第19話


数歩、歩くと何屋だかわからない閉店後の、

大きな黒いウィンドウに浮かぶ自分に恐怖する。


化粧崩れして、むちゃくちゃに疲れた顔。

ワンピースは、もはや白とは言いがたいほど

汚れている。

母に買ってもらって、お気に入りだった

ワンピースだが、あれだけキャストに酷評されると着ていて恥ずかしくなる。

おまけに、ワイン染みとサリーのオシッコで

かなり異臭がした。



ここはキャバクラ通り。

朝まで人は、いる。

私とすれ違った何人かが、目をむいて振り返る。

…こんな姿で、彼に会うのか…?

今になって、着替え無かった事を後悔した。


タクシー捕まえなきゃ。


通りに向かって手を上げる。

空車が何台も、目の前を通り過ぎて行く。

まったく止まる気配が無い。

仕方なく、通りに少しだけ身を乗り出してみる。


バカ野郎! 死んでんだろ! クワバラクワバラ…


空車が1台、減速したが、止まらず、すれ違いざま怒鳴られた。

死にたいのか?じゃ無くて、死んでんだろ!とは…


何が何でも止めてやる。

もはや、あの紙切れの魔力に頼るしか無い。

ドライバーが、よく見えるように、ヘッドライトの光の中へ諭吉を突き出した。


どこまで?


あっという間に止まった。


釣りはいらないから。


店から3メーターほどの距離だ。

諭吉の魔力は誰をも、魅了する。


お客さん生きてるよね。

凄まじいカッコしてるから…

着いたとたんドロンして、万札が、葉っぱなんてのはゴメンですよ。


ニヤついたドライバーの目が、バックミラー越しに私を語る。


そんなに私、綺麗?


バックミラー越しに言ってみる。


お客さん、脅かしっこ無しね。

とうとう見ちまったと思いましたさ。

けど、1万円札振ってる幽霊なんて

聞いた事無いし、このご時世1万円くれるなら、幽霊や妖怪にだって、あたしゃあ尻尾を振りますぜ。


ドライバーは、よくしゃべる。



着きましたよ。


キャバクラ通りを外れればこの時間、

何処も似たり寄ったりの暗い景色の中になる。


あたし、綺麗?


もう一度、言ってみる。

ドライバーは黙って自動ドアを開けた。


タクシーを降りる。

深夜の空気が気持ちいい。

ちょっと歩いて振り返ると、

乗って来たタクシーがまだ止まっていて、

ドライバーが消臭剤らしきものを、

ふっているのが見えた。


タクシーを降りた通りから小径に入ると、

大小幾つもある建物が、黒くやすんでいる。

静かだ。

建物の眠りを邪魔しないように、しばらく進む。

突き当たりまで行くと、ひときわくたびれた

アパートが、通せんぼするように建っていた。

アパートの2階の真ん中から、弱い明かりが漏れている。

彼の部屋だ。

鉄に錆止めのペンキを塗ったくっただけの階段を上がる。



ドンドンドン、トントントン、ドンドンドン。


SOS。

モールス信号でノックした。

彼の部屋のドアは、家賃が安い分だけよく響く。


家賃が安いのには、それなりの理由がある。

いわゆる事故物件と言うやつだ。

このアパートは上3つ、下3つの部屋のかたまりだが、今は彼しか住んでいない。

何年も借り手が居なかった為か、一見、

廃墟のように見える。

聞く所によると、下の階の何処かで老人の孤独死があり、上の階は3つの部屋すべてで自殺があったと言う。

彼がこの部屋を選んだのは、下の階は日当たりが悪くて論外、上の階のこの部屋だけ自殺したのが若い女性だったからとの事。

彼に言わせると、幽霊なんてまったく信じないが、化けて出るなら、自分で命を絶った

むさ苦しい男の幽霊より、女性の幽霊の方が

まだましだし、出るかどうかもわからないような下らない理由で、家賃がとんでもなく安いなんて、得だと言う。



お疲れ様。

いつもより、ちょっとだけ早いね。


ドアが開いて、彼が迎えてくれた。

聞き慣れた声が今までの時間に、疲れて、

溺れて、沈みかけた私の女を救ってくれる。


今日は、お洒落だね。

赤いワンピースなんて着ちゃって。

それに、人を連れてくるなんて、珍しいじゃない。


そう言った彼と目が合わない。

私は1人だし、赤いワンピースなど着ていない。


その人、大丈夫?

怪我はしてないよね。

凄く汚れてるし、疲れているみたいだけど、

お風呂壊れていて使えないんだ。

ミドリちゃんより、だいぶ歳上に見えるけど…

ママって事は無いよね。


事故物件に住んで、まったく気にしない彼が、

私を差し置いて赤いワンピースと会話している。

疲れから、初めて身なりを気にせず、化粧も直さずに、ミドリを作る作業を怠ってしまった。

今、彼の見慣れたミドリは居ない。



私、綺麗?


つぶやいてみる。


…綺麗だよ。


つぶやきを聞き逃さず、彼が答える。

相変わらず、目が合わない。


嘘つき!


私は彼に飛びつき、両手で彼の顔を力まかせに押さえつけて、自分の顔を突き出した。


誰と話してんだ!

ここにはボロボロのババアが1人しかいないんだよ!

しっかり見ろ!

これが、お前の彼女の顔だ!

お前の彼女がババアだって事は百も承知で付き合ってんだろ!

これから朝まで、お前は私を抱くんだよ!


私の台詞とは思えない言葉が飛び出す。

何の感情も無いのに涙が流れた。

彼の顔を押さえつけたまま、キスすると言うより、唇に喰らいつく。

目が合った。

音にならない声が、彼の喉の奥から息に乗って流れて来る。

彼の唇に喰らいついたまま、それを一気に吸い込んだ。

ズボンに手をかけて、押し倒そうとすると、彼は慌てて部屋の明かりを消す。

何も見え無い。


…おかえり。


彼の声は優しかった。

彼は闇の中でしか、私を抱かない。

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