第7話

朝からバタついていたわりには順調に仕事は

はかどった。

終業チャイムには、まだ間がある。

ちょっと早めだが席を立った。

遅刻した上に早めに帰るとは、かなり

後めたかったが、とがめる人は居なかった。

みんな、部長の電話を認識していて、

帰るとは思っていないのだろう。


そう、すぐには帰らない。

これから、小会議室で高収入の仕事があるのだ。

まず、トイレのビデで入念に陰部を洗い、

下着は付けずに小会議室に向かった。


大して大きなビルでは無いのだが、最上階が

会議フロアで、大中小と会議室が設けられている。

すぐ下の階は社長を筆頭に重役達の部屋で構成されていて、各階ごと総務部、経理部、営業部と下の階に続く。

抱かれ慣れた最低男だが、重役達の頭の上で、するとなると年甲斐も無く興奮した。


エレベーターを降りて目の前が、

いつもの小会議室だ。

ここを使うのには、それなりの理由がある。

この部屋だけ元々あったものからか、

壁がしっかりした作りで、後施工の壁が薄い他の部屋に比べて音が漏れにくい。

さらに、行為中でも、エレベーターの前にある事から、エレベーターの開閉で、人の気配を察知できるし、人が来たら来たで、スリルを味わえるとの最低部長の発案だ。


夕方の会議フロアには誰も居ず、

廊下の奥が薄暗くて、かなり不気味だが、

照明を点ける気にはならない。

明るくてはシラける。

薄暗さの中、訳の分からない赤い女の恐怖より、本能的に火がついた女の欲望の方が勝っていた。


小会議室には、その狭い空間には不釣り合いな大きな、はめ殺しの窓がある。

ドアを開けると、昼は、その大きな窓から開放的な空が飛び込んで来るのだが、夕方や夜は部屋の明かりを点けると大きな鏡になって、こちら側を映す。

この大きな窓のおかげで、部屋の中は廊下側と違い、まだ充分、明るかった。


窓に映る自分を確認して安心する。

換気のスイッチを入れたが照明は点けなかった。

部長が来て明かりを点ければ、最低男のおもちゃ箱の完成だ。

明るさと… 鏡と… 鏡の向こうの闇と…

ちょっと古くなったが、まだ充分、要求に答えられる、いやらしいおもちゃの私と…


エレベーターの開く音がした。

終業チャイムには、まだ少し早い。

最低男が我慢出来ずに早めに来たのか?

それは私も同じか…

目の前のドアが開くのを待った。


ドアは開かない。

人の気配もない。

下の階でエレベーターを誤操作したのだろうか…

ドアの向こう側が気になる。


ゆっくりドアを開けた。

この時、今まで窓に映っていた自分の姿が、消えてしまっている事に、まったく気付か無かった。




廊下は、かなり暗い。

奥の会議室に向かって闇は深くなっていて、ところどころ会議室から漏れた夕方の弱い明かりが、それをまばらに切りつけている。

闇の深さが不安を大きくする。


廊下だけでも明かりをつけるか…

薄暗さの中、廊下の照明のスイッチをさがす。

何気に、エレベーターが視界に入った。

その時だった…



…カ …オ …カオ… カ… オ… カ…



悲鳴を口の中で噛み殺して、両手で必死に

口を押さえた。

閉まっているものとばかり思っていたエレベーターの扉が、ちょうど私の顔の幅くらい開いている。

そして、開いている扉の奥から、

赤い女が身じろぎもせず、私を見ていた。

今朝と明らかに違うのは、ボヤけて周りの景色に溶ける首から上に、目だけがあった。

その目には瞳が無く、死んだ魚の目のように白い。

白目だけが、闇に浮いているように見え、瞳が無い分、どの角度からも、私をとらえているように思えた。

今朝、鮮やかに見えた赤いワンピースも闇に溶け、血が乾いた色のように見える。



…カ …オ …カオ… カオ… …カ …オ



エレベーターの隙間から女の声がする。

エレベーターの隙間に女の長い指が掛かり、こちらに出ようと、苦しそうにもがいている。


腰が抜け、座り込んだ。


そんな私を救うようにタイミング良く終業チャイムが鳴り、エレベーターが動き出す。

しばらくして部長がやって来た。


どうしたの?そんな所で座り込んで…


どうしても立ち上がれ無い。


わかってるよ。

ちゃんと払うから。


土壇場でごねていると思われたのか、財布から諭吉を5、6枚引っ張り出し、私に握らせると、そのまま小会議室に引きずりドアを閉めた。


いきなりキスされた。

部長の息が臭い。

こんな男にでも、さっきまで火がついていた女の欲は、赤い女の出現で乾き始めている。

握らされた諭吉の分は楽しませねばならない。

まずは仕事。

わかっていても、女の身体は厄介だ。

壊れかけた気分は元に戻りずらい。

むしろ、理不尽で不可解な赤い女の恐怖でいっぱいになっていた。


ここはホテルより興奮するよね。


夕方の時間は足が早い。

辺りは、だいぶ暗くなっている。

いつもなら、入ってすぐ明かりを点けるのに、部長はスイッチに手を掛けようとしない。


あれ?震えてる?

