第26話
玄関を目前にして、さらし首の生垣で
立ち止まる。
ヒイラギを軽くなでると、濡れて気持ちいい。
雨が降っている。
軽い雨粒が彼のまつ毛に乗っている。
彼はそれに気付かない。
私にも乗っているのだろうが、
一番近くの街灯は彼全体と私の足元しか
照らしていないため、彼には見え無いはずだ。
地面はまったく濡れていない。
空気はかなり湿っている。
本降りになるかも知れない。
会えない時は、あきらめるって
約束したわよね。
彼は目をむいて夜と家の輪郭を探している。
誰かから聞いて家の場所は知っていたのだろうが、実際見るのは初めてなのだろう。
夜の低くく黒い部分が、私の家だ。
初めて見る人は平屋の大きさと長さに驚く。
土地の広さから言えば、向かいの寺より
私の家の方がはるかに大きい。
ここに向かいの二代目は、坊主バーを作ろうとしているのだ。
母が聞いたら怒りで寺に火でもつけかねないが、私は嫌いじゃない。
約束だからね。
念を押したが、彼は生返事して
まだ家の輪郭をおっていた。
生垣が切れて玄関に着く。
着くやいなや、彼は玄関前にガシャリと
リュックを置いた。
かなり重かったのか、両肩を落ち着き無く
回している。
玄関に手をかける。
鍵はかかっていない。
引き戸方式でガラガラと年代物の音がした。
母の靴がある。
杖が転がっている。
話してくるから、待ってて。
そう言って玄関の明かりをつけた。
パシャリ、パシャ、パシャ…
いきなり彼が携帯で写真を撮り始める。
フラッシュが長い廊下の奥までとどく。
廊下の奥が母の部屋だ。
いきなり何するの!
あわてて彼の腕をつかんだ。
記念だよ。
ミドリちゃんの家に2人で来た記念。
人の家を勝手に撮るとは、無神経にも
程がある。
大人しくできないなら、
今すぐ帰ってもらうわよ。
彼はバツ悪そうに、母の杖を片付け
腰を下ろした。
玄関にありがちな、無駄に大きい置き物の
ように。
母は酔い潰れているのだろう。
どこで寝ているのかわからない。
部屋の明かりをつけたいが、
明かりで起こして機嫌を損ねるのは
得策ではない。
玄関の明かりだけで、母を探すことにする。
家は玄関から一直線に長い廊下が続き、
廊下の先、一番奥は突き当たりになっていて
貼り付けたようにドアが見える。
ドアから先は別棟のようになっていて、
ここから先が母の部屋だ。
古い和風の家なのに、母の部屋の入り口だけ
洋風のドアなのが違和感を感じる。
中は記憶に無い。
できれば入りたくない。
他の部屋で酔い潰れていてもらいたい。
廊下に向かって左側は障子が奥まで続く。
ここは襖でいく部屋にも区切られては
いるものの、もとはばか長い一間である。
私の部屋もここにある。
廊下の中程向かって右側には台所、
さらに進んだ右側には浴室がある。
窓はあちこちにあるのだが、夜は明かりを
つけないかぎり外から入る光はない。
近くに複合施設ができたわりには不思議だ。
家は夜に溶け込む。
いるの…?
玄関側から近い襖区切りの部屋を廊下に沿って
障子を開けながら声をかけて行く。
奥に進めば進む程、
暗くて目が効かなくなるのだが、
そこは自分の家である。
目が効かなくても、あらかた物のありかや
部屋の様子はわかる。
それに、ジワリと目が闇に慣れてきた。
右手に台所。
さすがにここで寝ているとは思えない。
嫌な臭いがする。
思えば、家を開けてからずっと漂っていた。
ションベン通りの臭いでは無い。
生まれてこのかた、ションベン通りの臭いが
家までとどいたためしはないのだ。
また何か腐らせたか…
冷蔵庫を開ける。
一昨日、切り残したキムチの強烈な臭いが
全ての臭気を飲み込んだ。
せめてラップくらいはするべきだった。
冷蔵庫の中身は一昨日かたずけたままになっている。
冷蔵庫の明かりがテーブルに届く。
テーブルの現金が手付かずのままだ。
酒を買いに行かなかった事に腹を立てて、
私の金になど触りたくも無いのだろう。
母は私の知らないところで、
金を隠し持っている。
その気になれば何でも買える。
けれど自分の金は使わない。
使わないからと言って、私に残してくれている訳ではない。
かりに死んだとしても、
浴びるほど飲んでいたいからだそうだ。
あの世でも、結局ものを言うのは金だと
母は堅く信じている。
あの世に送金できる方法があるなら
教えてもらいたい。
自分の金を使ったとすると、
よほど腹を立てているのだろう。
彼に会わせるハードルが、べらぼうに
高くなる。
間違いない。
母は母の部屋にいる。
この時、キムチを切り分けた包丁が無い事に、気付かなかった。
玄関の様子をうかがう。
弱い明かりだが、彼が良く見える。
待ち切れないのか、
いつのまにやら彼はリュックを持ち込んで、
ぬるいビールを空けている。
こっちが気になるのか、
様子をうかがうそぶりをしているが、
彼からは暗くて見えない。
…リ …エ …リエ… リ… エ…
頭の中で女の声がする。
…カ …オ …カオ… カ… オ…
母の部屋の前に立った。
…
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