第25話
タクシーだと、あっという間なのに、
あえて電車にした。
無駄だと分かっていても、彼をあきらめさせる
時間が欲しかった。
黒い電車の窓に、彼と私が映る。
赤いワンピースを着る私がいる。
この数時間、赤い生霊は鳴りをひそめている。
私の奇行に恐れをなしたか…
…そんなはずはない。
今も見えないだけで、
執拗に付きまとっているはずだ。
皮肉にも、赤いワンピースを着た私に…
駅に着いた。
電車を降りて、彼は私の前を歩き始める。
あきらめさせるアイディアはまったく
浮かばない。
…行った所で、母は会ってくれないわよ!
今日の所はホテルに泊まって。
部屋の修理は、ちゃんとするから…
もはや、お願いする以外に無い。
少し前を歩く彼は、黙ってスナック通りに
入った。
そんな彼に違和感を感じる。
…本当にダメなの!
あの家は!
赤いワンピースに、この靴は似合わない。
彼の言った通りだ。
いつの間にか、右足のスズランの留金が
取れている。
スナック通りを抜け、彼が目の前で
ションベン通りを曲った時、
違和感が確信に変わった。
彼は私の家を知っている。
彼に私の諸々の内情や家の場所などは、
話した覚えは無い。
今思えば、彼の口から寺や墓、
当たり前のように父じゃなくて母が出た時に
気付くべきだった。
足が止まる。
私の家を知ってるの⁉︎
スナック通りで棒立ちの私に彼が気付く。
そして戻って来た。
好きだもの…
彼が言う。
答えになってない!
好きなんて言葉に誤魔化されてはいけない。
彼の来訪を阻止する前に、
はっきりさせたかった。
知ってたよ。
会う前から…
悪びれもせず、平然と彼が言う。
会う前からって、どう言う事?
驚きで声が震える。
彼は、そんな私を理解出来ないでいる。
すすめてくれた人がいたんだよ。
その人が、色々教えてくれた。
彼が答えた。
誰⁉︎…その人
胸の奥で驚きが不安に変わって行く。
誰だっていいじゃない。
ミドリちゃんは、もう俺の彼女なんだから。
そう言って彼が笑う。
誰かが気になって仕方ない。
しかし、誰なのかを彼に聞いたとしても、
彼は口を開かないだろう。
まんまと、まったく知らない誰かに操られている気分になった。
雨が降っている。
軽い雨だ。
粒子が細か過ぎて、気付かなかった。
行くのはやめて。
私の嫌がる事、しなくてもいいでしょ。
そう言う私に、彼は持ち物をすべて奪った理由を語った時と、まったく同じ顔を向けている。
会社に行かせない為とか言っていたが、
単に私が彼をどこまで許すか
確かめたかっただけだったのかも知れない。
お願いだから!
