第23話
ミドリ!
彼の声がした。
彼は期待を裏切らない。
彼が助けてくれる…
意識がゆったりと戻って行く。
視界にヒーローの顔が入ったら、いきなり首に巻き付いて、唇を奪ってやろう。
ドキドキが、恐怖から期待に響きを変える。
けれど…
目に入ったのは、赤いワンピースだった。
…赤いワンピース…
彼は買って来た赤いワンピースを見せようと
自分にあてて広げたまま、部屋の様子に
呆気に取られ、固まっている。
無理も無い。
位牌だらけの不気味な部屋だ。
…おかえり…
私の声で、彼はワンピースを落とした。
何が起こったのか、まったく理解出来ていない様子だ。
彼のこんな顔は初めて見る。
…どうしたって言うの…⁈
彼の口から漏れた。
狼狽る彼の姿は、私のヒーローとは言い難い。
ここで死んだ女の顔と… … …
… … …位牌が… … …
言いながら、うまく説明出来ない自分に
苛立つ。
女の顔とか…
今日に限って、なんでそんな気味悪い事言うの⁈
ここに来たのだって1度や2度じゃ無いでしょ!
彼は興奮気味に、私の言葉にかぶせて来た。
位牌がどうしたって⁈
そう言う彼に、私の話を聞くつもりなど
無いように見えた。
そんな彼のすぐ後に顔がある。
顔は私の死顔から不細工な女の顔に戻っていて、彼の肩の少し後からじっと私を見つめている。
…まだ悪夢の中なのか…
目覚めれば、あの女の顔が見えるはずが無い。
何故見える…
…屍人の顔が…
死ぬつもり⁈
彼が言う。
怒鳴りたいのをなんとかこらえているようだった。
…何の事だ…
私に言って居るのか…
彼は私の腕を握って、私の目の前に突き出した。
彼の持つ私の右手首が切れて、
血が垂れている。
何故か、壁、床、手の届く範囲が、
めちゃくちゃに切りつけられていた。
位牌など、どこにも無い。
かわりに、机の下の冷蔵庫がだらし無く開いて、ビールが全部、投げ散らかっていた。
消毒するよ。
そう言って、彼は近くに転がったビールを拾って開ける。
プシュッ。
プルトップが立ち、
ビールのアルミ缶が鳴る音が、気持ちいい。
彼は私が座り込む畳の上で、ためらい無く
手首の傷口にビールを注ぐ。
黄色い液と細かい泡が本当に消毒している
ように弾けて流れて、
傷口と畳に潜り込んでいく。
よく見ると、
部屋に散らばる全てのビール缶に
理解し難い顔が刻んであった。
どうかしてる!
彼はそう言って押入れからシャツを出し、
適当な大きさに裂いて私の手首に巻き付ける。
救急車、呼ぼうか?
彼の問いに、首を振った。
押入れの横に、お札だらけの隠し戸棚など無い。
壁は切られた所でいくつも壁紙がはがれかけ、畳もあちこち切られた所が埃っぽく
毛羽立っていた。
部屋には所々細かい血がこびりつき、
すでに赤黒く乾いている。
私が居る所だけ、注いだビールが
溜まりを作っていた。
これは待たずして古く朽ちた畳が、吸い込んで消えるだろう。
…私が…やった…
左手がカッターを握っている。
ちゃちいおもちゃのような刃だ。
それに、傷つけた部屋の切り屑が
乾いた血と一緒に固まっている。
手首が切れた右手より、左手の方が血の汚れが酷い。
強く握っていたせいで、開いても
生乾きの血でカッターはなかなか離れなかった。
飲むかい?
