第28話

大人しく出来ないなら、

今すぐ帰ってもらうわよ!


そう言ったミドリの顔は、

今まで見た事も無い程、怒りに震えている。


この家にたどり着くまで、何ヶ月もかかった。

帰されてたまるか。

それにしても、たかがアルコール依存の

老いた母親に声をかけるだけで、

この仰々しさは何だ。

自分の母親だろ。


目尻を下げられるだけ下げ、口をほんの少し開けて口角をあげられるだけあげる。

ミドリの好きな俺の顔。

さっきから変な匂いがするが、余計な事を言ってヘソを曲げられてもかなわない。

ここはミドリの好きなこの顔で、

やり過ごすのにかぎる。

俺が玄関に腰を下ろすのを待って、

ミドリは何やら障子を開けて声をかけ始めた。


べらぼうに長く暗い廊下は、あっという間に

ミドリの姿を飲み込む。

飲んだくれだか何だか知らないが、

母親の部屋があるなら、

母親は母親の部屋に居るに決まっている。

ミドリのやつ、どうにもこうにも、

飲んだくれの母親に会わせたくないようだ。

ちまちまと障子の開け閉めをするのも、

無駄だとわかってやっているに違いない。

今、必死で俺を帰す理由を考えているはずだ。



タバコが吸いたくなった。

ミドリからせしめたのがある。

ここで吸う訳にはいかない。

吸ったら一発アウトだ。

かと言って、外で吸う為にここを離れたら、

閉め出しを食うような気がする。

我慢するしかない。

我慢するのには慣れた。


空気が重く湿っている。

しばらくすれば雨は本降りになるだろう。

リュックが濡れてはかなわない。

リュックを玄関に引き入れた。

タバコを我慢する代わりに位牌を1本。

ビールを位牌とは、よく言ったものだ。

ビール缶に口紅で書いたミドリの文字が、

こすれて、にじんで俺の指先に赤く移る。

ビール缶に刻まれた奇妙な母親の顔を、

力一杯、指で弾く。

俺は、この家にしか興味がない。


…ババァ、出しゃばんなよ…


プシュ。


ぬるい泡があふれて、あわてて泡を頬張った。



開けっ放しの玄関から、

向かいの白いビルが見える。

あれが…寺か…

どう見ても、小洒落たオフィスビルにしか

見えない。

暗くてよく見えないが、あのビルのどこかに

卍マークでも付いているのだろうか…


あそこの住職が、この家を狙っている事を

知っている。

この界隈じゃ有名な酒好き、女好きで、

たんまり金を持っているのだろうが、

この家は渡さない。

とりあえず、ミドリを嫁にして、

名実ともにこの家の主人になるのだ。

籍さえ入れてしまえば、後はどうとでもなる。

ミドリは、ほぼ俺の言いなりだ。

何ヶ月もかけて、母親の呪縛を解いた。

解いたとは言え、俺の執拗なうわべだけの

甘ったるい暗示の繰り返しは、

子供からの母のすり込みに、

ミドリの心を容赦なくズタズタに切り裂く。

その影響か、おかしな行動を取り始め、

あげく手首を切って俺の部屋を

めちゃくちゃにしたのには面食らったが、

おかげで念願のこの家に乗り込む理由ができた。


今夜から、居座ってやる。



おっと、忘れちゃいけない。

ミドリと会った時のルーティン。

ミドリと俺が一緒に居る写真を紹介者に

メールしなければいけない。

今、撮ったばかりの写真を送る。

満足げな俺、けげんそうなミドリ、長い廊下。

よく撮れてる。

普段は隠し撮りして送っているのだが、

今日は調子に乗り過ぎた。

ミドリ家訪問、記念すべき1枚。

メールした。


俺は野良犬だ。

けど、ミドリに関わって環境は大きく

変わった。

俺は運がいい。




あの男に会ったのは数ヶ月前、

金になりそうなネタを探して、いつものようにキャバクラ通りをぶらついている時だった。


時間を持て余しているみたいだね。

一杯おごるから、私の話を聞いてみないかね?


その男はそう言って、いきなり俺に近づいた。

歳は60前後だろうか、高そうなスーツに

高そうな靴。

俺には一生かかっても買えそうにない

高級ブランドの時計。


ただで酒が飲めるなんて、ありがたい。

男の話を聞く事にした。


君の時間を売ってくれないか?

