第39話
今月は、よく人が死ぬ。
この街に寺が1つしかない性格上、
屍人が集まるのは当然の事なのだが…何人、
おくった事だろう。
葬儀屋じゃあるまいし、いちいち数えちゃいないが、男女問わず御多分に洩れず
老人ばかりだ。
この酔っ払うしか能のない街で、あの世への
順番待ち老人がこんなに居たのかと
あらためて驚く。
季節の変わり目だから仕方ないなどと、
遺された者は根拠のない言葉を口にしながら、
大して悲しみもせず、人生を全うした亡骸を粛々と処分する。
それは薄情な訳ではない。
皆が皆、亡骸を前に、労いをもって手を合わせるからだ。
季節の変わり目は雨が多い。
昨日は雨、今日も雨、明日も雨。
雨は降る度に空気が冷たくなって、
街全体が凍える。
今日も、この肌寒さが、どこかの老人の命を奪うのだろうか…
二代目は今日も、見知らぬ老人の魂を送る為、
経を唱える。
下手くそなりに毎日唱えていた経は、
カーミラと会った夜を境に、まったく頭に入らなくなった。
今は、葬式や御勤めの度に、高級な和紙に書いた経を堂々と広げて読んでいる。
坊主としては致命的なのだろうが、
周りの人達は案外気にしてないみたいだ。
カーミラとの夜から、かなりの日数が経つが、
向かいの廃墟は何も変わらない。
カーミラの死体は簡単に見つかり、
犯人を二代目とつきとめて、捜査員が捕縛しに
来るだろうと、内心ビクついていた。
カーミラの死体が今、どうなって居るのか
気になって仕方がないが、様子を見に行く勇気などとうてい持ち合わせて居ない。
カーミラの死霊に自首するなどと苦し紛れに
ほざいたが、そんな勇気もまた全くもって持ち合わせて居ない。
カーミラがまだ誰にも見つからず、
奥の部屋の穴で横たわって居るとしたら、
二代目はかなり運がいい。
あの部屋は、ミドリが母親を腐らせた部屋だ。
カーミラがミドリの母親と同じように、
人目に触れずに朽ちてしまったとしても、
誰も驚かないだろう。
むしろ、いわく付きの幽霊屋敷に箔がつくというものだ。
カーミラの身体が朽ちて身元がはっきりしなくなれば、二代目にたどり着くまでかなり時間がかかる。
二代目ですら、彼女の事と言ったら
キャバクラの源氏名がカーミラって事くらいしか知らないのだから。
二代目は逃げ切れるなんて、鼻っから思っていない。
捕まるのは、警察とカーミラの死霊の
どちらともだと思っている。
今のところ、事件になって居ないようなので、
警察が動く事はないだろう。
けれど、カーミラの死霊が男を盾にした
あの夜に見たっきり、二代目の前に姿を現す事がないというのも解せない話しだ。
二代目は、何の変哲もない毎日を過ごせている。
屍人や位牌、所狭しと本堂に押し込められた
仏像、それらに1日中、何度も手を合わせる
辛気臭い仕事をこなしながら…
人を殺したからといって、二代目は筋金入りの
悪という訳ではない。
どこにでも居る、いい加減で面倒臭がりなだけだ。
人を殺しておいて、魔が差したでは済まされない事もよく理解している。
以前の1日中アルコールの臭いが消えない彼なら、カーミラを手に掛ける事など
なかったはずだ。
恐ろしく変貌した彼女を見て驚くだろうが、
そんな彼女に手を出して、責任を取れと言われれば、望み通り彼女を嫁にして
ホーンテッドハウス(キャバクラ)から
吸血鬼をもらったと、うそぶいていたに違いない。
融通が効かない程、真面目になった事が、
二代目の了見を狭めた。
捕まりたい訳でも、祟られたい訳でもないが、
変わり映えのしない毎日を過ごせる事は、
二代目にとって運がいいでは済まされない。
人を殺して置いて、まるで何のおとがめもないような毎日が、二代目を蝕んで行く。
昼はいい。
ネグレクトだった親父が、檀家を大事にしていたせいで、寺は来客が多く忙しい。
目の前の仕事をこなすのに精一杯で、
