第32話


ミドリが死んで半年程たった夜も、

街は相変わらず賑わい、朝まで酔っている。

どこから湧いて来るのか、

大勢の人がこの小さな街にたかって、

まるで誘蛾灯のようだ。

宵の口には居酒屋通りから活気付き、

夜が更けてこの通りが眠りにつくころ、

キャバクラ通りとスナック通りが活気付く。


スナック通りでは、永年ママに洗脳された

信者達が、あちこちで金を寄進するために

集い、店にこもってヘベレケになりながら

夜が白み始めるのを待つ。


キャバクラ通りでは3、4メーター置きに

黒服のポーターが立っていて、

みな一様に子供が書いたニコニコ画を

貼り付けたような顔で、

安っぽくりゅうちょうに甘い言葉をさえずる。


呼吸にアルコールを乗せ、

あてもなく彷徨う男は、

ポーター達のさえずりに、次から次へと

刈り取られ、キャバクラ店内へと

導かれて行った。


ミドリの死は、初めこそ、

この酔っ払うしか能のない街で、

衝撃的だった。

事件を語る人の口からは、

腐乱した遺体と暮らしていた女から始まって、

口から口へと伝わる度に話に尾ひれが付き、

屍人を操る女が死んだ子供を

生き返らせようと母親を殺してカラスに

食わせただの、

若さを保つためキャバクラで働きながら

男を漁り精液をすすっていたなどと、

御伽話めいて伝わって行った。

当時、ミドリの勤めていた店は、

さぞや迷惑をこうむったかと思いきや、

興味本位の酔っ払いが足しげく通い、

ちょっとしたミドリバブルのようになっていた。

店の名がホーンテッドハウスと言うのも、

功を奏したのかも知れない。


今は事件を語る者など居ない。

夜の街は飽きっぽい。

変わり映えの無いアルコール臭い夜が

繰り返されている。


変わった事と言ったら、

キャバクラ通りで毎晩のように金を落としていた二代目の顔を見なくなった。

この街では、羽ぶりの良かった客が

突然顔を出さなくなり、消えてしまう事など

よくある事で、さほど珍しくもないのだが、

顔を見なくなった時期がミドリ事件のすぐ後だった事と、ミドリの同級生だった事から

ミドリに手を出してミドリの男に殴り殺されて

埋められたとか、ミドリの死霊に付きまとわれて寺に籠って出てこれないだとか、

根も葉もない噂は今も飛び交っている。


実際、夜の街が知る二代目は死んだ。

ツチノコの乗ったような

ソフトモヒカンの髪は剃り込み、

肩こりの原因だった十字架のペンダントは

外して、法衣の似合う上品な坊主に変わっていた。

ミドリの死が、二代目に何かしら影響を

与えた事は確かであろうが、

ミドリの遺言状をたてに、ボウズバーを開く

野望を今も持っているかは定かでない。

日に3度聞こえる読経は、

録音から二代目の肉声に変わったが、

数ヶ月経った今も、相変わらず上達の兆しは

見えなかった。



この街で、ミドリの名を口にする者は

もう居ない。

ションベン通りの奥、墓場隣、寺向かいの大きな平屋だけが、誰もが知る場所になっていた。


男と女で行けば…

雨の夜は確実に出る。

血まみれの赤い女。

見たら必ず怪我をする。


雨の夜には決まって、怖いもの見たさの

カップルが、ここを訪れるようになった。

雨の夜、ションベン通りは酔っ払いのそそうに加えて、男女の悲鳴が聞こえるようになった。




雨が降っている。


夜のションベン通りを車がゆっくり進んでいる。

運転に自信がないのか、車はハイビームで進み、平屋が見えるとライトを消し、

さらにノロノロと寺の敷地で止まった。

車にはジーンズにシャツ、軽装でハンドルを握る二代目と、真っ赤なミニのスーツを着込んだ女が助手席に乗っている。

明かりのない車内で女の赤は暗さに映え、

ギリギリまで攻めたミニから伸びる長い脚は

妖しく誘っているようだ。


「派手な赤だね。」


二代目は、そう言って唾を呑み込んだ。

雨音と時折り動くワイパーの音が気持ちいい。

ウインドウを少し開けて、車内灯を点けようと

する二代目の手をさえぎって、

女が口を開いた。


「あたりまえじゃない、吸血鬼だもの。」


女の声には違和感がある。

声と言うより喋り方に原因があるようだ。

女は大きなサングラスとマスクをしていて、

顔のほとんどが確認できない。

髪は長く、伸びるに任せているように見えるが、手入れが行き届き、さりげなく顔をさえぎっているのが様になっている。


「俺に何をしろって、言うんだい?」


ワイパーの動きを追いながら二代目が言う。

女は奇妙な話し方で、それに答えた。


「そうねぇ…また、バッカスコールでもしてもらおうかしら。」


女は水滴のはうウインドウ越しに、向かいの

平屋を見つめている。


「名前がミドリなのに、血まみれの赤だなんて、彼女も有名になったものね。」


二代目も向かいの平屋を見つめて言う。


「あの家は、今じゃ無料の幽霊屋敷さ。

今日みたいな雨の夜には、ろくでなしの男と

メンヘラ女のカップルがやって来て、

何かしらやらかして行きやがる。

雨の日の悲鳴なんて、もう聞き飽きたよ。」


「…ろくでなし…と…メンヘラ…」


女がつぶやく。


「ミドリに会いに来るカップルは、しょっちゅう傷害を起こして騒ぎになる。

被害者は、同情の余地もないようなイカレタ男。加害者は、決まってか弱いメンヘラ女。

そのうち殺人でも起こるんじゃないかな…」


それを聞いた女の肩が小さく揺れ、断続的に

喉の辺りからつぶれたような音が漏れる。

たぶん笑っているのだろう。


「…ミドリさん、死んでも面倒見がいいのね…

忙しそう…」


「来る女にミドリの気まぐれな残念を押しつけているだけさ。

あいつも…趣味悪かったから…男の…」


二代目はため息をつき、両手で軽くこめかみを

押さえた。


「会いに行ったの…?…あの家へ……」


女が言う。


「子供の頃から散々いじめたんだ…

あいつは俺には会わないよ。」


二代目が言う。


「今はミドリさんもお母さんも居ないんだし、

お金さえあれば、あの土地と建物、あなたのものになるわよ。

まだ、坊主バーやるつもり?」


女の問いに二代目は答えない。


「…気を引きたかっただけか…

あなたのネグレクト話も、あやしいものだわ…

スカートめくりの二代目さん。」


女のマスクが唾液で濡れ、話すたびにペタペタと口をふさぐ。

かなり息苦しそうだが、マスクを外そうとも

ズラそうともしない。

それどころか、大きなマスクの位置をしきりに

気にしている。


「スカートめくり…

そんな事まで聞いていたのか…」


二代目が苦笑する。


「今、聞いたのよ」


女のマスクが器用に動く。


「今?」


二代目が不思議そうな顔を女に向けた。


「あなたの後ろの座席から、身を乗り出しているじゃない。

真っ赤なミドリさん。」


二代目は首を伸ばせるだけ伸ばして、

後部座席を覗き込む。

その狼狽えた様子を見て、女は笑った。


キャハハハ… ハハハハ… キャ… ハハ…


声にして笑う事は女にとって、かなり辛そうだ。

奇妙な笑いと喉の動きとの間の息継ぎで、

軽くケイレンしている。

苦しそうに、楽しそうに、ひとしきり耳障りな

笑いを車内に響かせた後、女は呼吸を整えて

つぶやいた。



「嘘よ。」



雨の車内は、かなり蒸す。

よく見ると女の細い首には、大小幾つもの傷が

刻まれていて、アザのようになっている。

それを濃いめのファンデーションで隠していた

つもりのようだが、

汗がさらしてしまっていた。

女は真っ赤な上着の前をはだけさせ、

自分の首元に両手を振って湿った風を

送っている。

中には白いシャツを着込んでいて、

女が両手で仰ぐ度に、形のいい胸が暗い車内で

イヤらしく踊った。


二代目は、つるりと剃り込んだ頭から

吹き出した汗が、眉とまつ毛を通過して

目を痛めつけているのにも関わらず、

女の胸の動きに魅せられている。

女はそれを見逃さない。


「飲み歩くのはやめたようだけど、女好きなのは変わってないようね。」


二代目は慌てて目を伏せた。


胸の動きは明らかに下着をつけていない。

けれど、どこか動きに不自然さがある。


「バッカスコールの夜、何があったかくらい

酔い潰れていたあなたでも、耳にしているんでしょ。」


乳首だ。

シャツ越しに存在を主張するはずの乳首の姿が、右の乳房の先端に見つけられない。


「ホーンテッドハウスに戻るつもりかい?」


二代目が言った。


女はそれには答えず、ゆっくりとシャツのボタンに手をかけながら言う。


「特別に、自慢のオッパイを触らせてあげるわ。」


ボタンを外した後、女は二代目の左手をつかんで、いきなりシャツの中に突っ込んだ。

予想した女らしい柔らかさに反して、

言いようのない不快な感触が掌に伝わり、

二代目は慌てて手を引っ込める。

女はボタンの外れたシャツと上着を両手でつかみ、観音開きに開いて二代目に突き出した。

青白く女の上半身が車内の闇に溶けている。


…そして、どう言う訳か、今まで切れていた

近くの街灯が、このタイミングでついた。

街灯の灯りが車内に届く。


二代目は、大声をあげたくなるのを喉の奥で

潰して、必死に耐える。

女は灯りが届いた事に驚き、本能的に観音開きを閉じたが、覚悟を決めたようにゆっくり服を

開いて両手を落とした。


女の上半身は、3分の2を別の生き物に乗っ取られているように、呼吸するたび、醜くうごめく。

胸の中心から、落書きのようなアザが右乳房に向かって広がって、太く赤黒い線が2本、

あるはずの乳首を探してのたうっていた。

乳輪にまるでコルク栓をねじ込んだように

乳首がない。

そして、最もおぞましいのは痛んだ皮膚だ。

カリフラワーに薄皮を被せたような皮膚の凹凸が、上半身のほとんどをむしばんでいる。

右の乳房はかなり痛んでいて、カリフラワー

そのものをぶら下げているように見える。

それが、女の動きに合わせてうごめき、

まるでウジがたかっているように見えた。

左乳房は無傷で美しいだけに悲しい。


「どう?素敵なオッパイでしょ。

キスもサービスしてあげるわ。」


女はサングラスとマスクに手をかけて続づける。



「こんな顔でいいならね。」



パッファー ギャャャ… ファー アッアッ…


長いクラクションが雨のションベン通りに響き、それにすがるように、二代目の悲鳴が続く。


女の顔は、かつてキャバクラ通りNo.1の店で、

トップに君臨していた者のものとは思えぬ程、

恐ろしげに崩壊していた。

顔自体歪んでいる訳でもないのに、くの字に

ひしゃげ、歪んでいるように見えるのは、

左の目尻から左頬をエグって左下唇を削ぎ、

あごにぬける太く深い傷のせいだ。

その傷に付き従うように細かい傷が左頬を無数に刻む。

肌は胸ほどではないが、ところどころカリフラワーを移植したように痛んでいた。


「ヒアルロン酸注入、脂肪注入、皮膚移植、

やれるものは何でもやったわ。

頬の傷は、神経や筋肉にまで行っていて、

手の施しようがないみたい。

顔や胸で細かく破れたグラスの破片は、

無数に皮膚に入り込んで取りきれないのよ。

これが限界。

右胸は酷すぎて、乳癌患者みたいに取っちゃおうと思ったけど辞めた。

顔がこんなじゃ意味ないもの。」


女が話すたびに顔の大部分がひきつり、

削げた唇に唾が泡になって溜まり、見苦しい。

女の言葉が聞きにくいのは、崩壊した口元を

かばって喉で声を発するせいだ。

首の辺りまで時間をかけて作ったであろう

化粧が、汗で流れ、見苦しさに輪をかけて

目を背けたくなる。


「…酷い…」


二代目がつぶやく。

女の姿は、二代目の視線をつかんで離さない。

二代目はいきなりだったとは言え、彼女の姿に狼狽えて悲鳴をあげた自分を羞じた。


「店は、する事はしてくれたのかい?」


二代目が口を開いた。


「…店って…?」


女は言いながら溜まった唾に気づき、右手の甲で拭った。


「聞いた限りじゃ、寄ってたかってキャスト達にやられたんだろ?」


「そうね。」


「慰謝料とか、治療費だとか…」


「治らないなら、そんなものもらったって仕方ないじゃない。」


「すぐに救急車、呼んでくれたんだろ。」


「店はやってくれたわ!

私がこんななのに普通に営業して、時々

スタッフが、グラス片の刺さった顔や胸に、

大量のおしぼりで押さえつけて、血止めの真似事で救急車も呼ばずに、更衣室で寝かしてくれたのだもの。」


「バッカスコールなんてしなけりゃ、こんな事にはならなかったかも…」


「あなたは最高に食えるゲストよ。」


近くの街灯が再び消える。

車内は再び真っ暗になった。

二代目がウインドウを開けられるだけ開ける。

多少、雨が車内を濡らすが、気にしない。

ただ車内灯をつける事はなかった。


「さあ、ミドリさんに会いに行くわよ。

彼女に会うために、わざわざ雨の夜を選んで

あなたを誘ったんだから。」


「なんでミドリ?」


「最後のゲームをするのよ。」


「…最後のゲーム?」


「私とゲームして勝ち逃げなんて許さないわ。

死霊になろうが化け物になろうが、

最後のゲームには付き合ってもらうわ。」


サングラスとマスクを車内に放ったまま、

女は外に出る。

今は隠すつもりがないらしい。

手入れのいい髪と真っ赤な服が雨に濡れていく。

慌てて二代目が後を追い、ビニール傘をさしかけた。


「私とミドリさん、どっちが怖い?」


二代目は答えない。


「最後のゲームよ。」


ビニール傘は雨を縫うように、2人をミドリ宅へ運んでいるようだった。




女は吸血鬼カーミラ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る