彼は床に転がったビールを拾い、
今まで血だらけでカッターを握りしめていた
私の手に持たせる。
そして、タバコを取り出し火をつけた。
タバコを喫う彼を、初めて見る。
落ち着いた風に見えるが、指先がかすかに揺れている。
彼の持つタバコとライターは、きのう会社近くのコンビニで私が買ったものだ。
彼の肩でじっと見ていた女が口を開く。
…後悔するよ…
女の顔にタバコの煙が巻き付く。
煙に女の顔が迷惑そうに、もがいている。
彼が1本喫い終わるのと同時に、
女の顔は消えた。
手首の傷がふさがったのだろう。
派手な血の量に比べて、傷は大した事なかった。
プシュッ。
彼がビールを開ける。
ぬるいけど、いけるよ
1口飲んで彼が言った。
いつの間にか陽射しは低く角度を変え、
オレンジ色に変わっている。
あらためて部屋を見渡す。
夢でも、幻覚でも無い。
カッターの刃を見て…なんとなく手首を切った。
死ぬつもりがあったのか、無かったのか、
思い出せない。
ただ…なんとなく…
傷つき屍人が見えるようになると、
屍人の誘いに抵抗して、手当たり次第に部屋をめちゃめちゃにした。
勝手に手首を切った癖に、
勝手に終わらせるのが嫌になって、
往生際が悪く思い切れないとは呆れてしまう。
やった事は全部、ここの屍人のせいにしてしまうとは、なんとも都合の良い脳みそだ。
これ顔?
ビール缶の傷に気づいて、彼が言う。
あのおもちゃでやったんだ…
彼は転がったカッターを見て、
散らばったビールを集め始める。
…いろんな顔があるけど、これ全部ひとりの顔でしょ…
1つ1つ、刻まれた顔を確かめながら彼が言った。
誰の顔?
彼の問いに答えられない。
誰の顔?
彼が繰り返す。
彼の目の前に、刻んだ顔を向けてビール缶が並ぶ。
集めたビール缶を前に彼が座り込む。
私の答えを待つつもりだ。
ふたりで黙る空気がいたたまれない。
思わず言ってしまった。
母の顔!
彼は飲みかけのぬるいビールで喉を鳴らす。
…位牌に見え無くも無いか…
彼はビール缶をながめてつぶやくと、立ち上がって私の視界から消えた。
すぐに戻って、再びビール缶前に座り込む。
私の化粧ポーチを手にしていた。
位牌には名前が無きゃね。
ポーチから口紅を取り出し、彼はそう言って、書き始める。
ミドリ。
ビール缶に書かれたのは私の名前だった。
…怒ってる?
恐る恐る口にした。
彼は答えず、ビール缶の顔をながめて、私の名前を書いて行く。
怒ってる?
彼は答えてはくれない。
私の名前の書かれたビール缶が増えるのを見て、哀しくなった。
母の顔の隣に私の名前を書かないで!
彼の手元を力まかせに払う。
口紅とビールが転がった。
何があった⁈
おかしいよ!
…昨日から…
そう言って、私の手首を見た後
彼はビールを机下の冷蔵庫へ戻し始める。
おとといの夜、雨の中、酒を買いに行けって言われた。
彼に答える。
そう。
片付けながら彼が言う。
店で坊主がいっぱいお金を使ってくれた。
あえて部長との事は避ける。
そう。
彼が言う。
キャストとゲームして夢中になった。
私が言う。
そう。
彼が言った。
そのキャストが酷い怪我をした。
私が言う。
そう。
彼が言う。
あなたが好きで、会えて嬉しかった。
そう。
彼が言う。
あなたに全部奪われて、ここに閉じ込められた。
ごめんね。
彼はビールを小さな冷蔵庫に全て納めると、
オーバーに一つ手をたたいて、手を合わせた。
ありもしない位牌でいっぱいの隠し戸棚と景色が被る。
優しくないね。
私が言った。
子供が欲しい。
唐突に言ってみた。
彼は部屋の被害を確かめるようにうろうろしている。
…男の子でも女の子でも、そのうちさらって来るよ。
彼が答える。
産みたいの。
私が言う。
彼はちょっと困った顔をする。
いっぱい中出ししてれば、そのうち出来るよ。
彼が答える。
出来たら困る癖に。
私が言う。
彼がニコリと笑う。
もう、出来っこ無いよ。
彼が答えた。
切った手首より、
彼に噛まれた乳首の方が痛い。
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