余計な事を考える気持ちの余裕などないからだ。
夜はいけない。
目を閉じるとカーミラの首を絞り込む自分と、崩れたカーミラの顔が、
全てを諦めたような目で見つめ返し、鼻血を垂らしている姿がフラッシュバックを繰り返す。
これはたまらない。
二代目は眠れなくなった。
二代目の中で大きく育った恐ろしいカーミラは、今ではあの夜、悪鬼と化したまま一向に現れないカーミラを遥かに超えている。
カーミラに対し、あの時は見知らぬ男を盾にしたが、今は仏像を盾に、本堂で目を開けたまま横になるしかなかった。
そんな毎日で、雨の夜に決まって赤い服の女を見るようになる。
ミドリ宅の玄関先に、傘もささずに立っているのだ。
後ろ姿で顔は見えないが、身長からカーミラでない事はわかる。
雨の夜に廃墟前で、濡れた女が立っているのは尋常じゃない。
カーミラを殺った事で、二代目も屍人が見えるようになったのか…
二代目には、女が生きているのか死んでいるのか、区別がつかなくなっている。
そういえば、カーミラが屍人のミドリを見て、
母親を腐らせた罰で部屋に入れないと言っていた。
屍人のミドリも赤い服を着ていたと言う。
玄関先に立つ濡れた女は屍人のミドリなのだろうか…
生きた人なら、なおの事、不気味だ。
廃墟に入る訳でもなく、ただ濡れるに任せて立っているのだ。
いずれにしても、関わらないよう二代目は細心の注意をはらう。
寺から見かければ、寺から出ないようにし、
ションベン通りから見かければ、スナック通りに引き返して、朝が来るまで行きつけの店でやり過ごす。
雨が降っていたとしても、赤い女はなぜか昼間は姿を現さなかった。
嫌な予感がする。
こんな女に関わると、ろくな目に遭わない気がする。
厄介事はカーミラだけで充分だ。
眠れなくなった二代目は、週の半分以上
スナック通りで夜を明かすようになった。
飲むにしても、キャバクラ通りに入り浸って、
キャバ嬢に食い物にされていた時とは違う。
カーミラとの夜、飲み代を踏み倒そうと思って
入った店が、ことのほか居心地よかったという事もあるが、狭い空間と誰か居るという
安心感が、眠れない二代目の張り詰めた気分をやわらげた。
二代目は、次の日の仕事に支障がない程度の安酒をなめながら、うつらうつら朝を迎えるのが
決まり事になっていた。
二代目は、その日も行きつけのスナックで夜を明かすつもりでいた。
いつものように、ママと客の笑い声を肴に
安酒をあおっていると、ふと、火の始末が気になり始める。
仕事がら、火はしょっちゅう使う。
火の不始末は、寺に限らず致命傷だ。
普段から厳重に気をつけているつもりなのだが、この日に限って線香の始末が気になる。
こうなると気が気じゃない。
二代目が勘定と言うと、ママが、
「今日は早いのね。眠れそう?」
そう言って、素早くカップ酒を温めて持たせてくれた。
寒くなった。
ママが持たせてくれたカップ酒は、
ションベン通りに入る頃には無くなっていた。
何十年も通い過ぎて鼻がバカになったせいもあるだろうが、あれほど不快だった臭いが、
ほとんど臭わなくなった。
ミドリが不気味な事件を起こしたせいで、
酔っ払いの立ションが激減した事や、
闇に潜む不届者も激減したのも大きい。
この街のやつらは、気が小さい。
今や、通りの奥には、寺と廃墟しか存在しない。
ここを利用する者は、墓参りか寺に用がある人と怖いもの見たさの酔狂な連中くらい。
もうそろそろ、ションベン通りなんて名は、
変えた方がよさそうだ。
二代目は足早にションベン通りを寺に向かって急いでいた。
薄暗い街灯の灯りに照らされて、
見る景色が濡れている。
しかし、降る雨を感じない。
街灯越しに細かい粒子が舞っている。
虫かと思った。
知らず知らずのうちに上着が濡れて、身体が冷えて行く。
