第33話
木造平屋のミドリ宅は半年も主人が居ないとは思えず、建物自体はしっかりしていて、
廃墟とは言いづらい程、傷んではいないようだ。
手入れのしていない生垣には、
放られたゴミが幾つも絡まっている。
数ヶ月前、建物の真前に新しく、
かなり明るい街灯が何故か道側でなく、
建物側に向いて設置されたおかげで、
以前のような黒い異界感は無くなった。
廃墟にありがちな落書きも、
この街灯のおかげで、見ようによっては
ライブハウスのように見える。
寺側にあるついたりつかなかったりの
弱い気まぐれな街灯とは大違いだ。
寺の駐車場からミドリ宅まで、
大した距離でも無いのに、
二代目のグリーンの車は闇に溶けて見えなくなっていた。
「…アーメン…」
カーミラはそう言って、はだけた胸の前で小さく十字を切る。
街灯の明るさと差し掛けられた傘を迷惑そうに、なるべく二代目に顔を見られぬよう、
距離を取った。
玄関前はかなり明るく、
カーミラの後ろ姿が映える。
真っ赤なミニのスーツが二代目の瞳を焼く。
抜群のスタイルは健在だ。
落書きだらけの入口は、引戸が1枚なくなっていて、だらしなく開いている。
玄関は雨で、水溜りになっていた。
「今度は負けないわよ…」
カーミラは足下が濡れるのも気にせず、
ビシャビシャ音を立てて中に入る。
二代目は足下を気にしながら、
あわててそれを追った。
「長い廊下ね。」
街灯の明かりが玄関の水溜りに跳ねて、
奥まで届いている。
明かりが揺らめくのは、カーミラと二代目が
水溜りを踏んで乱したせいだ。
幽霊屋敷と言うにはかなり明るいが、
突き当たりまでは光が届かない。
そして左に広がる一間の奥にも光は届かない。
中身が抜けて枠だけになった障子や襖が、
所々はまっていて、風もないのに雨音に混じってキシキリと薄気味悪い音を不規則に絞る。
「この場所、ミドリさんと言うより、
今の私にお似合いよね。」
そう言うカーミラの癖のある声は、
この場所に似合い過ぎている。
ここで、いきなり彼女に出くわしたら、
二代目はさっきのような情けない悲鳴に加えて、間違いなく腰を抜かしていただろう。
「ここは、あんたの家じゃない。」
口を尖らせ、二代目が小さく声を張った。
カーミラに悟られる程ではないが、
二代目はずっと震えている。
それは、単純な恐怖ではない。
坊主と言う仕事がら、死体など飽きる程
見て来たし、幽霊や怨霊など、その手の話は
まったく信じていないのだが、
廃墟になったとは言え、幼少から知り合いの
異性宅へ初めて入る興奮と、
もうこの世から消えて噂話の女主人公と化した
ミドリに対して、確信を持って何かしようとしているカーミラの動きに無意識に反応しているのだ。
ミドリ母娘の痕跡を踏み締めながら進む二代目とは対照的に迷いなく奥まで進むカーミラ。
彼女は、まるで家の間取りを知っているかのように、薄暗い突き当たりにドアノブを見つけると、ためらいなく引いた。
空気が変わる。
ドアの先には、かなり広い部屋がある。
もとは白だったのだろうか、薄汚れた土壁と
そこらじゅう書き殴られた落書きに威圧され、
二代目は入室をためらう。
カーミラはもう部屋の中心に立っていて、
軽く指先を振りながら、二代目を招いた。
落書きだらけの部屋の中、入口を背に正面と
左右の壁に、大きく落書きの抜けた場所がある。
そこは、元々窓だったのだろうが、
壊されて簡単に外に出れるようになっていた。
柱が見当たらないのと、壁が大きく3箇所も
抜けている事から、部屋がきしむ度に、
歪んでつぶれてしまうような不安が付きまとう。
壁が抜けている割に雨の吹き込みはなく、
雨漏りもないが、雨音が外に居る時よりも
部屋に響いて妙に耳元を刺激した。
「ミドリさん。」
カーミラが言う。
ちょっと距離を取って、二代目が彼女に
近づいた。
彼女の酷い姿や、部屋の暗さには目が慣れた。
距離を取ったのは、彼女への配慮のつもりだろう。
「ミドリさん。」
「… … …」
「ミドリさん。」
「… … …」
「ミドリさん。」
「… … …」
「ミドリさん。」
カーミラの声に、雨音と部屋のきしむ音しか
答えない。
埃臭さに混じって、微かに線香の匂いがする。
隣の墓場の匂いが染み付いているのだろう。
「ミドリ…」
二代目が口を開く。
ここに来た所で、屍人に会えるなんて、
鼻っから思っちゃいないが、
この場所は否が応にも生前のミドリを
思い出さずには居られない。
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
唐突にカーミラが何やらブツブツと唱え始める。
「それ… 何のつもり…?」
二代目が言う。
「むかし、マンガで読んだ呪文よ。
名前だけじゃ出て来てくれそうにないから…」
「バカバカしい…」
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
「帰ろう。」
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
「… … …」
「… … …」
「… … …」
「最後に俺が経を読むよ。」
二代目が手を合わせた。
「嫌だって!」
そう言って、カーミラは合わせた二代目の手を払う。
「下手な経にはウンザリだそうよ。」
カーミラは正面に開いた壁の穴を見つめている。
「…冗談はよせよ。」
「居るじゃない外に…」
二代目もカーミラの視線を追うが、
何も見えない。
「入れないそうよ。
お母さんを腐らせた罰だって…」
「おい!いい加減にしろよ!」
そう言ったものの、二代目もミドリの姿を探す。
「そんな所に居て、雨が降ってるのに濡れないのね。
死んだ人は違うわ。」
カーミラは身じろぎもせず、正面を見つめたまま続ける。
「そんなに赤が似合うとは思わなかったわ。
店に着てくれば吸血鬼の仲間にしてあげたのに…
でも、赤はダメね。
明かりがないと、闇に飲まれてくすんじゃう。
あたしの赤はどう?