いいねぇ… そう言うの…


暗さに目が慣れている。

暗さの中に、あの瞳の無い白い目があったらと思うと、警戒し、無意識に震えた。

その憐れな身体に、この男は興奮している。

お金はもらった。

とっとと済ませて、この場を離れるのが賢明だ。


あれ、はいてないんだね…


こんな小細工で、この男が喜ぶのを私は知っている。

部長のズボンと下着を、一気に膝まで下ろし、中心で硬くなっている男を握りしめた。

げんきんなもので、握りしめたとたん、下半身からヌメヌメと女の欲が赤い女の恐怖に勝ち始めている。

これを挿入すれば、赤い女の恐怖から解放されるような気がして来た。

女の性か…


臭うなぁ…

何の臭いだ…

嗅いだ事の無いような臭いがミドリちゃんからするんだけど…

嫌な臭いだ…


部長が言う。

それは、こっちの台詞だ。

部長の息は臭い。


立ったまま、部長の男が後ろから入って来た。

私の身体が、女の欲を確かめ、味わっている。

興奮が思考を止めた。

声が漏れそうになるのを、こらえた。


結婚しようよ。ミドリちゃん…


荒く臭い息に合わせて、安っぽい台詞を耳元で囁く。

結婚なんて台詞で動揺するほどウブじゃない。

部長には妻子がいる。

ノリで言っているのだろうが、私の本気に火がついたら、アンタは終わりだ。

どんな女にでも、妻子持ちが、こんな言葉を口にする時は、家庭も仕事も破壊されるのを覚悟して口にすべきだ。

今日は、諭吉に免じて目をつぶってやろう。


いやらしいねぇ…

明かりを点けるよ。

ミドリちゃんの淫らをみたら、さらに、

興奮しそう…


部長が明かりを点けた。

暗さに慣れたせいか、目の前が真っ白になる。

その途端、勢い良く前に突き飛ばされた。




お前… 誰…


私に言っているのか…

視界と思考が混乱している。


悪い冗談はよして!シラけるじゃない!

そう言うのはいいから!


痛。

突き飛ばされて、つんのめった拍子に、何処かに手を強く掛けたのか、昨日、キムチと一緒に切った指先が開いて、血が床を汚した。

これは、諭吉をもってしても許せない。





バケモノ…


部長が、マジマジと私を見てつぶやく。


…バケモノ…


いい歳した中年オヤジが、ズボンと下着を、だらしなく下ろしたまま、子犬のようにおびえている。


助けてくれ…

女房、子供がいるんだ!

頼む…


数分前に結婚しようと言った男だ。

女房、子供がいるのに、私を金で買った男だ。

部長はおびえながらも、私から距離を取り、

私の隙を見て、ここから出ようとしている。


赤い女の仕業だ。

部長に私がどう見えるのか知らないが、

バケモノは酷過ぎる。

部長と赤い女に腹が立った。

子供の頃から見たくも無い屍人や、タチの悪い酔っ払いを見て来たのはダテじゃない。

今なら、赤い女が、どんな姿で襲って来ても

おびえたりしない。

怒りが赤い女の恐怖を完全に飲み込んだ。

明かりを消せば、白い目の赤いワンピースが

のこのこ出て来るかも知れない。

明かりを消した。


近づくな!助けてくれ!


弱った部長の声がする。

相変わらず、私を見て、おびえているのだろうか…

私には何も見え無い。何も感じ無い。


明かりを点けた。








…ミドリちゃん…


部長が、呆けた顔で呟く。

ズボンと下着が足首まで落ちて、かなり情け無く、動きずらそうだった。

つんのめった拍子に傷口が開いて、半乾きの血で汚れた指先を、部長に優しく含ませる。


もういいかしら…

役に立たないでしょ…


指先が吸われて、くすぐったい。

思えば、乳房はさんざんまさぐられたが、吸わせてはいない。

今の部長には、指で充分だ。


いい子だから、ひとりで帰ってね。

…また…怖い思いするかも知れないけど…


帰り支度を始める部長を残し、さっさと小会議室を出る。

エレベーターホールは真っ暗だ。

小会議室から漏れる明かりを頼りにエレベーターのスイッチを押す。

真っ暗な中、各階の数字が、明るく小気味良く変わるのが嬉しかった。


部長との時間が早く済んだせいで店の時間まで、まだ間がある。

無性に酒とタバコが欲しくなった。

部長に握らされた諭吉を握ったまま、

会社近くのコンビニに入り、酒とタバコを買う。

昨晩、雨の中、酒を買って来いとぐずった母の顔を思い出す。

タバコは、もう何十年も口にしていない。

煙をいっぱいに吸い込んだが、大してむせなかった。

酒は母の好きな缶チューハイだ。

小会議室の明かりがまだ点いている。

その明かりを眺めながらタバコと酒をふくんだ。

1口… 2口… 3口…

飲んでいるうち、小会議室の明かりが消える。

部長も出たようだ。


…いい思いしたわね…


2本目、着けたばかりのタバコを、飲み欠けの缶チューハイのプルトップに挟んで、わざわざ

会社の玄関脇に置いた。

嫌がらせでは無い。

ただ、そうしたかった。

煙が大きく揺れて、見慣れた墓場の線香のようだった。


パンツはかなきゃ。

鞄から下着を引っ張り出し、替わりに諭吉をねじ込む。

人の居ないのをいい事に、スカートをたくしあげ、素早く下着を着けた。

携帯を見るとメッセージが入っている。


今日、来るかい?


彼からだ。


店、終わったら、すぐ行くから、寝ないで待ってて。

ちょうど、帰りたく無い気分だったの。


メッセージを返して、店に向かった。



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