第38話



雨は…降って…いる…の…か…


…感じない… 何も感じない…


感じないのが恐い。


…。


…。


…。


始めは耳だった。

頭の奥で虫がささやくようなノイズが、

わずらわしい。

わずらわしいが、耐えられない程じゃない。

わずらわしさの原因に興味もない。


次は鼻。

鼻の穴が片方だけ、完全に塞がっている。

塞いでいるのは乾いた血だ。

軽く横向きの、うつ伏せ状態が長かった為、

血がゼリー状態に乾いて、まるで、

喉の奥まで詰め物をしているようになっている。

もう一方の鼻の穴も、血で塞がりかかっているが、息苦しい事はない。

そもそも、呼吸をしているのかさえも、

自覚できていない。


口は開けっ放しだった為、汚らしく乾いている。


目は開けているのか閉じているのか、

まったくわからない。

感覚が無いのに加えて、真っ暗だからだ。


喉仏から肩にかけて首全体を、

耐え難く鈍い痛みが巻きつく。


身体が冷たい。

生きているのか死んでいるのか、

区別がつかない程、冷えている。


屍人の集合場所にでも、着いたのかと思ったが、首の痛みが死を否定した。

けれど、生きているとも思えない。

死んでいようが、生きていようが、

この姿はさらせない。

現世(地獄)から現世(地獄)に戻っただけの事か…


まさか二代目に襲われるとは、思わなかった。

しかも抱かれたあとで…


カーミラに二代目を激昂させた自覚はない。

かつてのカーミラは、

怒鳴ったり、罵ったり、何を言ったとしても

男を不快にする事などなかった。

他の誰かが言ったなら、刃傷沙汰になりそうな

酷い言葉も、カーミラの口から放たれれば

男は笑っていられた。

そんな彼女の首に、二代目は手をかけたのだ。

美しい人形のような顔が壊れ、

以前、男に対して使えた能力もまた、

跡形もなくなっていた。


カーミラの時間が止まっている間に、

見知らぬゲストが、紛れ込んで来たようだ。

男女の会話と、彼らの動きに部屋が答える音で、耳の奥のノイズがのまれて行く。


顔を見られる訳にはいかない。

手元にマスクとサングラスなんてない。

もたもたしていれば朝が来る。

とにかく、この場を離れるのが先決だ。


カーミラは身体を起こそうとする。

意外にも身体を起こすどころか、

簡単に立つ事ができた。

この瞬間、カーミラは、今まで味わった事のない恐怖を、自分自身の身体で味わう事になる。


カーミラは立っている。

立っているのに、うつ伏せで倒れている自分が見えるのだ。


立った身体は自由に動く。

しかし、感覚がない。

感じると言ったら、首の痛みと身体の冷たさ、

そして見知らぬ男女の声。

何も見えないのは変わらない。


カーミラに限らず、この状況に恐怖を感じない

人間などいないだろう。


歩こうとした。

歩けない。

身体を入れ替えようとしたが、それもできない。

よく見ると、倒れている身体に両足が、

くっついている。

さらに目を凝らすと、立っている両足首を手が握っているのが見えた。

細くて長い指、小さな掌、明らかに女の手だ。

その手が足首で、うつ伏せの身体と立っている身体とを、つないでいるのだ。


恐ろしくて悲鳴をあげたが声にならない。

音は入って来るが、身体から出る事はなかった。

感覚がない分だけ、恐怖に身体が反応しない。

カーミラの魂だけが、不安で凍りつく。

もがいてみたが、何も変わらない。

仕方なく両足首に食い込む手を片方づつ外す事にした。


カーミラは薄気味悪いのをこらえて、

自分の足をつかんでいる手の指に触れる。


…あれ…この手…見覚え…あ…る…


ガッシリと足首に食い込んでいるように見える指だが、簡単に立てる事ができた。

立てられた指は戻りもせず、立てられたまま、手を開いてもらうのを待っているように思える。


…そうだ…

この手…

…割れたグラスの上でウロウロと愚図る手…

…小さなグラス片をつまむ指…


…ミドリ…さん…


声にしたが、声など出ない。

手は足首から外れ、花が咲いたように掌をこちらに向けていたが、急にうつ伏せに倒れるカーミラの腰に移って引っ張り上げようとする。


ズズルル…


動いた。


うつ伏せに倒れる自分の身体を動かそうなどとは思いもよらなかった。

カーミラは夢中で腰を引っ張り上げる。

うつ伏せの身体は、への字にグスグスと持ち上がって行く。

持ち上がる身体は、足、脚、腰と、立っているカーミラに同化して行き、腹から上の部分がはえているような姿になった。

ここで一旦、同化が止まる。

なんとも奇妙な姿である。

まるでカタカナのトの字のようだ。

むごいのは今、壊れた上半身が2つ、カーミラ自身の身体に存在すると言う事だ。

醜さも2倍、むごさも2倍。

目を背けたくなるような化け物。

足が2本のシャム双生児に近い。

美意識の高いカーミラにとって、この姿は屍人になろうが、幽霊になろうが、耐え難い。


夢か現実か地獄か…

神か仏か悪魔か…

訳がわからないが…ひどい事をする。


カーミラは、自分の腰からはえはような上半身を必死で引き寄せる。

醜い自分は1つで充分だ。

まだ同化は始まらない。

焦りと不安で悲しくなる。


もし、このままだったら、誰かれ見境なく祟る

怨霊になってやる。


腰から下の感覚がゆっくりと戻った時、

引き寄せた上半身が同化し始め、カーミラの不安が払拭して行く。

しばらくして、腹、胸、肩、頭、全部が1つになる。

カーミラは少しだけ安心する。

けれど、醜い事に変わりない。


今までの事が夢であったように、

一気に感覚が戻って来た。


身体が震える。

雨にさらされてズブ濡れだ。

ここまで濡れると死体だって風邪をひく。

不規則に首が痛むが、ゆっくり首を移動する事で、なんとか痛みを誤魔化した。

乾いた口は、いきなり唾液で一杯になる。

出過ぎた唾液は吐き出した。

血が混じっている。

喉が渇く。

鼻血が固まり、鼻は使いものにならない。

口で呼吸する。

あっという間に口が乾いて、

さらに、喉が渇いた。

目は開けているが、視界が広がったとは

言い難い。

真っ暗な部屋をながめているからだ。


いつの間にか、ミドリであろう手は消えていた。

思うに、カーミラの死んだ身体を現世(地獄)につなぎ止めてくれたのだろう。


死ねない。

死んだ方が楽なのは、分かっている。

今、この姿をさらして死ぬなんてゴメンだ。

やりたい事がある。

楽になるのは、それをやり遂げてミドリさんとのゲームに勝った後だ。


雨はだいぶ弱くなったが、棒立ちで震えるカーミラを容赦なく濡らす。

カーミラはなぜ、自分が部屋の外に居るのか

分かっていない。

けれど、部屋に見知らぬ男女が居る事を思えば、それはそれで好都合だった。


数時間、死んでいる間に、身体は錆びついてしまったらしい。

指先1つ動かすにも苦労する。

身体が思うように動けば、顔をかばいながら部屋の人物を無視して、走り去る事も可能なのだが、今のカーミラには無理な話だ。


この男女が帰るまで、やり過ごすしかない。

伏せるのが一番なのだろうが、立ったままの

体制を変えたくない。

下手に動いて、また身体が2つになっては困る。

カーミラは上半身2つの自身のおぞましい姿が

トラウマになっていた。

せっかく生きている事を確認できたのだ。

部屋からここが、どの程度見えるか知らないが

立ったままやり過ごす。



ギィヤアァァァァァァー!!


見つかった。

女の悲鳴。


やり過ごすつもりでいたが、隠れる意識が薄い分、見つかってしまうのも無理もない話だ。

カーミラは部屋の人物に顔をさらす事を覚悟して、ゆっくりと錆びついた身体を前に進めた。


だいぶ目が慣れて来た。

足下に手つかずのビール缶が転がっている。

鼻がダメで口呼吸をしていた為か、口が乾く。

唾液が出ないのに、忙しなく喉が動く。

喉が動くたび、首が痛む。

喉が渇き、灼ける。


どのくらい古いビールか知らないが、

飲んでしまおうか…

殺されても死ななかったのだ…

腐ったビール1本飲んだところで死にはしないだろう…


猛烈に喉が渇く。

カーミラはビール缶に手を出すのをこらえ、

頬をつたって顎から滴る雨を、削げた唇で、

なんとか口に運ぼうともがいた。


部屋に入った。

相変わらず視界が悪い。

白いワンピースが見える。

男の叫び声がして騒がしい。


「よく見ろ!色男!

そんなに殺したけりゃ、俺達の前に、あれを始末して来いよ!」


見知らぬ男女に混じって二代目がいる。

一度殺したくせに、始末して来いとは何て言い草だ。

カーミラはさらに歩き出した。


ギリリリィィィ… ギリィィィ… ギギィィィ… ギギギ…


歩を進めるたびに床が鳴る。

冷え切った身体は小刻みに震えっぱなしで、

濡れた髪から滴る雫を削げた唇で受け止めようと痛む首を動かすが、無情に顎から床に落ちて弾けた。

口が乾いて、喉が渇いて、呼吸するのが苦しい。


「怒っているだろうが、納めてくれ!

明日、必ず自首する。

ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい…!」


二代目が本気でおびえているのが伝わる。

二代目にはカーミラが悪鬼か、怨霊に見えるのだろう。

一度殺されたのだ。

当たり前だ。

わびて済む話ではない。

しかし、今は、灼ける喉を潤す水1杯と身体の震えを納める暖を取らせてもらえれば、すべて水に流しても構わないとカーミラは思っていた。


とにかく二代目を捕まえて、身体の機能を

取り戻す手助けをさせたい。

カーミラを手にかけた二代目には、

それをする義務がある。

カーミラは言う事を聞きづらい身体を必死で

動かし、二代目に近づこうとする。

しかし、ゆっくりと大して歩を進めない。

その姿が二代目には、さらに耐え難く恐ろしい悪鬼に見えていた。


「バッカス!!」


カーミラの足が止まる。


「バッカス!バッカス!

今、酒はねえけどバッカス!

あの日の夜を思い出してくれ!

バッカス!バッカス!バッカス!バッカス!

あの夜、俺は最高のゲストだったはずだ。

君は最高のキャスト。

俺は君を絞め殺したけど、誰もがうらやむ君っていう女を殺した犯人は俺じゃない。

あの夜、君が女でなくならなければ、俺が君を手にかける事はなかったんだ!」


そうだ、その通り。

自分のした事は棚上げにして、嫌な事を遠慮なしによく言えたものだ。


「一度目は、店の連中になぶり殺された。

二度目は、あんたに絞め殺された。

運が良いのか悪いのか、現世(地獄)に戻って来れた。

能書きはいいから、今すぐ、水とサングラスとマスクを取って来て。」


カーミラは二代目に言ったが、声は音にならなかった。


白いワンピースは悲鳴を上げたあと、

座り込んだまま動かない。

この視界の悪い部屋の中で、女がカーミラの顔を、どこまで見れているのかわからないが、

見れていようがいまいが、女に素顔を見られているという事実だけで、カーミラは女を殺したくなった。


カーミラの預かり知らない理由で、

二代目と男が争っている。

その様子を見ながら、カーミラは二代目にイラついていく。


そんな奴に関わっていないで、今すぐ、お前が壊したこの身体をなんとかしろ。


首の痛みと喉の渇きに耐えながら、

震える身体を前に進めるカーミラの足下に、

勢いよく男の身体が転がって来る。

死に損ないのカーミラの身体では避けれない。


ドテッババ。


かろうじて保っていたバランスを崩し、

カーミラは男の身体に覆いかぶさるような形で倒れた。

倒れたカーミラに見向きもせず、一目散に

二代目と女が部屋を出て行く。

こともあろうに二代目は、カーミラの苦境に手を貸すどころか、争っていた男をカーミラ目がけて突き飛ばし、女と一緒に逃げたのだ。

ドタバタと廊下を走り去る音がする。


ゥワワワァァァァ〜!!


覆いかぶさるカーミラの下敷きで、男の悲鳴が床をはって、逃げる二代目と女のあとをおう。


男の鼻先に、倒れたカーミラの顔が迫っている。

むごく傷つけられた顔を目の当たりにして、

悲鳴を上げざるを得なかった。


少なからず女と関わる毎日を送って来た男にとって、ここまでひどく傷んだ女の顔を見た事がない。

加えて、ズブ濡れで小刻みに震える女から、

体温を感じない。


…そんなはずはないが…この女、死んでるのか…


男の思考は混乱する。

思考の混乱は恐怖に入れ替わる。

男はまったく動けない。

二代目の一撃で足を負傷したとは言え、

覆いかぶさった死に損ないの女1人どけるなど、普通なら造作もない事であるが、男は目を背けたくなるカーミラの顔から目を逸らせず、

冷え切ったカーミラの身体は、男の体温を

少しづつ奪っているようだった。


…あっ…あった…か…い…


かぶさったカーミラに男の体温が移って行く。

恐怖で男が動けないのをいい事に、カーミラは少しでも多く暖を取ろうと、仰向けの男の身体の上で、濡れた身体を押しつけてうごめく。

ジャケットやシャツがはだけ上半身が露わになった。

シャツのボタンがすべて取れている。

二代目が引きずった時に取れたのだろう。

ただ、ボタンが取れてしまっていた理由などカーミラは知らない。

カリフラワーのような、いびつな乳房が顔を出す。


「逃げるなんて許せない。

どんな形であれ、付きまとってやる。」


カーミラは、二代目に言うべき恨み言を、

何の関わりもない男の耳元でささやく。

ささやきは壊れた喉を通してかろうじて声になる。

男は訳もわからず、ただ恐ろしいだけでガタガタと震え出した。


「喉が灼ける…

…水…

水をちょうだい…」


カーミラが、男の耳元で再度ささやく。


「…水

水… 水… …水… 水…」


カーミラの下敷きで震える男に、なす術はない。


「水…」


「…」


「…」




ギィィィヤアァ〜ァァァ〜!


男は勢いよくカーミラの下から転がり出た。

両手で耳を押さえている。

押さえた指の間から、血が溢れて、滴っていた。


「…水…が… なけりゃ…

…血… …で… いい… わ…」


カーミラが男の耳に、かぶりついていた。


男はカーミラの下敷きから抜け出せたのを幸いに、なぜか声を発しながら、耳を押さえたまま、足を引きずって部屋を出て行く。


アアアアアア〜アァ…


予期せぬ痛みが、男をカーミラの恐怖から

解放したようだ。


「…血…じゃダメ…

さらに…喉が… 渇く…」


カーミラはゆっくり立ち上がって、歩き出した。

男から体温を奪ったせいか、身体の動きがいい。

時間をかけて、部屋を出て、廊下を歩く。

タバコとライターを見つけた。

男が落として行ったのだろう。

拾って赤いジャケットのポケットに仕舞った。


カーミラにとって気の遠くなるような時間を耐えて玄関にたどり着く。

玄関の水溜りが、カーミラを映す。

詰まった鼻、削げた唇から顎、カリフラワーのいびつな乳房まで血で汚れている。


…吸血鬼…


この様子だと、男は耳にひどい怪我を負ったはずだ。


喉の渇きに耐えられず、カーミラは屋敷に居た全員が踏んだであろう水溜りに、削げた唇を浸して不器用に喉を潤した。



外に出ると雨は止んでいた。


二代目が車に鍵をしていない事を思い出す。

カーミラは寺に向かう。

車は開いた。

カーミラはマスクとサングラスを付けて、

寺の周りをウロつく。

人の気配がしない。

二代目を捕まえて恨み言を言うつもりでいたが、諦めてションベン通りを歩き始めた。


暗さがカーミラにまとわりつく。

身体の震えは止まった。

夜が明けるまでに身を隠し、一度死んだ身体を

癒さなければならない。

脱げかけたジャケットとシャツから、

傷んだ果物のような乳房が顔をのぞかせ、

カーミラの歩きに合わせて揺れた。

ここを離れるなら、ションベン通りを抜けて

スナック通りに出る以外にない。

カーミラの姿は、街灯の少ないションベン通りをスナック通りに向かって、闇にのまれては現れるを繰り返し、最後の切れかかった街灯を潜った後で、完全に見えなくなった。





耳を噛まれた。

耳が灼けるように熱い。


この女、絶対まともじゃない。

…いや…こいつ、人じゃない。


男の目の前で、もたもたとカーミラが、

立ち上がろうとしている。

せっかく抜け出せたのに、傷ついた足が

すくんで動かない。

捕まったら最後、何をされるかわからない。

とにかく逃げるしかない。

逃げるなら、今しかない。

男は、血だらけで押さえた耳の傷口に、

あえて爪を立てた。


アアアアアア〜アァ…


新たな痛みは、男を正気にさせる。

声を出す事で、恐怖を紛らわした。


耳を押さえながら、足を引きずり、転がり、

這いつくばって、男は夢中で逃げる。

屋敷を出るまでの数分間、男は危機感で押し潰されそうになるのをこらえ、正気を保つのに必死だった。


屋敷を出ても、追って来るんじゃないかと気が気じゃない。

男は思うように動かない足にイラつき、

こんな足にした二代目を恨んだ。


ゴキブリ野郎…


ションベン通りを、男はつまづき、時折り転がって、足を引きずって行く。

そして何度も振り返る。

追って来るのは、変わり映えしない闇だ。

振り返るたびに、男はおびえる。

闇を割り、あの恐ろしい顔を突き出して追って来ると思っていた。




男はなんとかスナック通りにたどり着く。

たどり着くやいなや、白いワンピースの女が抱きついて来た。

女は泣いている。


「浮気して来たのね。」


血だらけの男を見ても、まったく驚かず、

女は言った。


「吸血鬼を抱いて来たんでしょ。」


「…吸血鬼?」


女の言葉に男は思わず繰り返す。


「吸血鬼を紹介したって言ってたもの。」


「ゴキブリ野郎が言ったのか?」


女はうなずく。


あの女…が…吸血鬼…?

