の言葉。

“You must not die.――You must live!”

『君(ミナ・ハーカー)は死んではならない。――君は生きなければならないんだ!』

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