ママのカップ酒が胃を温めて効いていたせいか、単に酔っていたせいか、店を出て雨に気づかなかった。
雨が降っている。
身体が濡れ冷えが進むにつれて、帰宅の足は
早くなって行く。
傘は持っていないが、あっても無駄だろう。
雨粒が細か過ぎて、空気と一緒に動きに合わせ、身体を巻き込んで濡らしてしまっているからだ。
二代目は霧のような雨粒を、空気と一緒に肺へ納めながら、走り出していた。
白いビル…
…寺だ…
寺が近づくにつれ、廃墟も見えて来る。
近づいた所で、二代目の足が止まった。
…居る…
…赤い…人…
普段ならスナック通りに引き返す。
しかし、今は赤い女の不気味さよりも、寺の線香の方が気になっていた。
大した距離じゃない。
今日ばかりは無視を決め込んで、寺まで走り込めばいい。
二代目は、湿った空気で肺をいっぱいにすると、息を止めて、滑りそうに濡れた地面を蹴った。
小蝿のようにたかって濡らす雨が、
二代目の周りで踊りながら避けて行く。
ザサッ スザッ ザザッ スタッ ズザッ タタッ タッ … … …
二代目の靴音が加速する。
赤い女からとにかく遠い所を走った。
「やっと見つけた。」
女の言葉が、走る二代目の背中に張り付く。
「ここに居れば、いつか会えると思ってた。」
一刻も早く、この場を立ち去りたい気持ちとは裏腹に、足がとまる。
こんな事を言われれば、
相手が屍人だろうが、生身の人だろうが、
確かめずにはいられなくなる。
二代目は息を整えると、振り返り
雨のベールを分けながらゆっくり女に近づいて行った。
ノースリーブの赤いミニワンピース。
生地が薄くて白い下着が透けている。
上着を着ていても冷え込み、しかも霧のような雨が舞う晩である。
そんな夜、廃墟前に薄着の女が立っている。
二代目は初め、屍人が立っているのかと思った。
見知った女が立っていた。
女は正真正銘、生きている。
あどけない顔の唇を紫色にして、二代目が近づくのを待っている。
街灯に照らされた雨は、虫の群れのように
女の全てにたかっている。
女は、服に染み込んだ雨の重さと冷たさを
この薄着全体で感じているはずだ。
けれど、二代目には、彼女の唇の色に反して、寒さを感じているようには見えなかった。
「幸せにはなれたかい?」
二代目が声をかけた。
女はカーミラを殺った夜、成り行きで一緒に逃げた女だった。
「雨の日に見かけたけど、君だったんだね。」
女は黙ったまま二代目を見つめている。
「あんな怖い思いして、まだ、ここをホテル代わりにしてるのかい?」
カーミラの死霊を目撃し、カーミラの死体に一番近いのは、この男女だ。
二代目は、廃墟奥のカーミラの死体が急に気になりだした。
「あの時は、本当に申し訳なかった。
君の彼を化け物めがけて突き飛ばすなんて、いい大人のする事じゃないよね。
今日も彼は来るのかい?
君は見かけるけど、彼は見ないね。」
二代目は精一杯の作り笑顔で、女の様子を探る。
「彼とは、あの後も、ここで会ってるんだろ。
変なものを見つけたり、また、怖い目に会ったりしてないかい?」
二代目は女が何か話すのを待った。
女は黙っている。
黙っていられると、息苦しい。
「…彼は…来ない…」
しばらくして、女の小さい紫色の唇が動く。
「幸せ…に…なれなかった…」
女は二代目から視線を移し、闇に舞う雨をぼんやり追いながら言った。
「吸血鬼に噛まれたせいで、あの夜から連絡がない…」
あの時言った出まかせを、この女まだ、信じている。
「吸血鬼…紹介する…なんて…」
あの色男。
単に、この女に飽きたか、利用価値がなくなったから逃げたのだろう。
やつには扱い安かったのだろうが、妊娠騒ぎを起こされていい加減面倒になったのだろう。
その女は俺じゃなきゃダメなんだ!
やったら気持ちいいが、後悔するぜ
ゴキブリ野郎!
ジョーカー引きやがって!
この女は、あの色男でなければダメなんだろう。
男の語った、幸せって言葉の暗示に縛られて、どこまででも男を追って行くに違いない。
見つければ、二度と逃げられないように両足を切り落としかねない。
そんな女が、二代目を探していたと言う。
しかも、雨の日にあんな格好で。
二代目にとっては不気味で迷惑な事だ。
「あの時、死霊を見れたのは驚きだったけど、吸血鬼なんて居るわけないじゃないか。
君があんまりおびえるから、からかいたくなったんだ。
彼も同じ死霊を見れたとは限らない。
死霊から逃げた時、彼を突き飛ばしたのは
君に暴力をふるっていたのが許せなかっただけさ。
彼も悲鳴をあげていたようだけど、打ちどころが悪かっただけだろ。
怪我したみたいだけど、あの後、すぐ会えたでしょ。
彼に謝らなきゃ」
実際、あの時カーミラに男の反応は薄かった。
二代目と女が見たからと言って、男も見たとは限らない。
「噛まれたのよ…彼…」
この女、まだこんな事を言っている。
「怪我させたのは謝るよ。」
二代目は少々呆れ顔で女を見る。
男に逃げられて、まともな会話ができないのだろうか。
けれど、男があの夜、どうなったのかは、
どうしても気になる。
「会った時…血だらけ…
吸血鬼はよっぽど気持ちいいんだ…」
しばらくは女の妄想に付き合わなければならないと、二代目は覚悟した。
それにしても、寒くはないのだろうか。
雨は女に染み込んで、ワンピースの裾から小さい雫が落ち始めた。
二代目も濡れている。
雨を避ける為、屋敷に入ると言う選択もあったが、そんな気にならなかった。
「そこの黒い染…彼の血よ。」
女はそう言って、玄関の1枚だけ残った引き戸の1箇所を指差す。
女の言う通り、指の形をした染みだ。
他にも黒っぽく血と言われればそれらしい染みがある。
二代目が色男を怪我させたてしても、せいぜい擦り傷程度で済むはずだ。
これが血なら、尋常な量でない。
「血って…彼はどんな怪我をしたんだい?」
「噛まれたの!」
悪鬼や死霊の類いが、直接人を傷つけるなんて、聞いた事がない。
この女が言う事が本当なら、カーミラは生きている。
二代目は屋敷に飛び込んで、長い廊下を走る。
奥の部屋の扉は開いていた。
相変わらず部屋は、暗くて視界がきかない。
足下を探りながら、とにかく前に進む。
穴がある。
穴にあるはずのものがない。
ハハハハハハハッ ハハッ ハハハッ
カーミラは死んでない。
ハハハハハハハハハッ ハハハハッ ハハハッ
警察が来ない訳だ。
ハハハッ ハハハハッ ハハハハハハッ ハハッ ハハッ
死霊のカーミラの祟りなど、あるはずがない。
ハヒャ ヒャ ハハハッ ハヒャャ ハハハハハッ
あの時見たのは息を吹き返したカーミラだったのだ。
ハハ ハヒャャャ ヒャャャ ハハヒャャャ
俺は人殺しなんかじゃない。
ハハハハハッ ハヒャャャャャ ハハハハハハッ ヒャャャャ… … …
二代目の笑い声が続く…
何かしらの理由で、カーミラが男を傷つけたのは事実のようだ。
しかし、二代目にとって、そんな事はどうでもいい。
カーミラが生きていた事に意味があるのだ。
「何がおかしいの?」
部屋を出て二代目が廊下を歩き始めると、
女が立っていてこう言った。
「いい事があったんでね。
本当に君に会えて良かったよ。
今夜はいい夜だ。
君に会ってなきゃ、いろんな事からおびえる毎日を続ける羽目になっていたよ。」
そう言って二代目は、まだニヤけている。
「それは良かったわね…あたしは…あんたのおかげで幸せを…無くした…わ」
女の紫色の唇が動く。
「吸血鬼…は…どこ?」
カーミラの居所など、二代目には知る由もない。
「彼を取り戻すの!
どこ⁈」
この女に冗談は通じない。
男が逃げたのを、二代目と、男を奪った吸血鬼(カーミラ)のせいだと思い込んでいる。
「たくさん血を流すような怪我をしたんだろ。
君に心配かけたくないから、何も言わずどこかの病院に入院して治療しているかも知れないよ。
そのうち、幸せになろうって、ひょっこり顔を出すよ。」
二代目はまだニヤけながら、適当に取り繕った。
女は二代目を見つめている。
「その格好、寒くないかい?
今までも、雨の日ばかり、それで居たんでしょ。
よく風邪をひかなかったね。
病気になっちゃうよ。
彼が元気で君に会いに来た時、君の具合が悪くなっていたんじゃ、幸せになれないでしょ。」
子供をなだめるように二代目が言う。
女の眉間に皺がよる。
二代目をにらんでいるようだ。
「あの日と同じ雨の夜なら…あなた達に会えると思ったからよ。
あんた達に会えれば…彼にも会えると思って…」
二代目のゆるみっぱなしの口元を、女の強い眼差しが引き締める。
「このワンピース…可愛い…でしょ…」
雨に濡れたワンピースは、女の身体にへばりつき、きゃしゃな身体を締め上げているように見える。
白い下着が、赤く薄い生地を通してピンク色に出しゃばっていた。
「…彼の血を吸って…虜にしたつもりだろう…けど…顔の崩れた吸血鬼より、あたしの方が、数万倍、彼に相応しいって事…証明してやる。
…あたしの…赤。
素敵でしょ。
ひと目で彼の目を、覚まして見せる。
…寒くなんて…ないもの…」
そう言えば、あの夜のカーミラは、赤いミニの上下で、神仏をもうらやむ完璧な着こなしだった。
多少、服が乱れていたとは言え、それは抜群のスタイルならではなのだろうが、この女、
崩れた顔以上に、それを気にしている。
同じ赤い服で、カーミラに対抗しているつもりなのだろう。
見た目だけで選んだ服は、暑さ、寒さなど関係なく、男への執着は体感を麻痺させている。
「知ってるんでしょ。
どこに居るの?!」
二代目をにらみつけていた女の目が、
充血していく。
「教えて…」
カーミラが生きていた事は、大きな収獲だったが、この男女がどうなろうと二代目には、
どうでもいい話だ。
まして、この女に、何を言っても通じない。
「わからないよ。」
二代目はウンザリ気味で言う。
「知ってるはずよ。」
「だから、知らないって」
しつこい女に二代目は、強い口調で言った。
「紹介…したんだから…知ってる…はずよね…」
二代目は、女の言葉を聞き流し、
気を取り直して、精一杯の笑顔を作る。
「びしょ濡れじゃないか。
そんな格好で、こんな所に立つのはもうやめて、おとなしく家で彼を待っていたらどうだい。
吸血鬼の居所なんて知らない、俺にも会えた事だし…」
そう言って、二代目は女の前に5万円を突き出す。
今日は財布を持っている。
金は出したが、女をどうこうしようとは思わない。
「さあ、この金で、ひとりでホテルに泊まりなよ。
とにかく、身体を温めてゆっくり寝るんだ。」
金は、出まかせを言った二代目の詫び料だ。
それに、こんな格好で、寺の前をうろつかれても困る。
「さあ、こんな所に居るのはよそう。」
女は、二代目をにらんだまま、突き出された
5万円を握る。
「知らないの…ね。」
二代目をにらむ女の目は、更に赤くなって、
黒目との堺が曖昧になっていく。
棒立ちで行手を阻む女を、
二代目は優しく動かして、玄関に向かう。
女が何かつぶやいた。
「え?」
二代目が聞きかえす。
「知らないなら…用はない。
お前には用はない!」
二代目が振り返った時、下腹部に耐えがたい衝撃がめり込む。
瞬時に衝撃は痛みに変わり、あまりの痛みで息が出来なくなった。
痛みに耐えようと、腹に力を入れようとしたが、力が入らない。
しばらくすると、無意識に膝が折れる。
膝を折った場所だけ温かみを感じた。
血だ。
痛みの中心から止まる事なく、
血が漏れ出している。
両手で押さえて前かがみになる。
小さな傷だが血は止まらない。
あっという間に、二代目の周りは血が広がった。