馬鹿げた話だが、信じたくもなる。

あのゴキブリは、女を知っているのだろうが、

吸血鬼を紹介とは迷惑な話だ。


「ゴキブリ野郎は?」


「どっか行ちゃった。」


男は、スナック通りで寄り掛かれそうなシャッターを見つけ、座り込む。

尋常じゃないくらい、疲れている。

と同時に、吸血鬼から逃げ切ったと言う安心感の後、忘れていた耳と足の痛みが主張し始めた。


「そんなに血を流して、どんだけ吸わせてやったのよ。

あたしより気持ち良かったって事?」


女は男の前で立ったまま、さらに激しく泣いている。

本気で吸血鬼を抱いて来たと思っているらしい。

バカバカしくて、男は口をきく気にもならない。


「吸血鬼はダメよ。

そんなに怪我して、死んじゃうもの。」


泣きじゃくりながら、女が言う。


「幸せになろうよ。」


女が言った。


耳や足の痛みが、男を搾り上げる。

耳の血は、なんとか止まったようだ。

吸血鬼の歯型は一生残るだろう。

食い千切られなかっただけマシだ。


男はポケットをまさぐる。

タバコが吸いたい。

無かった。

どこかに落として来たらしい。


「子供はダメだ。」


男は思い出したように女に言った。


女は男の前でしゃがみ込む。

もう泣いてない。

嘘泣きだったか…

女はバツが悪そうに言った。


「赤ちゃんダメになっちゃった。」


女は悪びれる事もなく、ケロリと言う。


「誕生日のプレゼントは、すぐでなくていいから。」


女は嬉しそうに男の顔をのぞき込む。


「誕生日って誰の…」


男がつぶやいた。


「あたしのよ。」


「随分、先じゃなかったか…」


「あなたと会うたびにハッピーで、あたしは、

あなたに飽きられないように毎回生まれ変わってるの。

だから、あなたに会う日は誕生日よ。

そのうち子供もできるわ。

あなたからのプレゼントよ。

もう始末するなんて言わないでね。」


女は男に抱きつく。


ハッピバースデートゥーミー ハッピバースデートゥーミー


女は歌う。


…逃げるなんて許せない…

…どんな形であれ、付きまとってやる…


男は吸血鬼のささやきを思い出す。

これはカーミラが、逃げた二代目に言いたかった言葉なのだが、男はそんな事は知らない。


「幸せにしてね。」


この女は、この男でしか扱えない。

女は穏やかに狂っている。

男はそれを、少なからず気に入っている。


「吸血鬼なんかに渡さない。」


そう言って女は、男の唇に自分の唇を合わせようと顔を近づけた。

唇を合わせた時、子供っぽいが整った女の顔が、むごく傷ついたカーミラの顔と入れ替わる。

なぜこんな幻覚を見るのかわからない。

幻覚とわかっていながら、身体が強張り、男は激しく震えるのをどうする事もできなかった。


「幸せにしてね。」


女は男が怪我している事や、震えている事などお構いなしに唇を強く押しつけていく。

歯が当たった。

白いワンピースは、男の血や汚れが派手に移って、白い場所を探すのが難しいくらい汚らしく見える。

2人の姿は女が男を襲っているように見えた。


ハッピバースデートゥーミー ハッピバースデートゥーミー


女は歌う。


ハッピバースデートゥーユー ハッピバースデートゥーユー


男は震えながら女に合わせる。


カーミラの言葉が、千切れかけた耳の痛みに合わせて、繰り返し男の鼓膜を刺激する。


…逃げるなんて許せない…

…どんな形であれ、付きまとってやる…


男にとって、ウンザリな夜はもうしばらくすれば明ける。

夜が明けたら、傷を治して、すべてリセットだ。

ちょっともったいないが、この女もリセットだ。

それにしても震えが止まらない。


「疲れた、勝手に幸せになりな…」


男が思わず、つぶやく。


「何か言った?」


女が言う。


「何も言ってないよ。」


男がごまかす。


「震えてるじゃない。

吸血鬼なんかと浮気するからよ。」


ハッピバースデートゥーユー ハッピバースデートゥーユー


男が声を張る。



この時、マスクとサングラスの女が

ションベン通りからスナック通りへ出て

この男女の居る方とは逆に消えて行った。


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