死んだあなたの赤より黒く見えるでしょう…
吸血鬼が明かりなんて言っちゃダメね。
…あたし…
吸血鬼の前に女に戻れなかった。
お金も時間も、やれる事はなんでもやったわ。
けど…これが限界…
ミドリさん側からどうみえる?
夜の街で、酒とお金を華麗にむさぼっていた吸血鬼には程遠いでしょう。」
カーミラが二代目をからかっているとは思えない。
確かめるように、二代目が正面の穴に近づく。
ゴズリッ…
二代目が穴に飲まれて消えた。
抜けたすぐ外でコケたのだ。
暗い中、たいして足元を確認せずに、
勢いで出た。
無理もない。
立ち上がると足元に、少し凹んだ手付かずのビール缶が転がっていた。
外から覗くと、廊下まで伸びる街灯の光を背に
カーミラの赤が気味悪い。
救いは、崩れた顔が見えない事だ。
雨が二代目を濡らす。
たまらず、部屋に戻る。
右肘が熱い。
痛くはないが、転倒した際、かなり強くこすったみたいだ。
「最後のゲームをしましょう。」
落ち着きなく辺りを探る二代目の目には何も見えない。
「ミドリさんが勝ったら、読経の上手いイケメン坊主を何人も集めて供養するわ…二代目が。
あたしが勝ったら、そっちに行く際、この姿じゃなくて、女だった時の姿に戻すよう、閻魔様に頼み込んで。
この姿だけは、こっち側に捨てて行きたいの。」
カーミラが独りで語っているだけなのだが、
二代目は口をはさめない。
暗い中、カーミラの表情は見えない。
けれど、話しづらい口元を苦労しながら操って、喉から言葉を押し出しているのは伝わる。
正面を見つめ、違和感のある声で語るカーミラの様子に、二代目は今しがたコケて濡れた外で、
ミドリが立っているような気持ちにすり替わって行くのを感じていた。
「ゲームは簡単。
鬼ごっこの結果を当てるだけ。
あたしが鬼から逃げ切ったらあたしの勝ち。
捕まったらミドリさんの勝ち。
…いいわね…
次、あたしがここに来た時が勝負よ。」
言いたい事を言い、疲れたのかカーミラは肩を丸くした。
大真面目にミドリと会話するカーミラに、
ドス黒く強い意志を感じる。
男なら、多少、救われたかも知れない。
あの姿で女を生きて行くのは地獄だ。
カーミラを生かしているのは何だろう…
二代目は、そんな事を考えながら、居もしないミドリの姿を探していた。
「勝負…受けてくれたかい…?
…ミドリは…」
二代目が言う。
「こんな所で立ってるだけじゃ退屈でしょ。
返事は聞くまでもないわ。」
遠くで雷が鳴る。
今夜の雨はひどくなりそうだ。
「鬼から逃げるって…
何から逃げるつもりだい…」
カーミラは二代目にゆっくり近づき、崩れた顔を二代目の耳たぶに押し付けた。
カーミラの汗に混じっていやらしいいい香りがする。
背筋がザワつき、下腹部に力が入った。
「警察からよ…」
二代目の鼓膜を刺激する。
勃起した。
理由なく火がついた男の欲は、崩れていようが、腐っていようが、女であるというだけで
全てを凌駕する。
二代目はカーミラのそげた唇にむしゃぶりついた。
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
唇を合わせたまま苦しそうに、
カーミラがつぶやく。
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
この呪文の出るマンガは、二代目も見覚えがある。
「エロイム エッサイム… エロイム エッサイム…」
これは悪魔を呼び出す呪文だ。
二代目は、そげた唇から傷に沿って左目尻まで、一気に舐めあげた。
そして胸に顔を押しつけ、無傷で美しい左乳房には目もくれないで、ウジがたかったように見えるブロッコリーのような乳房に、夢中で口いっぱいにほうばった。
意地悪く、ありもしない乳首を舌で探し、
ウジのような凹凸を口いっぱいに感じると、
カーミラの喉から女の声が漏れる。
同時にカーミラの長い脚に掌をはわせた。
はわせながら、右腕に虫が潜り込んだわずらわしさがする。
血が流れていた。
さっき転倒した時だ。
思ったより深く切ったらしい。
痛みはまるでない。
血で汚れた方の掌を、スカートに滑り込ませ、カーミラの中心に当てる。
カーミラの下着は少なからず、二代目の生乾きの血で汚れたはずだ。
カーミラの喉から息に混じって音がする。
もはや声でない。
人間でも、動物でも、機械でもない。
不快な音だが、男の欲望を刺激する。
悪魔が降りてきた。
…エロイム エッサイム …エロイム エッサイム。
崩れた乳房をほうばりながら、二代目も呪文を唱えていた。
エロイム エッサイム。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます