第24話



一通り部屋の被害を確かめた後で、

彼がつぶやく。


これじゃ寝れないなぁ。


そんな独り言を言ってるくせに。


泊まって行く?


彼が言う。



部屋に射し込んでいたオレンジ色の陽射しは、

いつの間にか消えていた。

かわりに薄暗い空気が、私の狂行を隠し始める。

彼が動く度に、はがれた壁紙がヒラついた。


二日も家を空ける訳にはいかない。


帰る。


立とうとするが、身体に力が入らない。

ちょっと血を流し過ぎたか…

加えて、ここ何日もまともに食事をしていない事に気づく。

胃に納めた物と言えば、一昨日の雨の夜、

母に切ったキムチをつまんだくらいで、

あとは店でのアルコールだけ。

身体が動かなくなるのも無理は無い。


泊まって行くしか無いね。


寝れ無い部屋と言ったばかりなのに、彼は

そう言って一つしか無い窓を閉める。


母を独りにさせて置け無いわ。


単純な使命感が身体を動かした。



赤いワンピースが落ちている。

彼が買って来た物だ。

それを見て、彼に持ち物を全部奪われている事を思い出す。


似合うよ…きっと。


彼はそのワンピースを手渡すと、

何処にあったのか大きめのパンパンに詰まった

紙袋を持って来る。

中には、私の持ち物全部と新しい下着が入っていた。


ひどい事するのね。


手渡された赤いワンピースを見つめる。


下着や会社の着替えまで持って行くなんて、

ひどいじゃない。


一日中着けていた下着を外に出された事が、

女としてどうしても許せなかった。

彼は私が何に怒っているのか理解できないで

いる。

まるで、ほめられると思ってした事を

しかられた子供のようだ。

涙が出た。

今日の彼は優しく無い。


あきらめないでしょ。


そう言った彼の答えは意外だった。


どう言う意味?


彼のスエットを脱ぎながら詰め寄る。


会社から連絡が来たら、出勤するんじゃ無いかと思って…

ただ、休ませたかっただけだよ。


彼は頼んでもいないのに、モタモタとブラの

ホックに手を掛ける。


何も無いんじゃ、会社はあきらめるしか

無いでしょ。


手柄を褒めてもらおうと待つ子供のように

笑った。

それにしても下着まで持ち出す事は無い。

彼は私の涙の意味を理解出来ないでいる。

彼は人に対する悪意を認識出来ない人間なのだ。


仕事も、男も、自分の中の女も、子供も、

何から何まで、何一つあきらめてないよね。

こじわが増えて、女として終わってるなんて

言いながらさ。


ブラを付け終わると、彼は私の背中から

腕を回し、私の肩にアゴを乗せたまま

悪戯っぽくささやく。


会社はあきらめたのに…

何をあきらめようとして、

あきらめきれなかったのかなあ…


彼が部屋の明かりをつけた。

蛍光灯の冷たい明かりの下で、部屋の惨状が

際立つ。

それを見て涙が止まった。

私は彼にとやかく言える立場に無い。


ごめんなさい。


あやまらずにいられなかった。

彼はそれには答えず、赤いワンピースに着替えた私をしばらくながめている。


やっぱり似合うね。

おしゃれなミドリちゃん。


そう言って、彼は床に転がる口紅を

拾い上げた。


彼の部屋には鏡が無い。

ポーチから小さい鏡を取り出す。

鏡の中にはおしゃれには程遠い、

彼の見馴れ無い酷い顔があった。

帰るだけと言う事もあるが、ミドリを作る気にならない。

彼のおしゃれと言う言葉に甘えよう。

彼から渡された口紅を引いただけで、

鏡をしまった。


靴!スズランの靴!


思い出して入口へ急ぐ。


あった。


安心した。

そんな私を見て、彼が言う。


女物の洋服って高いんだね。

靴までは手が回らなかったよ。


財布の諭吉が消えている。

部長に身体を自由にさせて得た諭吉だ。

そんな理由からか、勝手に使われても何とも

思わない。

むしろ彼に使われて、後ろめたさが

無くなった。


残念だけど、その靴、赤いワンピースには

合わないね。


彼はそう言って、2本目のタバコに火をつける。

しばらく煙をくゆらせた後で、彼は思いついたように、いきなり言い出す。


ミドリちゃんのママって酒が好きなんでしょ。


彼の口からママと言う言葉を聞いて驚いた。

彼の吐く煙の先を追いながら、彼の思考を

探る。


位牌、持って行って飲もうよ!

3人で。


彼は片付けたばかりの冷蔵庫を指して笑う。

あのビールを、彼は3人で飲もうと言っている。

母に会うつもりらしい。


この部屋、心霊スポットみたいに

なっちゃったね。


タバコの煙が、この部屋に巣食う霊のように、

傷ついた部屋にからんで行く。


しばらく、やっかいになっても大丈夫でしょ。


耳を疑った。

彼は私の家に行くつもりだ。

あの母が受け入れるはずが無い。

2人で帰った時の母を思うと、身の毛がよだつ。

何をしでかすかわからない。


急に決められても困るよ。


そう言う私に彼は答えず、

押入れの乱雑なキャンプ用品の中から、

ひと1人入りそうな大きなリュックを

持ち出して、数少ない着替えを押し込み

机の下にはいつくばった。


お寺があって、大きなお墓のある大きな家ん中、位牌を飲むなんて、

見知らぬ仏様だってうらやむさ。

3人で楽しい夜にしようよ。


そう言って、彼は母の顔が刻まれたビールを

リュックに詰め込む。

彼が家に来る事だけはやめさせなければならない。

けれど、この部屋の惨状では、

やめさせるだけの理由が見つからない。

彼は、私が断れない事を知っている。


さあ行こう!

遅くならないうちに。


リュックを背負い込んで、彼が笑った。

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