第27話
軽くノックして声をかける。
ちょっといい?
居るんでしょ。
返事がない。
開けるわよ。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと引く。
開けた途端、ものすごい悪臭が鼻や口の感覚を
奪い、咳が止まらなくなった。
…彼が来てるの…
喉を絞り、やっとの事で言葉にする。
何を持ち込んだらこんな臭いになるのだろう。
闇の中、部屋の中央で
母が横になっているのはわかる。
反応はない。
…リ …エ リエ… リ… エ…
女の声が頭に響く。
…カ …オ …カオ カ… オ… カ…
リ… …エ リエ… リ… エ… オ…
カ… …エ …リ… … … … …
部屋の明かりをつける。
つけた途端、闇に慣れた目が白く傷つき
しばらくまぶたを開けれなかった。
明るさの中、一昨日無くした母の写真が
落ちている。
相変わらず視線が合わない。
やっぱりここにあった。
若く美しい母の写真を拾い上げ、ワンピースの
ポケットに押し込む。
写真の母も赤いワンピースを着ていた。
母の部屋に入るのは初めだ。
…なぜ…
すぐに部屋の明かりをつけれたのだろう…
悪臭で咳き込み、まともに呼吸ができない。
悪臭で涙が流れる。
目をろくに開けていられない。
息を止めながら、急いで窓を開けた。
外に向かって深呼吸。
この窓からは、さらし首の生垣越しに遠くまで墓場しか見えない。
雨が降っている。
窓から湿った空気が流れ込み、
悪臭と混ざり合って行く。
部屋の明かりで、軽い雨粒が私や部屋の
あちこちや横たわる母に乗り
濡らしていくのが見える。
窓際で呼吸を整えながら、
ぼんやり母の部屋を見渡す。
…何もない…
私を産みわけて、この家に愛されている者の
部屋とはとうてい思えない。
少し大きめのこの窓から墓場が見えるだけの、
まるで座敷牢だ。
母がこの部屋に入れたがらなかったのは、
父を語りたがらない理由から
人の目を盗んで父の遺体の一部か全部を
隠し持っているのかと思っていた。
寂しい部屋だ。
酔ってでもない限り、
まともな神経ではいられない部屋だ。
悲しい部屋だ。
どんな気持ちだったのか、目の前の母に
聞いてみたい。
無駄だ。
母は酔いつぶれている訳じゃない。
母は死んでいる。
死んでも母は見苦しい。
ジャージがめくれて、
上はシミだらけの背中がむき出しになり、
下は下着と一緒にかろうじてデカイ尻に
引っかかっていた。
右手には空の缶酎ハイのアルミ缶が、
つぶれて固く握られている。
母らしい。
うつ伏せで顔はわからない。
あえて見る事はないだろう。
床は古い板張りで、
母の横たわる胸のあたりを中心に
墨汁をこぼしたように
黒く広がっている。
まるで母の血が、
私が近づくのを拒んでいるように見えた。
母は死んでいる。
それはわかる。
けれど、どこかで認めていない自分が
思考をむしばんで行く。
わけもなくポケットにねじ込んだばかりの
母の写真を取り出し、
写真と死骸を見比べながら生の痕跡をさぐる。
私の中の時間がとまる。
実際は数秒間だろう。
無駄だとわかって、再び写真をポケットに
もどした。
悪臭は湿った空気に追いやられ、
まだかなり不快だが
普通に呼吸できるようになった。
切った手首の傷口でも、この場で開けば
都合良く屍人の母が現れて
何か語ってくれるだろうか…
…今はいらない…
…今は彼が居る…
霊でも屍人でも、
説教じみて威圧的な母はいらない。
今の今まで、彼を母に会わせる事を考えて
肝を冷やしていた。
母の死体を前に彼どころじゃないだろう。
もっともな話だ。
異常と思われても仕方ないが
母の死にホッとする程、
私の女の部分が追い詰められていた。
彼が来ているの!
会ってちょうだい!
玄関で待機中の彼にも聞こえるように
大声で言った。
缶酎ハイじゃないけど、ビールをたくさん持って来ているわ!
3人で飲みましょう!
さあ!起きて!
さらに大声で続けた。
死んだ母に起きれるはずがない。
…背中に視線を感じる。
彼が見ている…
しまった。
この部屋は玄関から一直線だ。
こちらが明るければ、彼から見える。
あわてて部屋のスイッチを切った。
部屋は再び暗くなったが、
かろうじて玄関からの弱い明かりが
とどいていた。
…オ …カ… エ… リ…
部屋が暗くなるのを待っていたかのように、
母の横たわる所で
赤いワンピースが立っている。
いい歳していやらしい…
勝手に男、選んで…
母の声か…
あわてて手首を見る。
傷口は乾いていた。
屍人になった母ではない。
不思議な事に、今まで顔らしい顔の無かった
赤いワンピースに顔がある。
刃のような美しさと正義だけが出しゃばる顔。
写真の母が立っていた。
あたしの許可が必要なの…
…わかるでしょ…
母であって母じゃない。
断じてない。
母は死んでる。
ケガのない私に屍人は見えない。
生霊。
母の姿をした生霊。
いったい誰の仕業だ。
ここ数日、事あるごとに現れ
いっさい顔をさらさなかった赤いワンピースが、大好きな母の写真と同じ姿で立っている。
母の写真と同じ赤いワンピースを見つめ、
写真を見る時と同じ様に気持ちが落ち着き、
美しすぎて涙がでる。
ぐちゃぐちゃに涙を流しながら、
ふと生霊を語る花子さんの言葉を思い出した。
…後悔…
赤いワンピースの手元で何かが鈍く光った。
よく目をこらすと、包丁を握っている。
あれは、私が母にキムチを切り分けた時の
包丁だ。
…オ …カ …エ… リ…
女の声が頭に響く。
オ… …カ… …エ …リ
赤いワンピースと視線が合わない。
写真の母と同じだ。
視線を追って見る。
視線は私を無視して、私の背後に向いていた。
私の後には、長い廊下の先
玄関で待機する彼がいる。
鈍く光る包丁が、ナメクジのように
ヌラヌラと闇をはう。
赤いワンピースが包丁を突き出した。
私じゃない。
やつは彼を狙っている。
…オ …カ… エ… リ… …オカエリ…
女の声が響く。
彼は私にとっての靴だ。
靴さえ履けば、どこまででも行ける。
私に合っていようがいまいが関係ない。
傷つけられてたまるか。
帰って!
彼に向かって叫んだ。
彼からは何も見えないし、何がなんだか
理解できないだろう。
やつから彼を引き離さなければ…
包丁を奪ってやる。
赤いワンピースが突き出した包丁に
触れた瞬間。
手全体に嫌な感触が伝わる。
そして、わけもわからないまま
いきなり真っ赤に焼けた鉄棒を押し付けられた
ような熱さと衝撃が首に食い込んだ。
首から私の命が漏れていく。
勢いよく流れているのは私の血か…
暗くて見え無い。
廊下から探るように近づく足音がする。
彼だ。
来ないで…!
彼に叫んだつもりだが、声になったか
わからない。
首をやられた。
…オ…カ…エ…リ…
赤いワンピース…
…オカエリ…
意識が遠くなる。
オカエリ
頭に響く女の声…
お帰り。
この声は…
私だ。
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