膝を折って前かがみでは女の顔は見えない。
女の手元だけは見える。
片手に5万円、片手にどこに隠し持っていたのか、小さな刃物を持っている。
玩具のような小さい刃と、それを握った手は
二代目の血で汚れている。
女はすぐに近づこうとせず、
二代目が弱るのを待っているようだった。
身体が動かない。
あんな玩具でも、刺された場所が悪かったようだ。
膝で身体を支えられなくなる。
うつ伏せに倒れかかるのを、何とか仰向けに倒れた。
うつ伏せで、女に背中を向けては
女の攻撃を一方的に受ける事になる。
どこまで抗えるかわからないが、次の女の攻撃に備えた。
腹から血が流れ続けている今でも、
二代目は驚いている。
吸血鬼だなんて荒唐無稽な出まかせを言ったばっかりに殺されかけている。
横たわる二代目の前を5人の諭吉がヒラついた。
女が金を放ったのだ。
「あたしの…幸せ… 5万じゃ足りない!」
女は、二代目が抵抗できなくなるのを見計らって馬乗りになる。
「あんたの命でも足りない!」
女は二代目の胸を浅く刺す。
二代目が意識を失いかけると、新たな痛みで
正気に戻すつもりのようだ。
「簡単に…死なないでね。
幸せ…なくなった…あたしの痛みは…こんなもんじゃないんだから!」
二代目は痛みすら感じなくなった。
街灯の灯りが入って来て、廊下は多少明るいはずなのに、何も見えなくなって来た。
…あんな果物ナイフより、ちゃちい玩具で死ぬのか…
思えば、ミドリからもらった遺言状
(コースター)をたてに、ここに坊主バーを
開いていれば、殺される事はなかった。
カーミラだって、ここが坊主バーなら近づかななったはずだ。
…ジョーカー引きやがって…
色男の言葉を思い出す。
瞬間、忘れていた経が頭に染みて来る。
誰か唱えているようだ。
誰だ。
姿は見えない。
けれど、二代目にはわかる。
聞き慣れた声だ。
人も死人も聞き惚れる上手い経。
顔が半分、欠けたように見える恐ろしい先代。
ネグレクトの親父だ。
…気は進まないが、こんな事になっちまって…わびを入れるしかないな…
…親父の説教…長いんだよな…
…
…
…
二代目は目を大きく見開いたまま、
動かなくなっていた。
サッ ザクッ グッ グクッ ペチャ ザクッ ゴリッ サッ グクッ ゴッ サッ ペチャ ザクッ グクッ サクッ サッ ザクッ… … … …
二代目を刺す音と血に触れる音が、
不気味な廃墟の静けさの上に乗っている。
「…幸せに…なれなかった…
…あいつ…
…散々…あたしをオモチャにして!
…逃げた…逃げた…逃げた…逃げた…逃げた!
あの女に会わなけりゃ…毎日…あいつと…ハッピーバースデーを歌えたんだ!
…許せない…あの女!
スタイルがいいだけの、顔の崩れた女じゃないか!
許さない…許さない…許さない…
何が吸血鬼だ!
…殺してやる…殺してやる… … …」
女は、二代目がこと切れているのにもかまわず、ブツブツ言いながら、小さい刃を突き刺している。
雨に濡れてへばりついていたワンピースは、
二代目の血も吸い込んで、赤黒く変色し、
ピンク色に透けて主張していた下着も
血の色に隠れて見えなくなっていた。
「…死ね… …死ね… …死ね…」
女のつぶやきに混じって、耳をふさぎたくなるような肉や内臓を刻む音がする。
女は狂っているのか…
認めたくないだけで、男が去った事も理解しているようだ。
捨てた男を恨むのが筋だろうが、
女は幸せの対象を恨む術を知らない。
迷子の…迷子の…子猫ちゃん🎵
あなたのお家は…どこですか🎵
女が歌い始める。
相変わらず、耳をふさぎたくなるような不快な
音は続いている。
困ってしまって🎵
雨漏りの音が大きくなり間隔が短くなって来る。
あっという間に本降りになった。
女は何かつぶやきながら二代目を傷つける事をやめない。
本降りの雨は、さらに強くなって屋敷の音すべてをのみ込んで行った。
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