歩き始めた彼の手を取って、叫んだ。
狭いスナック通りをあてもなく歩く男達が、
物珍しげに振り返る。
彼は子供をなだめるように、私が取った手を
握り返して、優しく引き寄せた。
こんな機会でもなきゃ、ミドリちゃんママに
会えないでしょ。
飲もうよ!3人で。
行って会えなきゃ、あきらめるからさ。
雨が降っている。
けれど濡れない。
数少ない街灯の灯りの中で、細かい粒子が
踊っている。
軽い雨とは言え、あの陽射しいっぱいの昼からは思いもよらなかった。
2人とも傘は無い。
このままなら要らない。
嗅ぎ慣れた嫌な臭いが鼻を突く。
彼の会えなきゃあきらめると言う言葉に
手なずけられ、気付けばションベン通りを
歩き始めていた。
まだ早い為か、暗いションベン通りに
人の気配は無い。
人が居たとしても、ろくな輩ではなく
夜のションベン通りが危険なのにかわりない。
墓場を割る長い道は、相変わらず臭くて
不気味だが、母に会わせると言う難題を
除けば、霊など底抜けに信じない彼と2人で
歩く道は、いつもと気持ちが違っていた。
合わせてよ。
そう言って、前を歩きがちな彼の歩調を
合わさせた。
今日の私に防犯ブザーは要らない。
母は会わない。
母に彼と会ってくれなんて言うものなら、
あの使い慣れた杖で、私もろとも
追い出されるだろう。
追い出されたら追い出されたで、
今日の所は何処かホテルを探して
落ち着けばいい。
位牌は2人で飲む事になりそうだ。
ビール、詰め込みすぎだよ。
3人で飲むなんて、万に一つも無い。
重そうなリュックが、気の毒だ。
振り返る彼とリュックを見比べて
吹き出したくなる。
家に着けば、母も私も彼も嫌な思いをするだろうが、覚悟を決めてしまえば気が楽だ。
墓場の一本道なんて、何一ついい所が無いね。
臭いし、不気味だし、無駄に長いし。
ここを通っていたなんて尊敬するよ。
もっと衛生的で健康的な場所に移った方が
ミドリちゃんやママのためになると思うけどなあ。
こんな救いの無い最悪な道の先には、
寺が一つだけで充分だよ。
私にしっかり聞こえるように、彼はブツブツ
独り言を言っている。
ションベン通りの先に、普段なら
見えるはずの明かりが見えない。
明かりと言っても、寺か家のどちらかか、
その両方だ。
いつもなら、ここで明かりが見えてホッとする。
明かりが無いと言う事は寺は留守だ。
まだ早いが、暗いのをいい事に二代目は
好みの女をあさりにキャバクラ通りに
繰り出したのだろう。
母は酒を買いに出たか、昼に飲んだくれて
つぶれているはずだ。
母は…
私の言葉に彼が歩調をゆるめる。
不動産屋が、家を売ってくれって来た時、
母が自慢げに私の事を話していたわ。
男は要らなくて、女の子でなきゃいけないそうよ。
女の子のうちは愛情一杯に育てて、
生理が来て女になったら、
従順な娘に調教するんだって。
男は単細胞のくせに、育つと自立心が強く
なって言う事をきかなくなるから
使えないそうよ。
私を産みわけた母は家に愛されているんだって。
そんな家を手放すなんてバカげてるって
自慢げに話していたわ。
私の話に彼が足を止める。
ミドリちゃんは、
ミドリちゃんママになりたいんじゃない?
だから子供、産みたいんでしょ?
女の子…
だけど、いろんな意味で手遅れだって事も
知っているんだよね。
そう言う彼の顔は暗くてわからない。
帰るだけだ。
ションベン通りも家も母も、何一つ
特別な事ではない。
繰り返す事が生きる事と思っていた。
私が働く限り、母は酒におぼれられる。
私が独りでいる限り、母は家に守られる。
私が生きている限り、母は生きられる。
何も考えずに繰り返す事が、
無駄に時間を垂れ流し、老いて女として
取り返しがつかなくなる事くらい、
とうの昔に理解していた。
けれど、母と一緒に居る事実が考える事に
目をそむけさせた。
隣りで彼が歩いている。
一緒に居れば無条件に安心する。
この何ヶ月間も繰り返された単純な優しさに、
大袈裟かも知れないが、
洗脳されているのかも知れない。
今なら彼に何をされても、
自分の傷口を認識出来ないだろう。
そんな気持ちとは裏腹に、
ただ帰っているだけで呼吸が苦しくなる程
胸が鳴る。
私の身体全体が、彼の来訪を拒んでいた。
かすかな風に葉ずれがする。
うちのヒイラギはおしゃべりだ。
さらし首の生垣が見えて来て、その奥に
輪郭のはっきりしない黒い建物が見える。
玄関はもうすぐ。
明かりはついてない。
後が気になる。
今にも母が、片手に持てるだけの酒を抱え、
ションベン通りを器用に杖を操って、
私達を追いかけて来る様な気がした。
母は勘がいい。
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