第20話
闇の中、彼が私の胸にしがみついている。
私は乳首を吸われるのが好きだ。
彼の髪を、ぐしゃぐしゃにかきむしって、胸に押し付ける。
彼の鼻と口がふさがって、彼は奇妙な声をあげた。
ミドリさん、あなた、まだ女をあきらめて無いようね。
母の言葉を思い出す。
下半身がつながり、女の肉が興奮している。
残念ね。
赤いワンピース着た、お洒落なミドリさんじゃ無くて。
彼は私の胸をむさぼりながら、聞こえ無いフリをする。
…まったく信じ無いし、見た事も無いって言ってたのに…
…生霊と話してたわよね。
彼の手が止まる。
…生霊?…
闇に目が慣れて来たが、彼がどんな顔をしているかまではわからない。
声から察するに、まったく信じ無い彼が今、得体の知れない者を初めて見て動揺している。
その証拠に、私の身体にしがみついたまま、体位を変えていない。
確かにある母の身体を確認している子供のようだ。
いつもと同じ様に抱いているつもりでも、私にはわかる。
彼は私より、ひと回り以上も歳下のオスだ。
オバちゃん、俺と付き合おうよ。
そのまま女、終わらすなんて、もったいないじゃん。
キャバクラ通りで、いきなり声を掛けて来たのが彼だった。
この歳で、歳下の男に声を掛けられるのは悪くないが、声を掛けられるにしても、オバちゃんとは馬鹿にしている。
オバちゃんを少しでも女に近づかせる為、ジタバタしているのだ。
けれど、ハズレてはいない。
無視した。
女が泣いてるよ。
ホーンテッドハウスに行く時は、必ずと言っていいほど会うようになった。
もちろん無視した。
理由は知らないが、夕方からキャバクラ通りをうろついているように見えた。
その日は強い雨が降っていて、小さめの折りたたみしか持っておらず、腰から足元まで不快に濡らしていた。
俺の女になりなよ。
強い雨で見通しの悪くなったキャバクラ通りの端から、突然タイミングを計ったように、強引に折りたたみに割り込んで、私の肩に腕を巻きつけた。
不思議と嫌な気分にならなかった。
彼はすでにズブ濡れで、私もさらに濡れた。
冷たいね。
いつものように微笑みながら、彼が言う。
賞味期限の切れかかった女を、からかっているようには思え無い。
私が冷たいって言ってるの?
初めて彼に答えた。
もちろん雨がさ…
その日初めてホーンテッドハウスを無断欠勤して、彼の部屋に行ってしまった。
彼は優しい。
彼の優しさは、何か目的のあるようなズルさがある。
小娘でもあるまいし、男性経験の極端に少ない私にでもわかる。
けれど、昼夜働き詰めのオバちゃんにとりいった所で、彼に得るものなどありはしない。
ただ息をして、増えて行くシワとシミにおびえながら、母の酒代を稼いでいるような生活に、彼の優しさはしみた。
口にしないだけで、お店のキャストには見えるそうよ。
…私の生霊は後悔だって…
興奮の息に乗せて言った。
彼の息づかいが、いやらしい。
私の声と息は、もっといやらしい。
生霊を作った人は自覚が無いらしいから、案外あなただったりして…
もう話すなと言わんばかりに、彼が下半身を打ちつけて来る。
興奮の波に耐えながら、私は続ける。
なぜ私なの?…
彼は答え無い。
彼からの答えを期待して居ない。
私を夢中にさせて…高くつくわよ…
彼の指と唇が、私の喜ぶ場所を探し出し、器用に動く。
…痛。
乳首を噛まれた。
痛さの中の快感の範囲を超えている。
たまらず、彼の頭を引き離した。
噛まれた右胸が軽く脈打つ。
ジワリと生温かい感覚が、噛まれた乳首に広がった。
女にとって耐えがたい痛みだ。
彼は上体を起こし、私の腰をガッチリと押さえたまま、麻酔代わりに男の欲望を打ち続ける。
彼の動きに合わせて、女の痛みは女の肉欲にのまれて行った。
闇に目が慣れたとは言え、奥まった住宅地の廃墟のような部屋である。
近くに種になるような明かりが入って来ない為、部屋のスイッチを点けない限り、物の輪郭は線でしか確認出来ない。
顔が見える。
私には見える。
彼の顔では無い。
正確には、彼の顔のある場所に、別の顔が見えるのだ。
今朝から生霊に振り回されて、すっかり忘れてしまっていたが、気のせいだろうが何だろうが、私には見える。
ここは墓場より、タチが悪い。
今まで何の違和感もなかった事が不思議なくらいで、自殺した部屋など、変わり者の彼が住んで居ないかぎり、絶対に近づかない。
女だ。
乳首の傷と引き換えに、見えてしまった。
女の顔は彼の顔に貼り付いて、不気味に表情を変えている。
墓場で独り言を言っている屍人とは明らかに違う。
言いようの無い思いが、私の意思と関係無く、関わろうとしている。
この点は、いきなり付きまとった生霊と大差無い。
耐えがたいのは、彼が私の唇を求める際、女の顔が私の唇に触れているように見える事だ。
見る事は無い。
目を閉じてしまえばいい。
目を閉じてしまえば何も変わらない。
いつものように、闇の中で、彼に抱かれて幸せな気分でいられるのだ。
けれど、女の歪んだ苦しげな表情が、目をそらす事を許さない。
その物欲しげで、貧相な顔。
女の顔は、お世辞にも整っているとは言い難い。
どんなに恐ろしい形相をしていたとしても、顔が美しいかどうかなど、普通に判断がつく。
出るなら女の幽霊と言って、この部屋を選んだ彼に、見せれるものなら見せてやりたい。
ブス…
彼の顔に貼り付いた、女に向かってつぶやく。
え?何…。
彼が答える。
女が表情を殺して、ジッと私を見る。
ブス!ブス!ブス!ブス!ブス!ブス!
私の声は良く響く。
彼は訳が分からず、私の声に戸惑ったようだが、いやらしい動きをやめようとしない。
ゴメンね…痛かった?…
私を落ち着かせるつもりなのか、彼は傷つけた私の乳首をそっと口にふくんだ。
女の顔が私の胸にのまれる。
右胸の先端から彼の体温が伝わって、温かい。
それに反して、のみ込んだ女の理解しがたい一方通行の思いが、胸いっぱいに広がった。
もうすぐ、白み始める。
あんな女に邪魔されてたまるか。
…ブス…
闇の中から彼の耳を探り出し、口で覆って、喉の奥から息だけでつぶやいた。
彼を味わう時間は残り少ない。
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