それには少々、条件があるがね。


男はそう言うと、名刺を1枚取り出した。

名刺にはホーンテッドハウス、ミドリとある。


条件は2つ。

1つ目は、ミドリと付き合って結婚する事。

2つ目は、結婚した後、ミドリの実家の名義を君に移して家と建物を私に売る事。


ニヤつきながら男が言った。


簡単だろ。

どう?乗るかね。


金のありそうなやつの話に乗らない手はない。

2度、3度、うなずいて見せた。


アプローチの時間は1ヶ月。

その間にミドリと付き合えなければ、

そもそも、この話はなしだ。

その間、君には部屋と支度金を与えよう。

事故物件だが、気にさえしなければ、

どおって事ないだろう。

ミドリと付き合えれば、部屋はずっと好きに

使ってもらってかまわんよ。


野良犬の俺に、

犬小屋と金を与えてくれると言う。

失敗したとしても1ヶ月は寝床と餌に困らない。

限定の飼犬とは、望むところだ。


ミドリと関係を持ったら、隠し撮りして

私にわかるようにメールしてくれ。

その日から、彼女に会うたびメールしてもらえれば報酬を支払ってやる。

家に乗り込めば、2倍の報酬を支払うよ。


さらに男はレポート用紙を1枚取り出す。


そこに私の知る限りのミドリと母親に関する事を書いておいたからアプローチの参考にしてくれ。

君がミドリと結婚して、

母親が家の権利を渡さないようなら、

母親は処分する事をおすすめする。

言い忘れたが、その家には面倒な男親は居ない。

母娘暮らしだ。


男は初めて酒に口をつける。

安酒は口に合わないのか、

ちょっとなめてグラスを置いた。


君次第だが、この方法なら多少時間はかかったとしても、確実に私の欲しい物が手に入る。



この男には、あれから1度も会っていない。

男の思惑通り、俺はミドリをものにした。

ミドリに会うたびに報酬は、

指定した口座に振り込まれている。

今日はミドリ宅訪問で、報酬は2倍。

こいつは不動産屋なのだろう。

この家と土地を狙っているのはわかる。

けど、こいつは野良犬の頭をみくびり過ぎだ。

こいつの言う通り、この計画は俺次第なのだ。

この家の主人になるまでは、せいぜい

利用させていただく。

この家と土地の権利を自分のものにしたあかつきには、こいつに限らず、1番高値をつけたやつに売る。

こいつと取り引きするとしたら、

ミドリの母親がどうしても権利を渡さない時、俺にかわって処分してもらう時だけだ。


廊下の先、ミドリを飲み込んだ闇の中で、

時折ガサゴソ音がする。

闇の中、音のゆくえを追う。

何も見えない。


早く出て来い酔っ払いババァ。

ミドリと同様、丸め込んでやる。


1本目のビールが空になった。




家に入った時から嫌な匂いはしていたが、

突然、鼻がもげそうな悪臭に襲われる。

悪臭は廊下の奥から漂っている。

咳き込みながら、たまらず外に出た。


呼吸を整え、頃合いを見て玄関に戻る。

戻った時、廊下の奥で明かりがついていた。

突き当たり、母親の部屋だ。

部屋で何か転がっている。

あれが酔い潰れた母親だろう。

そのまわりで、ミドリが右往左往しているのが見える。

この臭い、ミドリの様子、尋常でない。

声をかけたくなる。

けれど、何が2人を不快にするかわからない。

勝手な行動はつつしむべきだ。

ミドリが声をかけてくるまで、待つ事にする。



彼が来ているの!

会ってちょうだい!

缶酎ハイじゃないけれど、ビールをたくさん持って来てるわ!

3人で飲みましょう!

さあ、起きて!


とうとう観念したのか、

ミドリがだらしなく転がる母親に向かって

俺を紹介している。

とうとうババァのお出ましだ。


おじゃまします。


リュックを引きずり、長い廊下を1歩踏み出した時、突き当たりの部屋の明かりが消えた。


…どうした…


とりあえず紹介はされたのだ。

ビールを引きずって進む事にする。


長い廊下は奥に行くほど、目が効かなくなっていく。

せめて、廊下の明かりのスイッチの場所くらいは聞いておくべきだった。

咳き込むほどではないが、

相変わらず嫌な匂いは漂っている。

ゆっくり進むほかない。


チェッ。


舌打ちした。




帰って!


いきなりミドリの叫び声がする。

俺に言っているのか?

ここまで来て、訳もわからず帰れるか!

突き当たりの部屋は、もうすぐだ。

さらにミドリの声がしたようだが、何を言ったのかわからない。

構わず進む。

ようやく着いた。


おじゃましてます。


なんとも間抜けなあいさつだ。

明かりをつけたい。

壁を探る。

スイッチがわからない。

何かにつまづいた。

嫌な感触が足に伝わる。

必死に目を凝らす。

母親か?

…酔い潰れているどころではない。

まぎれもなく死んでいる。


ミドリ!居るんだろ!


答えはない。

闇に溶け、部屋はかなり広そうだ。

確実にもう1人の気配を感じる。

ミドリは、こいつに声をかけていた。

死体にだ。

頭のてっぺんから脂汗が吹き出し、

顔全体から首にかけて滝のように流れる。

身体中の毛穴が開いて、これから確実に

何かが起こる事を知らせている。


…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…


この臭い。

昨日、今日の遺体じゃない。

とうとうやっちまっていたか…

母親に会わせたがらなかったのも合点が行く。

俺と付き合って、何十年も繰り返し、当たり前だった母娘の関係にひずみができた結果なのか…


…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…


ミドリが母親を手にかけていたとしたら、まともで居られるはずがない。

俺の部屋のあのありさまも理由がつく。

むしろ、正気を保っていた事の方が驚きだ。


…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…


ここはひとまず、引き上げよう。

こうなると何をしでかすかわからない。


…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…ア…


玄関から弱い明かりがとどき、赤黒いワンピースのミドリが、闇から浮かび上がる。

包丁が握られていた。


ポタッ ポタッ ポタッ ポタッ…


包丁から雫のたれる音がする。

血…?


…ア…ア…ア…ア…ア…ア…


身の危険を感じる。

今のミドリはまともじゃない。


…ア…ア…ア…ア…ア…


少しずつあとずさり。


…ア…ア…ア…ア…


赤いワンピースが目の前に迫る。

俺が買ったやつだ。


…ア…ア…ア…


ミドリが覆い被さってきた。


…ア… … …ア… … … … …





携帯の明かりを頼りに、部屋のスイッチを探る。

初めからこうすれば良かった。

明かりをつけた。


母親とミドリが転がっている。

母親は腐乱し始め、数匹のウジが這い回っていた。

ミドリは赤いワンピースから血がしみだしたように血だまりの中心で横になっている。


やっちまった。


ミドリともみあっているうちに…

実感は無いが、服が血で汚れている。

これは不可抗力だ。

女、子供でも、包丁を持って向かってきたら、誰だって、本能的に身を守る。

結果、こうなっちまっただけだ。


お前ら!くたばるのが早すぎるんだよ!


大きく見開いたミドリの瞳が、小さく動いたように見えた。



この家を手に入れるために、

血を見ると屍人が見えるなんてロマンティストに、さんざん自分を抑えて彼女の求める

作り物の優しさを与え続け、ここまで来た。

酒浸りの母親としか知らなかったが、

彼女と付き合ううち、

母娘が互いに理解し難く依存して居るのを知る。

それを引き離そうと、

彼女を俺のいいなりに変えるため、

俺の性欲を愛と偽って注入し続けた。

何ヶ月もかけ、うまくいっていた。


まさか、ババァをやっちまっていたなんて…


ほんの数分まで、ミドリはいつもと変わらなかった。

どうやって正気をたもっていたのだろう。

…そんな事はどうでもいい。

母親を手にかけていたと知っていたら、

とっとと籍を入れておけばよかった。

面倒な母親が居なかったのだ。

籍を入れた時点で、このデカイ家が俺のものになっていたのに…

…どこで間違えた…



おかしくなったとは言え、まさか俺に向かってくるとは思わなかった。

無理心中でもするつもりだったのか…

冗談じゃない。

こんなデカイだけが取り柄の辛気臭い家の中で、腐った死体と年増の好きでもない女と

一緒にあの世行きなんてゴメンだ。



このままでは、この家の主人になる事など、

まったくもって不可能だ。

どうしたらいい…

どうしたらこのピンチを逃がれられる…

アイデアが浮かばない。

腐ったババァの方はいいとして、この状況ではミドリ殺しにされかねない。

これは事故だ。

…家はあきらめて、通報するしかないのか…

冗談じゃない。

あきらめてたまるか。

落ち着け… 落ち着け… 落ち着け…

引きずって来たリュックからビールを取り出し、一気に1本飲み干した。


ビールをたくさん持って来てるわ。

3人で飲みましょう。


横たわるミドリの唇が、かすかに動いた気がした。




あの男だ。

あの男なら、この状況を変えれるかも知れない。

元々、こんなけったいな依頼をして来た男だ。

こんな修羅場、いくつもくぐり抜けて来たに

決まってる。

家を手に入れるため、母親の処分を口にした男だ。

やつならうまく納められる。

やつだって、喉から手が出るくらいこの家が

ほしいはずだ。


部屋の様子を手当たり次第に撮ってメールする。


母親死亡。

腐乱し始める。

ミドリの仕業と思われる。

ミドリ、ハプニングでたった今、死亡。

この状況を回避するいいアドバイスと手助けをお願いしたい。


メールには、こう付け加えた。




雨が降っている。

いつの間にやら本降りになっていた。


プシュ。


さらにビールに手をつける。


クソ!飲まなきゃやってられるか!



ジタバタしても始まらない。

腰を下ろし壁にもたれる。

部屋の空気が入れ替わったのか、俺の鼻がバカになったのか腐臭は気にならなくなった。

図らずも、この状況が3人で飲んでいるようで

バカバカしくなる。

雨音が耳障りだ。


何本かビールを飲み干したタイミングで

メールが帰って来た。


無能め!

GAME OVER


ミドリの死顔が、なぜか満足げに笑っているように見えた。


雨が降っている。

さらに強くなるだろう。


プシュ。


位牌に口をつけ、ひどい苦味と

まったく酔えない自分に気がついた。

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